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わたしの言葉を拾って、捨てて。

20代の頃の作詞を読み返している。
せっかくあの頃の自分が書いたのだから、見ないで処分するのはなんとなく気が引ける。

見ていると、だいだい三分類できる。


書いたことも、背景事情も記憶しているもの。

書いたことは覚えてないけど、読んだら何となくあの頃の自分を思いだせるもの。

読んでも、何も思いだせない、何も伝わってこないもの。


いずれにせよ、とにかく古めかしい。
言葉使いが。

「白いバルコニーの一戸建て
子供は三人で 全部女の子
庭はチューリップとコスモスでいっぱい」

将来の夢としてこんな理想を語るものまで出現。

自分でもびっくりだ。
なんだ、この、いかにもな世界観は。
だいたい、わたし自身はこんな理想を一度も持ったことはないのに。
完全にその頃のありがちな言葉をなぞっているだけ。
しかも、チューリップとコスモス、季節が違うだろう。
お庭を同時にいっぱいにするには無理がある、苦笑。


昭和世代&令和世代、という扱いで1980年代から2000年頃を経て、令和までのヒットナンバーを紹介する番組を最近やたら見かける。

そこで昭和世代側の思い出ソングとして紹介される曲に出てくるような雰囲気の言葉ばかり、わたしの過去作に並んでいる。

その時代の作詞なのだから、そうなるのはいた仕方ない。

けれど、令和の今にコレをどうするんだ、という話である。

昭和の歌としてちゃんとリリースされたものが、今の時代に流れても、当時はこういう価値観だからね……で終わる話。しかも、リリースされた楽曲には、今聴いても通用するカッコよさ、胸を打つものがたくさんある。

わたしが今から古めかしいだけの言葉をわざわざネットに放り出す意味はない。



さらに、書いてあることが………暗い。

そんなに片思いや失恋ばっかりじゃないのに(笑)、淋しいだの苦しいだの、悲恋めいた言葉のオンパレード。
淋しい私を造り上げる言葉がじめじめと並んでいる。

自分で思うのは、「それっぽく書いた」という点がアウトだということ。
本当に苦しい思いに向きあって描いたのではなく、多少の切なさや些細なことを、数少ない手持ちの言葉で精一杯大袈裟にしている。
だから、どこかそらぞらしいし、それっぽくはあるけどいまいち響かないのだ。

と、いい歳をした自分から辛辣に批判される20代の自分の作詞。

しょうがない。
あのころ精一杯だった自分よりも、今の自分の方が比較にならないほど、経験値は爆上りだし見えている世界も違うのだから。

今のわたしが作詞をするなら、シアワセな世界観を創りたい。



そんなわけで、その中でもちょっといい事書いてるんじゃないか、という部分だけ拾ってメモして、残りは捨てている。

書いた経緯も覚えていない、読んで恥ずかしさしかないものは、即処分。

捨て始めたら、さくさく捨てられる。

言葉の断捨離もいいものだ。





これも捨てるつもりで、読み返してふと思った。


「サヨナラ そして アリガトウ」というタイトルの作詞。

ずいぶん遠くへ行っちゃうんだね
前からわかっていたことだけど
こうしてホントの話になると
やっぱり淋しい気がするね

二人が出会ったこの街から
あなたの姿が消えてゆく
わたしはいつまで此処にいるのかな?

こんな出だしで始まる。
まず、誰のことを書いたのか、自分でもわからない………

サヨナラ そして アリガトウ
短いようで 振り返ればたくさんの日々
あなたと一緒に描いた
夢と笑顔と 少しのコイゴコロ
ぜったい また会えると信じてる
ひとりになっても
明日から また わたしの毎日を
ちゃんと楽しく生きていくからね


ひとりになっても、と言うほど、ありがたいことに対人関係でひとりぼっちになったことは、この頃にはない。
だいたい、「あなた」とは。
いったい誰と一緒に少しのコイゴコロを描いたというのか………

と、読み進めていくと、こんな歌詞が出てきた。

壊れて新しく生まれ変わった街
今までのあなたを見てきたけれど
そういう所に行ったら きっと
新しいあなたになってくね

ここで思いだした。

神戸に転勤になった、大学時代に先輩のことだ、と。

就職した時から、やがては地方に転勤になるとわかっていたお仕事だった。

そして、神戸に転勤になったと聞いて書いたものだ。

書いたこと自体は、本当にまったく覚えていなかった。
でも、確かにその先輩のことは、学生時代にちょっと好きだった。

………なるほどね、昔の自分よ。


卒業して、さらにだいぶたってから、
「先輩のこと、ちょっと好きだった時期があったんですよね」
と話して、
「それなら、早く言ってくれたら良かったのに」
と好意的な言葉を返してくれたことがあった。


一緒に少しコイゴコロを描いていたとは言い難い。
この人はごくごく常識的で優しいので、少しコイゴコロを持っていたと白状したわたしに、無難な返しをしただけ。


転勤後、その先輩はネットを通じて知り合った女性と結婚した。
先輩の私設サイトに、熱心にアクセスしてきた女性だったらしい。
リアルに連絡を取ってみたら、めちゃめちゃ美人さん。
これは逃すまい!と先輩の方が舞い上がって、結婚に持ち込んだと聞いた。

それももう、二十年近く前の事。




ぜったい 幸福になってね
あなたがいなくても
これから また わたしの人生を
ちゃんと楽しく 生きていくからね


こんな言葉で終わっている。

わたしは、その先輩がいなくなって、淋しいとか不幸だと思うこともなく、それなりには楽しいこともありながら生きてきた。

ちゃんと生きていくから、とこの頃謳って、今、文字どおりちゃんと生きている。

先輩のことはさすがに記憶に残っているけど、この作詞を印刷したペーパーを保存しておく意味は、絶賛断捨離真っ最中のわたしには見つからない。

これをここまで書くきっかけにはなった。
そして、ふと、こういうことをだら書きしてる場合じゃないと我にかえった。
今は何をしたいのかを、あらためて思いおこさせてくれた。
その限りでは、無駄じゃない。


作詞を残しておきたい、とどこか心の奥で寂しく感じるものの、他の断捨離と同じで、もったいない、思い出だから、いつか何かの役にたつかも、という理由でとっておくのが、物が溜まってゆく理由なのだ。




ご縁があったら、またどこかでお会いすることでしょう。
この言葉たちも、そして先輩も。


サヨナラ そして アリガトウ    完

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