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「少女たちは翠の海に」#1 夏の始まり

あらすじ

――高校時代の夏休み、帰省しなかった4人が寮に残って一夏を過ごした。

潮たちの通った高校は、軽井沢のはずれにある女子校だった。
大学4年生になった潮は、寮の同期・玲からの連絡で高校時代の夏休みを振り返る。私大の演劇学科に通う玲は、卒業公演の台本の題材として、夏休みに撮った動画を使いたいという。
当時寮に残った潮と玲、後輩の咲月、そして寮生にしか見えない「秘密の友人」みどり。
あの夏、一緒に過ごした4人に一体何が起こっていたのか。時を経て、思い出に隠された謎が解き明かされる。

 
 初夏特有の澄んだ空が広がっていたその日、潮は、座った椅子のぐらつきに気を取られていた。
「院試を受けたい? 君が?」
 ゼミの教授は怪訝そうに首を傾げる。潮が頷いたその拍子に、椅子がギィと軋んだ。数年前に卒業した学生の試作品らしく、背もたれの意匠は繊細に作り込まれていた。しかし脚がうまくかみ合っていないのか、少し重心を動かしただけで非難がましい音が鳴る。
「家具メーカーの内定が出たんだろう? 弓木さんなら、もうデザイナーとして充分やっていけると思うけど」
 俯いた視線の先に、長い黒髪がはらはらと落ちてくる。ヘアゴムで縛っておけばよかったと思いながら、潮は影になった視界のまま黙り込んだ。
 教授の研究室は、歴代の学生たちが作った椅子であふれている。学生たちが置いて行った試作品の中で、気に入ったものを収集しているらしい。脚が極端に伸びた椅子や、流木を少し削っただけの椅子など、奇抜な椅子ばかりが転がっている。その中では比較的まともな椅子を選んだはずなのに、今日も失敗だったと潮は内心ため息をついた。
「卒制のモチーフが、全然定まらないんです。私は一体どんな椅子を作りたかったのか、本質的な姿が見えないというか」
「最終面接でも聞かれたんじゃないのか? どう答えたんだ」
 潮は、白く細い指で髪を耳にかけた。直射日光から色素の薄い瞳を守るように、長いまつ毛が瞬くたびに揺れ動く。
「他者と時間を共有する場になじむ、空気のような椅子を作りたいとは言いました。でも、卒制について考えるうちに違和感に気づいたんです。本当にそうだったのかって。土台がこんなにぐらついたまま、大学を出て大丈夫なのかという迷いがあります」
「心配はないと思うけど。弓木さんのデザインは洗練されているし、実用的で癖もない。無個性であることが個性だという解釈もできるだろう。君の作家性を問われると、正直僕もすぐには言葉が出てこないけどね」
「……」
「院試について、親御さんに相談はしたのか?」
「いえ、まだ。決めてから話そうかと」
 潮が視線を逸らすと、椅子がギィと一際鈍い音を立てた。
「奨学金の説明会は出ておくといい。まだ時間があるから、もう少し考えてみなさい」
 席を立とうと潮が腰を浮かせた時、教授は両腕を組んで口を開いた。
「弓木さんは、うちの学生にしてはまとも過ぎると思っていたんだけどね。まあ本当にまともなら、そもそも美大なんて来ないか」
 中途半端な立ち上がり方をしたせいで、椅子がひどく軋みながら揺れた。ギィギィと椅子の音が響く中、潮はふっと表情をゆるめた。
「私は、自分がまともだって思ったこと一度もないですよ」
 
 研究棟を出ると、風がすっと吹き抜けた。近くのグラウンドからは、体育の授業を受ける学生たちの歓声が聞こえてくる。
 五月も半ばを過ぎ、日差しは日に日に強くなっていた。思わず青空を見上げた潮は、黒いスウェットパーカーの袖を軽くまくった。この気温でジーンズは暑かったかもしれないと思いながら、生成りのトートバッグを肩にかけ直し、図書館がある南キャンパスに向かう。北と南を繋ぐけやき並木はちょうどいい木陰になり、アスファルトの地面で木漏れ日が揺れている。なるべく日陰を選んで歩きつつ、潮は静かに息をつく。
 奨学金の話は耳に痛かった。進学しようにも、先立つものがなければ話にならない。親からの援助があるに越したことはないが、実家にはもう何年も帰っていない。都内まで通えない距離ではなかったが、一人暮らしの方がなにかと都合が良かった。
 父とはたまに学費の件で連絡をするものの、義母との交流は完全に避けている。年の離れた弟が今何歳になっているのか、正確なところもわからない体たらくだ。
 けやき並木を抜けると、図書館が見えてくる。十年ほど前に建て替えられたばかりで、構内で一番新しい施設だ。潮はカウンターで学生証を見せ、トートバッグから分厚い図録を取り出した。返却手続きを済ませた後、その足で大階段をのぼっていく。
 館内は、壁面すべてが本棚で埋め尽くされている。実際に書架として機能しているのは手が届くほんの一部だが、書物の森をイメージした意匠は、完成当時かなり話題になったと教授が話していた。
 三階までのぼると天井も近くなり、人の声も遠くなった。本棚の間を歩き回った潮は、しばらくして一冊手に取った。椅子を題材としたポートレート写真集で、街角のカフェテラスや公園のベンチ、海沿いに並んだデッキチェアなど、撮影シーンは多岐にわたっているようだ。その場でぱらぱらと眺めた後、本を持ったまま窓際の閲覧席に座る。
 窓の外で、青い桜の葉が揺れている。図書館を取り囲むように植えられた木々が、この席ではちょうどいい日差し避けになり、淡いコバルトグリーンの光があたりをぼんやりと照らしていた。潮はこの席で資料を読むのが好きだった。手元の読書灯をつけ、頬杖をついてページをめくっていく。どの写真にも人間が映っていない。椅子の細部までよく見えたが、不在である空間そのものが不思議と目についた。
 手元でスマートフォンが振動した。何気なく画面をつけた潮は、待ち受けに表示された名前に、軽く目を見張った。
「……玲?」
 久しぶり、から始まるメッセージは途中で切れている。メッセージアプリを開くと、長文のテキストが届いていた。
『久しぶり、元気にしてる? 実は、今卒業公演の準備をしてて、台本の題材に夏休みの動画を使おうと考えてます。動画をそのまま映すってことはないんだけど、潮にも一応確認しようと思って連絡しました。使って大丈夫?』
 差出人の早川玲は、高校時代の寮の同期だ。当時から演劇部のエースとして主役を張っていて、有名な演劇学科のある私大に進学した。高校を卒業してからは、SNSで演劇サークルの公演告知を見かける程度で、お互い連絡を取り合うことはなかった。
 文末についていたURLをタップすると、SNSアプリが立ち上がる。自動で始まった動画の冒頭を見て、ああ、と頷いた。
『久しぶり、私も卒制の準備を始めたところ。動画は使っていいよ、準備頑張ってね』
 玲の言う動画とは、高校三年生の夏休みに撮りためたものだ。当時帰省しなかった寮生四人で、思い出づくりをしたいと玲から提案された。潮は特に見返していなかったが、共有アカウントを久しぶりに開いてみると、なんだか懐かしかった。
 続けて送った了解のスタンプにも既読がつく。潮がアプリを閉じかけた時、再びメッセージが届いた。
『潮の目に、あの夏はどう映ってる?』
 潮は共有アカウントを開き、一覧画面をスクロールする。
 動画のサムネイルはどれも、半袖の白いシャツにグレーのプリーツスカートを着た少女たちが、和気あいあいと過ごしている。玲、咲月、潮、そしてみどり――
「――」
 潮は画面を見つめた後、最初に投稿されたショート動画を再生した。どこかおぼろげな思い出が、脳裏で少しずつ蘇る。高校三年生の夏休みは、今の潮にとってはまるで遠い昔の出来事で、ソーダ水のようにきらきらとした一夏の記憶だった。


一話:https://note.com/shigemasayu/n/n9dd0cacf2225

#2:https://note.com/shigemasayu/n/n3d188c4aba0b

二話:https://note.com/shigemasayu/n/n7b42a6e3d889

#3:https://note.com/shigemasayu/n/ncdf83a91806a

三話:https://note.com/shigemasayu/n/n18a535b19206

#4:https://note.com/shigemasayu/n/n5f85b14e8ced


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