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「少女たちは翠の海に」#4 夏の終わり

 潮は舞台に上がり、立ち尽くす玲の腕を強く掴んだ。
「行こう、一緒に」
 玲は呆然としたまま、何が起こっているのかわからない様子だった。潮はぼんやりとした玲の瞳を覗き込み、はっきりと言い切った。
「あの時、私はみどりなんて一度も見えなかった」
「……えっ?」
「だけど私は、あの夏があったから救われた」
 潮は玲の腕を握り直し、舞台から二人で降りた。咲月も驚いた表情をしていたが、潮が目配せすると、さっと潮たちについてくる。三人で講堂から出て行こうとした時、潮は誰かに呼び止められた気がした。
 振り返ると、四つ並んだ椅子のそばに、制服姿のみどりが立っていた。なだらかに波打つセミロングの髪に、くっきりとした黒い瞳。真っ直ぐ向けられた人懐っこい笑顔は、春の陽光のようにほがらかだった。初めて自分の目でみどりを直接見て、潮はやっと腑に落ちる。潮から見たみどりは、義母とよく似た姿をしていた。
「またね、みどり」
 潮はみどりにそう告げて、三人で講堂を後にした。
 
 路線バスで最寄り駅まで引き返し、軽井沢駅まで戻ってきた潮たちは、そのまま東京行きの新幹線に乗った。三人はほとんど何も話さず、黙って新幹線に揺られていた。
 窓際に座った潮は、過ぎ去っていく景色を横目に、あの夏の動画を思い返す。翠玉館にいた頃、潮はみどりの姿が一度も見えなかったのに、玲からの連絡を機に動画を再生したら四人の少女が映っていたのだ。突然現れたみどりの存在が信じられず、咲月と会った後も何度か見返したが、初めて見たはずのみどりに何故か既視感があった。
 もう一度あの校舎に入ったら、みどりについて何かわかるかもしれない。潮はそんな予感を抱いて玲を探しに行った。玲がそうだったように、潮もまた、あの夏が今もなお続いていた。
「潮さん、これからどこに行くんですか」
「鎌倉。藤沢で乗り換えるよ」
 東京駅に着いた潮は、玲と咲月を連れて熱海行きの電車に乗った。亡くなった母親の出身が神奈川で、潮が産まれた病院は鎌倉にあるらしい。藤沢駅で江ノ電に乗り換え、穏やかな緑色の車両に三人横並びで座った。
「……学校が、取り壊されるって聞いて。久しぶりに動画を見たら、みどりの姿が見えなくなってて」
 中央に座った玲が、力なく呟いた。あの夏休みの後、玲は気まずさのあまり潮たちを避け続け、動画も全く見返さなかったという。受験が大変だった潮は、玲に避けられていたなんて気づきもしなかったが、咲月の入学祝いに来なかったのはそのせいだったかと今更納得する。
「私は当時、みどりさんが自分そっくりで気味が悪かったんですけど、多分最初は美月の姿だったのかなと思います。当時は気づけなかったですけど」
 咲月はそう言って、肩をすくめて笑った。
 藤沢駅から乗った江ノ電は腰越駅を過ぎ、車窓一面に七里ヶ浜の海が広がった。突然現れた海に息を呑んだのも束の間、「鎌倉高校前」とアナウンスが流れ、潮は二人を促して電車を降りた。
 無人駅のホームを抜けて改札から出ると、踏切の向こうに海が見えた。潮たちが乗ってきた緑の車両が目の前を通り過ぎ、閉まっていた踏切がゆっくりと開く。太陽はまだ上っていて、エメラルドグリーンの水面が眩しいほどに輝いていた。
 潮は踏切を超え、道路を渡って海のそばまで近づいた。あたりには潮風が吹き抜け、波の音が絶え間なく響いている。
「……」
 ずっと聴こえてくる潮騒に耳を傾けているうちに、潮はようやく、実家に帰って話をしようと思えた。
(私が形にしたかったのは、この輝きだったのかもしれない)
 隣にいる玲と咲月も、どこかすっきりした表情で海を眺めていた。あの夏よりも少し大人びた二人の横顔を見て、潮は柔らかく微笑んだ。
 しばらくして再び踏切の音が鳴り、遮断機が降りていく。自分たちの後ろで電車が通り過ぎる気配を感じながら、潮は、あの夏の終わりを受け入れ始めていた。
 帰りの電車の中で、潮はきっと動画を見返すだろう。その時、みどりがどんな姿で映っているかはわからない。だが、講堂で三人を見送ったみどりの姿が、潮の中で鮮明に残っている。そしてこの先、潮は何があっても、やっと出会えたみどりのことを絶対に忘れないだろうと思った。
 空から太陽の光が差し込み、潮たちの前に広がる海を照らしている。水面に反射した光はエメラルドグリーンに染まり、三人の瞳の中にいつまでも映っていた。

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