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シグマの鏡

想像力が欠如した人間、らしい僕は。

重い荷物は女性から引き受ける、信号は守る、高架橋で老人の手を取る、それでも僕は想像力が欠如している。誰の気持ちを推し量ることも出来ず残りの人生を独りで生きていく、らしい僕は。

子どもの頃、母が泣いている姿を見てハンカチを差し出した。母は僕の手からそれをもぎ取り、必死に引き裂こうとした。涙を拭かずに、ひ弱な腕に力こぶを浮き立たせ、両の手に握ったハンカチを上下に揺さぶりながら、空をシェイクする。母は悲しんでるようだが、僕にはどうする事も出来ないらしい。僕は父親に電話をかけ母の状態を伝えた。受話器を置き振り返ると、そこには真っ赤な眼球が二つ。

「何で分かんないのかな。何でそんなわかんないのかな」

確かに、僕は母の言わんとする事が分からない。僕は首を傾げる。すると母は優しげに僕を抱きしめる。理屈は分からないが、とにかく僕には母の背中を撫でる事しか出来なかった。数日後、母はいなくなった。

高校生の頃、クラスメイトの一人が泣いていた。何で泣いてるのか聞いてみる。何度聞いても彼女は顔を伏せて泣くばかりで、気付けば僕が彼女を泣かせた事になっていた。理屈は分からない。僕は教室に居場所を失った。数日後、僕が泣かせたらしい子はいなくなった。

卒業後は西武新宿線沿いのボロアパートに越し、そこから徒歩圏内のセレクトストアに勤めだした。僕の接客は人当たりが良いと評判で、リピーターが増えたと店長も喜んでいた。いつしかブログの更新も任せられるようになり、シグマのミラーレスカメラを手に撮影技術を学ぶに至った。

充実した二年間、僕が二十歳になった頃、一人のお客さんに声をかけられた。好意的な瞳を僕に向けて、恥ずかしそうに微笑む彼女。「これ、凄く評判良かったです」どうやら僕の勧めで買った服を身に着けているらしい。よく覚えてないが、僕も笑顔で応える。程無くして彼女から連絡先を貰い、トントン拍子で付き合うことになった。

大学生で年齢は僕より少し上、歳の差を余り気にしたことは無い。大学で人文学を専攻する彼女は、美しい女性だった。背丈は僕と同じ位、手足がスラリと長く、髪の毛は艶やかなボブカット、まるで古い映画の女優さんみたいだ。言うと彼女は嬉しそうに笑っていた。

君はどこか、僕のお母さんに似ている……その言葉を心の内に、僕と彼女は人生を重ねる。知らない人間が声をかける。「姉弟ですか?」ビアホールで、雑貨店で、ところどころで。「恋人なんです」その度に彼女は微笑んだ。

彼女との思い出は全てシグマに収めてある。ファッションが好きで笑顔が素敵な彼女はもういない。四年連れ添った彼女は最後、僕にこう言い残した。「想像力が欠如している」そして

「そうやって君は独りで生きてくんだ。可哀想な人だね」

彼女が去って三か月、僕は虫けらの様に過ごした。人は動かないと太ると言うが、僕はその反対らしい。自分の手首を握ると、ポキリといってしまいそうな気がする。ある日、近所の住人から異臭がすると苦情を入れられ、仕方なく掃除することにした。そこで押し入れの奥に彼女の夏服一式がしまい込んである事に気付いた。今年の夏、彼女が着るはずだった服。下着も含め段ボール一つ分はある。彼女に連絡を入れると淡白な文面が返ってきた。

『棄ててください。二度と連絡しないでください』

僕は一切の服を脱ぎ、姿見の前に突っ立った。肘の前後の細さが同じ、男性的な脹脛は削げ落ち、鎖骨が酷く出っ張ってるように見える。恐らく今の僕は全身の骨の感触を指先で確かめる事が出来る。これが想像力が欠如した人間の身体か。僕は人の気持ちを想像したいと思った。

何の気なしに、当たり前の様に、僕は彼女の下着を身に着けた。先ずは下……随分と納まりが悪く感じる。次は上……ワイヤーホックの締め付けは意外にも心地良い。なのに、僕の胸は空洞だ。姿見には滑稽な空虚が映った。

彼女はどんな気持ちでこの下着を選んだのか。去年の夏の終わり、今年も着る予定だったワンピース。彼女は何故別れ際、あんな言葉を残したんだろう。彼女は僕の事を本当に好きだったのかな、それとも嫌いになったのかな。

……その時、僕は気付いた。人の気持ちを考えるにはどうすればいいか。僕は今、彼女の気持ちを延々と考えている。彼女の想像に想いを馳せている。これなのだ、人の気持ちを考えるという事は。僕に欠如していたものは。彼女の視点、彼女の想い。

それから僕はアルバムを開いた。彼女との四年間を、彼女の髪形を、メイクを、仕草を、表情を、身体を、身に着けた衣服の全てを観察した。僕が僕と言う人間であるが故に彼女の気持ちを考えられないなら、僕が彼女になればいい。それが彼女の視点に立つということだ。そうすれば、僕は彼女の気持ちを考える事が出来る。深く、深く……彼女の想像が僕の心に同居する。すると僕は一人であって、独りじゃなくなる。想像力に満ちた、他人の気持ちを深く考えられる人間になろう。

その日のうちに先ず脚の毛を剃った。しかし日を跨ぐと直ぐに生えて来る。そういえば彼女は脱毛をしていた筈だ。僕もそれに倣う。髪形を何とかしなければならない。美容室に赴き、トリートメントを丹念に、綺麗なボブカットにして貰う。化粧の練習をしなくてはならない。薬局で一通りのセットを買い、彼女の顔に近づける。少しずつ、でも確実に。線が細い身体でよかった、彼女の夏服は僕にピッタリだ。でも何かが足りない。補強下着、パッド入りガードル、空虚な胸元にパッドを敷き詰める。数か月が経つ頃には、姿見には別れた彼女の姿があった。

街に繰り出し、彼女との思い出の地を歩く。嘗ての彼女と同じポーズで、嘗ての僕と同じ目線でシグマのシャッターが切られる。今日の日付の一枚に、彼女は美しく映っている。そうだ、シャッター音が鳴るこの瞬間、彼女は幸福を感じていたのだ。だからあんなにも美しい表情をしていたのだろう。僕の中で、彼女の心が育っていった。そして僕の中の彼女は思った。「私は美しい。私を知って欲しい」

『カオリ』という名前でアカウントを開設した。記し忘れていたが別れた彼女の名前は野村香織。僕の名前は……どうだっていい。一年後、香織から電話がかかってきた。

「……『カオリ』ってアカウント、あれ私だよね」
「でも香織じゃないよ。フォロワー凄いよね」
「は?どういうつもり?」
「人の気持ちを考えるってどういうことか」
「……何」
「やっと分かったんだ。僕は未成熟で、自分勝手で自分本位、至らない大人、想像力が欠如した人間、まさにそうだった。でも君のお陰で気付けた。僕はもう、独りじゃない」
「何言ってんの?」
「僕は、想像力に満ちた人間になる。ちゃんと君の気持ちを考えられる大人になる。今までごめんね」
「私の話聞いてる?」
「でも安心してほしい。僕はもうカオリの気持ちは絶対裏切らない。賭けてもいい」
「……頭おかしいんじゃない?」

僕は電話を切る。カオリの写真は評判が良い。沢山の人が彼女の姿に日々癒されている。彼女は善人だ。沢山の人の幸せを願っている。僕はそんな彼女の善行の一助が出来て、幸せに思う。

また彼女の夏服を着る季節がやって来た。日焼け止めを塗りたくって、唇を潤し、爽やかな白のワンピース。麦わら帽子の似合う彼女は、とても綺麗だった。

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