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「少女たちは翠の海に」#3 夏の盛り

 咲月と久しぶりに会った後、潮は夏休みの動画を見返すようになった。
 スマートフォンの小さな画面に、制服姿の四人が映る。その中にいるみどりは、咲月とはまるで別人だ。なだらかに波打つセミロングの髪も、何度見たところで変わらない。最初は髪が短かった、という咲月の話とも食い違っている。
 咲月が鮮明に語った信仰の話も、潮は覚えていなかった。言われてみれば、礼拝でそんな説教を聞いた記憶はあるものの、詳しい内容は全然思い出せなかった。同じ夏休みを過ごしたはずなのに、見えていたものがこんなに違ったのかと、潮は咲月の話を聞きながら言葉を失っていた。
『潮の目に、あの夏はどう映ってる?』
 メッセージの履歴をさかのぼり、受信日時を確認する。玲から連絡が来たのは初夏の頃だったが、梅雨も過ぎて、季節はいよいよ本格的な夏になっていた。
(玲には、みどりはどう見えていたんだろう)
 手元で木々の影が揺れる。顔を上げると、大学の図書館を取り囲む木々が風に揺れていた。また気が逸れてしまったと、潮は卒業制作の計画書を前にため息をつく。迷っていた内定は、結局早々に辞退した。進学の意向を伝えた潮に、教授は大学院での制作をふまえた計画書を作るようにと言った。卒業制作も院試の採点対象になるという。
 計画書は九月までに仕上げなければならない。試験勉強も進めなければならないし、いい加減実家にも話をしなければならなかった。考えることが山積みだというのに、気づけば高校三年生のあの夏休みを思い出している。
 進路を決めた当時の自分が、本当は何を形にしたかったのか。台本の題材にしたいと連絡をして来た玲も、もしかしたら似たような悩みを抱えているのかもしれない。とりあえず、まずは咲月と会ったことを伝えようと、潮はメッセージの入力欄を開いた。
 手元でスマートフォンが振動する。美術部の同期からの通知だった。卒業以来、今まで連絡なんて一度も来たことがなかったのに、一体何事だろうとメッセージを開く。
『早川玲と連絡取ってる? 同窓会の幹事から、全然連絡がつかないって話が回って来て、弓木さんなら繋がってないかなと思って』
『同じ大学に行った子から聞いた話なんだけど、最近大学でも見かけないみたいで。早川玲が今どこにいるのか、誰もわからないんだって』
 続けて送られて来たメッセージを見てから、潮はSNSをいくつか開き、玲のアカウントを確認する。潮がやりとりをした時期までは痕跡があったが、それ以降は何も更新されていなかった。潮はそのまま玲とのメッセージ履歴を開く。自分が送った他愛のない返事を見ているうちに、潮は次第に、これは玲が求めていた反応ではなかったのかもしれないと思い始めた。玲の居場所について、咲月にメッセージを送った潮は、スマートフォンの画面を消して目を閉じた。
〈翠玉館を出た後、あの頃楽しかったなーって見返せるものがあったらよくない?〉
 玲から連絡が来るまで、潮はあの夏を一度も振り返らなかった。思い出してみればどれもきらきらとした美しい記憶なのに、驚くほど執着がない。潮にとっては完結した過去の出来事で、わざわざ思い出す必要もない記憶だった。
 自分は何か見落としているのだろうか、と思った時、スマートフォンが再び振動した。咲月からのメッセージを開くとURLが届いていた。
『もしかして、これが関係あるでしょうか』
 表示されたのは、潮たちの高校のウェブサイトだ。タイトルに記載された文字列に、潮は目を大きく見開いた。
「取り壊し……?」
 
 潮たちが卒業した高校は、開学から百年近い歴史を誇る女子校だったが、近年は女子校人気の低下や、少子化による志願者数の減少が問題となっていた。校舎の老朽化も深刻になり、学校の生き残りをかけて、交通の便がいいエリアへの移転が決まったという。
 新校舎への移転は今年の春に済んでいて、元の校舎は空の状態だ。修復工事の費用が捻出できず、今後の維持計画の目処も立たなかったため、秋以降取り壊し工事が行われることになったらしい。
「既読、つきましたか?」
 電車から降りた潮は、スマートフォンの画面をつける。今朝、東京を出るときに玲に送ったメッセージは、昼になっても読まれた形跡がない。潮が首を横に振ると、咲月はあたりを見回して言った。
「こんなに静かでしたっけ、この駅」
 東京駅から新幹線で軽井沢駅まで向かい、在来線に乗り換えてさらに数駅。卒業以来ぶりに来た高校の最寄り駅には、潮と咲月以外誰も降りなかった。抜けるような青空には太陽が高く上り、ホームのすぐそばに広がる雑木林が青々と輝いている。
 二人は木造の駅舎へと歩き、切符を箱に入れて無人改札を抜けた。外に出て駅を振り返ると、色褪せた駅の看板が日差しに照らされ、時間の経過が余計に色濃く感じられた。
 高校時代の同級生とは交流がなかったので、移転することも、あの校舎が取り壊されることも知らなかった。路線バスに揺られ、延々と続く木立の影を眺めながら、潮はため息をついた。行ったところで、玲が本当にいるのか定かではない。空振りで終わる可能性だってある。そんな確証もない旅路に咲月を付き合わせていいのか迷ったが、「取り壊される前に見ておきたい」とかえって背中を押されてしまった。
 もし玲がいたとして、一体何を話せばいいのだろう。彼女が今どういう精神状態なのかわからないし、特に心配するようなこともなかったと思うのかもしれない。先の展開がこんなに想像できないのは、それこそあの夏休み以来だった。
 二十分ほどバスに乗り、最寄りのバス停で降りる。さらに十分ほど歩いて、ようやく校舎が見えて来た。
「わぁ、久しぶり……!」
 声を上げた咲月につられて、潮も息を呑む。正門からけやき並木が続き、奥の方に桜色の本校舎が見えている。久しぶりに見た校舎は、記憶の中にある風景そのままだった。
 二人は正門横の守衛室を覗いたが、特に誰もいなかった。通用門の鍵も開いていて、構内にすんなりと入れてしまった。
「いいんでしょうか? 前はもっと厳しかった気がしますけど」
「まあ、もう誰もいないから。盗られて困るようなものもないだろうし」
 二人は本校舎を通り過ぎ、敷地の奥へと進んでいく。玲がいるなら翠玉館だろう、と潮は踏んでいた。木立を抜けると宣教師館とチャペルが現れる。チャペルの扉を伝う蔦は勢いを増していて、放っておいたら全てを飲み込んでしまいそうだった。潮は試しに扉を押してみたものの、こちらは鍵がかかっていた。
 翠玉館も案の定、鍵がかかっていた。二人で周囲を回ってみたが、窓から垣間見えた中はがらんとしていて、談話室にあったアンティークの家具なども既になくなっていた。入口の上部にはめ込まれたエメラルドグリーンのガラスは、今はちょうど影になり、鈍い色に沈んでいる。輝きのないステンドグラスを見上げて、潮は踵を返した。
「玲さんの台本って、きっとみどりさんのことを書くんですよね。翠玉生だけの秘密、って掟がありましたけど」
「その掟、いつまで守らないといけなかったんだろうね。もう翠玉館もなくなるのに」
 玲があの夏を台本にしようと思ったのは、校舎の取り壊しが決まったせいだったのだろうか。動機としては納得できるが、潮はまだ違和感があった。咲月には電話までかけたのに、潮には最初のメッセージ以降何もなかった。あの夏を一緒に過ごしたのは潮も変わらないのに、この差は一体なんだろうと疑問を抱いていた。
 本校舎まで戻った二人は、あっさり開いた扉を前に顔を見合わせる。四人で動画を見た講堂に向かうと、明らかに人の気配があった。意を決して中を覗くと、古びた木の椅子が四つ横並びで置いてあり、舞台上に制服姿の玲が立っていた。
「玲……」
 四年ぶりに会ったはずなのに、玲は高校三年生の時から何も変わっていなかった。ショートカットの髪、すらっと伸びた手足、どこか危うさのある中性的な顔立ち――あの夏まで引き戻されたような感覚に潮が戸惑っていると、舞台上の玲は手に持っていた台本を下ろし、途方に暮れたように微笑んだ。
「あの夏の結末が、いつになっても見えないんだ」
 一緒に見てくれる? と言って、玲はたった一人、未完成の台本を演じ始めた。

三話:https://note.com/shigemasayu/n/n18a535b19206

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