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終わりが来ることがわかっていても、それでも生きていくしかないのかな?

生きていると降りかかってくるのは、楽しい事ばかりじゃない。それどころか、苦しい事の方が多くて割に合わないとすら思えてくる。

「生きるためにはコストがかかる。苦い思いをしながら生き続けるくらいならいっそ、サクッと終わりにしてしまおうか?」

「いや、終わらせるのはその気になればいつでもできる。今じゃなくてもいいじゃないか」

人間はいつか必ず死ぬのに、死んだ後には何も残らないのに、どうして苦しい思いをしてまで生きなければいけないのか?

ジブリのリバイバル上映でゲド戦記を観に行ってきました。

特にジブリファンという訳でもないのだけれど、ちょっと物語を摂取したくなって。そう言えばジブリシリーズがリバイバル上映されてるんだっけ、と近場にある映画館でその日一番遅い時間に上映されている作品を検索すると、ゲド戦記がヒット。

ゲド戦記は初見で、「テルーの唄のやつ」くらいの認識しか持っていませんでした。内容的に色々と考えさせてくれたので、ここに書き残しておきたいと思います。(若干のネタバレを含みます。ご注意ください)


終わりが来ることがわかっていても、それでも生きていくしかないのかな?


ものすごくざっくり言うと、ゲド戦記は主人公アレンが人間の生や死と向き合っていくお話。物語の主軸に添えられているテーマが生と死であるが故に、主要な登場人物もそれぞれの生死観を持っていて、とても魅力的に映ります。

「終わりがくることがわかっていても、それでも生きていくしかないのかな?」(アレン)
「いつか死ぬからこそ、生きる意味があるんだよ」、「命は自分だけのもの?私はテナーに生かされた。だから生きないといけない。生きて次の誰かに命を引き継ぐんだわ」(テルー)
「わしらが持っているものは、いずれ失わなければならないものばかりだ。苦しみの種であり宝物であり、天からの慈悲でもある。わしらの命も」(ハイタカ)
「人間の欲望に際限などないのだ。それを止めようなど無駄なこと」、「私は不死を手に入れ、永遠不滅の存在となるのだ」(クモ)


テルーさんの仰る通り、自分が生きる意味を探すというより、「次の誰か」に「何か」を残すことを軸に考えると、多少生きやすくなるかもしれないなぁと。

次の誰か、という文面で連想しやすいのは、やはり子孫を残すことでしょう。家庭を持って子供を産んで、その子供がまた子供を産んで、自分はぼちぼち天寿を全うする。実にわかりやすい。

私は子供は産まないと昔から決めていて、では私のような価値観の人や、色々な理由で子供を産めない人は生きている意味はないのか?というと決してそんな事はなくて。つまるところ、「与える」側に回ることができればしめたものなんじゃないかな。

生まれてすぐの赤ちゃんは、人から与えてもらわなければ何もできない。そこから徐々に自分の事は自分でできるようになっていって、今度は自分が年下の子のお世話をするようになって「与える」側になる。

これって赤ちゃんが成長していく過程だけに当てはまることじゃなくて、例えば新卒で入った新入社員に後輩が出来て教える側になったり、部下ができて責任を取る側になったりっていうのも同じこと。

私も含め、死ぬ勇気がないのなら、生きるしかないんです。大それたものじゃなくても、次世代に何かを残していくことが、生きるという事だと。この映画からはそんなメッセージが読み取れました。

ここからは若干蛇足なんですが、ゲド戦記は映画としての評価はどうやらあまり高くないようで。確かに突っ込みどころや「どうしてそうなった?」と思う箇所はあるのだけれど、「人間はどうして生きなきゃならんのか」という問いに真っ向から対峙していて、私は嫌いではないです。今回のように無計画に感情の赴くままに行動してみると、思ってもみなかった収穫があるものですね。

最後までお付き合い頂きありがとうございました。ほんの少しでもあなたの心が軽くなりますように。