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差別について語るのは難しい

学校からメールで、アメリカの都市部ではアジア人が人種差別の対象になっており嫌がらせを受けたり暴力を振るわれたりしているようなので気をつけてください、とお知らせが来ました。
朝のクラス会で差別について話し合ってください、との要望です。

アメリカでは人種差別が大きな社会問題

なんていう新聞の見出しを見て、ちょっと思うのは、それはアメリカに限ったことではなく、差別は人種やら性別やら出身地やらで日常的に行われており、自分たちは受ける側であると同時にやる側であるということです。

個人的な経験では、中国に住んでいた時は日常的に差別的な発言を耳にしましたし、面と向かって“日本人は嫌いだ”と言われたことも何度もありました。
私が日本人だとわかった途端にタクシーを降ろされたことも3回あります。
自分の中では人間は環境に形作られるものであり、周りの全ての影響を受け、自分を確立するものだ、と思っているので、そういう場面にあった時にはくよくよしたりイライラしたり、個人的な攻撃と受け取ることもほぼ無いです。彼らはそういう環境で育ちそういう教育を受けてきた、ということですから私の問題ではなく彼らの問題です。
差別がそのままでいいとは絶対に思いませんが、私を指差して“お前は日本人だから嫌いだ”と言う人に時間を割いてそれは差別だ!と抗議することが最善の方法とも思いませんでした。*ただ暴力や攻撃は別です。それは警察沙汰にしないといけません。幸い私はそんな目には合いませんでした。

ただ生徒にはどんな言動や態度、見方や受け止め方が差別的かは教えておきたいので、これまでも様々な差別や偏見については何度も話題にはしています。

アメリカに来てからは、人種の違いをまざまざと見せつけられたり感じさせられたりする場面が多く、私は差別をされているな、と思うことは多々ありました。しかしながら、高校を卒業してアメリカに来るまで私は差別をされたことがない、と思っていたことは間違っていたのも今はわかります。

貧乏だから
片親だから
よその土地の人間だから
女だから
年取っているから
独身だから
障がいがあるから

誰しもがいろんな理由をつけて、いろんな差別をします。地球上の全員が加害者であり被害者であろう差別問題。そして身勝手なことに、私を含めてほとんどの人間が、これまで自分が無意識にしてきたであろう差別を思い出せず、被害者としての視点しか覚えてない・・・これでは差別は語りにくい。

自分への戒め、生徒への学びとして告げるのはいつも同じです。
先入観をなるべく取りはらって
相手の立場に立って
発言をし、行動する。

長年生きてきても、何度考えても、どんな話を聞いても、結局変えられるのは自分自身しかないですので、社会をより良くするには個人がよくならないとだめなんですよね。本当に難しい。

学校のお便りに 
“そんな20分の対話だけで差別問題は語れませんて”
とツッコミをいれながらこの記事を書いているシマリスです。

シマフィー

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