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日曜日のnote:プライドを捨てて得たもの

この日曜日のnoteでは、Aセクシャルな私の悩み・経験・過程等、様々な支えと共に今、そしてこれからのことを記録していきます。同じ悩みを抱える人の目に偶然止まった時、どこか楽な気持ちになれますように、そして読んだことをすぐに忘れられるくらい優しい日常になりますように心を込めて。


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自分のセクシャルをなかなか認められなかった理由の一つに、自分のプライドの壁があった。

小さい頃から周囲からの承認要求が強く、褒められる事を目的として何事にも取り組んできた。勉強も部活も、ゲームでさえ「凄い」と言われたかったのだ。そんな思考が基準の生活だったからこそプライドだけが高くなり、自分の目指す理想像が出来上がってきてしまっていた。「将来は仕事をしっかりして、バリバリの仕事のできる人と25歳で結婚して、27歳から子供を産んで男女男で3人欲しい。しばらくしたら職場復帰して、、、、」。

そんな頭に浮かべやすい模範のような生活を夢見ていた。


正直、学生時代は自分のようなセクシャルに悩むような素振りを見せる人であった事がなく、テレビで得られる情報と見るのはニューハーフの芸人・タレントばかりで、彼女・彼たちの苦悩を頭で理解できても「自分はその場所とは違う・あそこには行きたくない」と本当に失礼な拒否反応を起こしていた。

「自分は違う」それはプライドの高さから生まれた感情でしかなかった。


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プライドがあることはいい事だ。それで自分を鼓舞する事ができる、周囲の刺激になるから、仕事面では格好良く目に映るだろう。でもそれは時として害になる。言葉に出さずとも、頭の中で関係のない人を攻撃する瞬間が訪れて、それに対して嫌悪感を覚えるようになる。

それは苦しい事だ。いくら自分のことで悩んだとしても、人を攻撃することだけはしたくない。傷つくのは私だけでいいはずなのだ。

私がセクシャルを今、認められるようになったのは(いや本当は今もまだあの時に描いた理想の生活を夢見る日もあるけれど)、そのプライドを捨てる覚悟ができたからだなのだと思う。失礼にも冷静に見つめていた芸能人に対して、理解をしようと思い、自分の葛藤をすり寄せるようになり、いつからか知り合いのような視点で見る事が増えた。


自分の理想の将来をある程度手放すかわりに、人を大事にできるのであれば、私は私のした選択は間違っていないと思いたい。そうじゃないとあまりにも報われなさすぎて、それこそ自分のいる意味が分からなくなってしまうから。




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