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知っておきたいデザイナー№4: カッサンドル

ビジネスに使えるデザインの話

ビジネスにデザインの知識はけっこう使えます。苦手な人も多いから1つ知るだけでもその分アドバンテージになることもあります。noteは毎日午前7時に更新しています


“知っておきたいデザイナー”×7

「知っておきたい」というのは、何のためにかというと、デザインというものを理解するために、であり、デザイン業界において重要なデザイナーたちとその作品をおさえておくことで、デザインというものがどういう流れを辿ってきたのかを効率よく理解できるようになります。そんな「この7人は知っておきたいデザイナーたち」を紹介していきます。一人目は、スティーブ・ジョブズにも怒った巨匠、ポール・ランド氏。二人目は、日本のグラフィックデザインをがっつり底上げした、亀倉雄策氏でした。3人目は、映画のデザインを大きく前進させたソール・バス(ロゴの制作でも活躍)でした。そして4人目の今回は、亀倉雄策氏も大きく影響を受けたカッサンドル氏を紹介します。

今までの「知っておきたいデザイナー」の記事はこちらのマガジンにまとめています。


アドルフ・ムーロン・カッサンドル

アドルフ・ムーロン・カッサンドル
source: hotcore.info

アドルフ・ムーロン・カッサンドル(Adolphe Mouron Cassandre、1901 – 1968) は、ロシア帝国(現ウクライナ)のハリコフ生まれのフランスのグラフィックデザイナー、舞台芸術家、版画家、タイポグラファー、書体デザイナー。ポスターのデザインで有名ですが、彼がデザインした書体、Peignot(ペイニョ)は現在でも広く使われています(東京の至るところで目にします)。略称として、A. M. Cassandreを作品へのサイン等に使用していました。

カッサンドルの生涯

1901年に当時はロシア帝国であり、現在はウクライナのハリコフでフランス人の両親に生まれます。

2022年3月のロシアに侵略を受けるハリコフ
画像引用:読売新聞オンライン

1914年(13歳)、第一次世界大戦で兄が戦死。
1915年(14歳)、フランスのパリに移住します。カッサンドルの両親は、貿易商を営むフランス人であったため、フランスとロシアを頻繁に往復する生活を送っていました。
1917年(16歳)、ロシア革命が起こる。
1918年(17歳)、フランスの芸術家養成学校、エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts, ENSBA)に短期間在籍し、その後アカデミー・ジュリアン(Académie Julian:かつてフランスのパリに存在していた私立美術学校)で印象主義の絵画を学ぶ。その後、リュシアン・シモンに師事する。バウハウス(1919年、ヴァイマル共和政期ドイツのヴァイマルに設立された美術と建築に関する総合学校)に興味を持ち、徐々にその影響を受けてゆく。

リュシアン・シモン(Lucien Joseph Simon、1861年7月18日 - 1945年10月13日)はフランスの画家。

1922年(21歳)、最初の広告の仕事を世に送り、このとき作家名として「カッサンドル(Cassandre)」と署名(1928年頃まではしばしば「ムーロン・カッサンドル」と署名している)。カッサンドルは初め、この職は画家として身を立てるまでの食い扶持のために過ぎないと考えており、「絵画はそれ自身で目的になるが、ポスターは売り手と公衆の単なるコミュニケーション手段にすぎない」と認めていました(※1)。しかしカッサンドルは、広告のためのグラフィックデザインに習熟するにつれ、徐々にこれに熱中してゆき、これを「芸術画家が失った公衆(ひとびと)との回路を再発見する」手立てと考えるようになっていきます。

1924年(23歳)、マドレーヌ・コヴェ(Madeleine Cauvet)と結婚して、息子アンリを儲ける(1939年に離婚)。

1925年(24歳)、家具店のための広告として1923年に制作した「きこり」(Le Bucheron)によって万国工芸博覧会でグランプリを受賞し、その名を広める。このときの評判がシャルル・ペニョとの出会いのきっかけとなる。

「きこり」(Le Bucheron)(1923)
source: Retrographik

1926年(25歳)、事務所「アリアンス・グラフィック」(Alliance Graphique)を開設。

1936年から1937年にかけて、アメリカに住み、雑誌「ハーパーズ・バザール」(Harper's Bazaar)のために働き、多くのカバーを制作しています。 レイモン・サヴィニャックは彼の助手で、後に独立しています。

カッサンドルが手掛けたハーパース・バザールの表紙(1938)
source: rare-posters.com

第二次世界大戦が始まると、カッサンドルはフランス軍に従軍し、フランスが滅亡するまで従軍します。戦後は、この仕事を続けながら、イーゼル・ペインティングにも復帰します。エルメスのトランプやスカーフ、イヴ・サンローランのロゴなど、フランスの有名ファッションブランドとも仕事もしていました。

1940年代以降、広告関係の仕事をやめ、装飾や舞台、絵画で活動するようになりました。

1947年(46歳)、ナディーヌ・ロバンソン(Nadine Robinson)と再婚、1954年(53歳)に離婚。徐々に抑鬱的になっていく。

1968年6月17日(67歳)パリで拳銃自殺。67歳没。

ペイニョ鋳造所と書体

カッサンドル氏は長期間にわたってジョルジュ・ペニョおよび彼の活字鋳造所と恊働しており、ビフュール(Bifur、1929年)アシエ・ノワール(Acier Noir、1935年)、およびペニョ(Peignot、1937年)などの書体を制作しています。

アールデコ的な書体、ビフュール(Bifur)(1929)
source: pintarest
アシエ・ノワール(Acier Noir)(1935)
source: pintarest
ペニョ(Peignot、1937年)
source: Creative Blog

イヴ・サンローランのロゴもカッサンドルがデザイン

上述もしていますが、カッサンドルはイヴ・サンローランのロゴも手掛けています。

Yves Saint Laurent Logo, 1963 ( A.M. Cassandre)
source: medium.com

その他のカッサンドルの作品

魚のバスとかけています。

Nord Express (1925)

source: permild-rosengreen.com

Etoile Du Nord (1927)

source: MoMA

La Route Bleue (1929)

source: MoMA

Triplex (1930)

source: artsy.net


Dubonnet (1932)

source: catawiki


L’ Atlantique (1931)

source: bill poster


Normandie (1935)


まとめ

広告というものがこの世に誕生したのは産業革命がきっかけで、具体的には20世紀初頭になって初めてデザイン事務所が誕生しています(ウィーン工房(The Wiener Werkstätte))。アートとデザインは、「主体が異なる」わけですが、それについてカッサンドルはそれと気づき、デザイン側に身をおいた人物です。そしてその功績は、流行という強風にさらされる広告という世界になりながら、残り続ける作品を残していきました。コンラッド東京というホテルのエレベーターには、カッサンドルがデザインしたPeignot(ペイニョ)という書体が使われていました。アール・デコ、バウハウスという芸術運動にも大きく影響されながら、多くの作品を広告というフィールドで残したカッサンドルは、覚えておくのに値する存在です。

コンラッド東京のエレベーター


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参照

※1

※2

*3


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