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“なのに”と“だから”の壁

アメリカに留学してから3年目のある日、街の電気屋に入った時にこう言われました。

”We got nothing to sell to people who don’t speak English.”
(英語が喋れない様な人に売るものはうちにはないよ)

あまりに突然で驚いたので、とっさに返す言葉もなく店を出た後で、

“おい、私はまだ一言も喋ってないよ”と気づきました。

店番のおじさんは私の顔を見て決めたのです、コイツは英語を喋れない、と。

外国人・アジア人に偏見があったのか、何か嫌いな理由があったのか、わかりませんがそのおじさんの声はまだ鮮明に聞こえます。

PC (Political Correctness)、差別や偏見を言葉で表さないように(口にすると差別が助長されるから)、という動きはアメリカではもうずっと前から言われています。
例えば Policeman とは言わず Police officer に、という様に男女の差をなくしたり、Black doctor はdoctor など人種的な形容詞をつけて表現しない、という様な決まりです。
偏見やステレオタイプのせいで不当に扱われない様、面接の時に結婚しているかを聞いてはいけないし、履歴書に写真も貼りません。
それでもニュースでも街に出ても、差別的な発言は聞きますし偏見によって傷つく人がたくさんいます。

人種、性別、宗教の違いなどの差別は社会、特に学校・職場ではあってはならないこととして我が校の教師も生徒も毎年一度はセミナーや講義の様な形で何らかのトレーニングを受けます。このセミナーでは主に大人が本やビデオなどの課題を用意して、生徒たちと一緒に問題点などを話し合います。
こうやって書くと、大人はきちんと何が差別でそうでないかの線引きができているように見えますが、私個人の実体験ではどちらかというと生徒たちの方が偏見も少なく、露骨に差別的な発言をすることはないように思います。

私は外国人で、英語は母語ではなく、有色人種で女性の、ありとあらゆるマイノリティーです。
普段同僚たちや管理職にある人たちとの交流では、差別されてるなと思うことはありませんが、割としょっちゅう んん?これは偏見なのでは? と感じる扱いを受けます。

曲がりなりにも次の世代を担う中・高生を教える立場にいますから、先生方は言葉遣いにも注意して失礼のない様、差別をしない様、気をつけています。
それでも時々びっくりする様なことを言われます。

もうずいぶん前ですが、現在の職場で働き始め一年ほど経った時に、教頭先生から私が生徒の大学申し込み時に書いた推薦状について呼び出されました。
“何かまずいことを書いたかな?”と思いながら席に着くと、彼女はストレートに

“この推薦状は誰が書いたの?”と聞きました。

この推薦状は100%私が書いたものでしたので “自分で書きましたが何か間違いがありましたか?” と返事をしました。

彼女の答えは “あなたが一人でこの推薦状を書いたの?誰かに手伝って貰いました?”と私の文章力を問うものでした。
結局は私が書いた推薦状が私が一人で書いたとは思えないほど素晴らしかった、という話です。

外国人なのにいい推薦状を英語で書ける
一年目なのに、アジア人なのに、ネイティブじゃないのに、書ける。

彼女は“すごいじゃない!こんなに美しい推薦状を書く先生は初めてよ!”とニコニコで送り出してくれましたが、私は喜ぶ気には到底なれませんでした。

いつかは、夫が友達から “日本人の奥さんを貰うなんて、羨ましいなぁ〜”と言われた、と笑って教えてくれました。お互い私が世間一般のアメリカ人が想像する様な日本人女性ではないのは100も承知ですので、なんだかなぁ の感想しか浮かびません。

あなたはアジア人だから、アジアからの留学生はみんなあなたが好きね、と言われたこともあります。
その時はブラジルとロシアからの留学生と一緒で、私が何か言う前に
“僕らはアジア人じゃないけど先生が大好きだよ。”
“僕らは白人だけど、白人のあなたは好きになれないな。”
となんともいい返事をしてくれました。

偏見や差別はあから様に悪いものだけではなく、表面的には害のない様に見える

〜なのに
〜だから

の仮面を着けて誰の心にも潜み、誰の心をも傷つけます。

女性なのに子供が嫌いなの?
黒人なのにバスケしないの?
若いのにパソコン使えないの?
大卒なのに仕事がないの?
アメリカに住んでるから英語が上手だよね。
アジア人だから数学得意だよね。
日本人だから発音が悪いはず。
男だから泣いちゃいけない。

人間誰しも他人に対してのステレオタイプを持ち、また自分に向けられたステレオタイプに笑わされたり泣かされたりします。

違う人間同士が育った経験や環境で作り上げた“イメージ”(という名のステレオタイプや偏見)をものさしにして、人間関係を測ったり作ったりするのはごく自然なことで、それ自体が悪いわけではないのです。
しかしながら、その偏見やステレオタイプを正す機会や和らげたり、引き伸ばしたりと、調整できる目や心を持たないと、私たちは差別心でいっぱいの嫌なヤツになり下がります。

誰かと会う時、話す時に知らないうちに
〜なのに
〜だから
の壁を壊さぬままに突き進もうとしていないか、ちょっとだけ確認・修正する毎日です。

シマフィー

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