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「少女たちは翠の海に」三話 思い出を映す


1

「この世界は、まるで箱庭のように思えてならなかった」
 稽古着姿の生徒たちが集まる多目的教室で、玲は壇上でたった一人、見せ場となる長台詞を朗々と語り上げていた。
「新たに植え付けられた『僕』の記憶が、本来は自分のものではないと、一体どうして信じられるだろう。記憶を抹消する前の自分が、何故他人として生きることを選んだのか、実験を遂行する研究者たちは誰も教えてくれなかった……」
「そこまで! 早川さん、いい感じよ。間の取り方が素晴らしいわ」
 顔を上げると、顧問の女性教師が満足げに頷いていた。周囲で自分の番を待つ他の部員たちも、玲をうっとりとした表情で見つめ、小声で会話を交わしている。
「素敵よね、早川先輩にぴったりの役だし」
「今年の大会はうちで決まりだね」
 玲は壇上から降り、台本を持って顧問に立ち位置の確認をする。前後の流れなどの打ち合わせを一通り済ませた後、昼休みを挟むことになった。
 休憩中も、玲の周囲には入れ替わり立ち替わり部員が現れる。大道具係の同期とデザイン案の相談をし、衣装班のサイズ計測に付き合い、一緒に舞台に立つ後輩にアドバイスをし、とにかく休む暇がなかった。
「私、購買で飲み物買ってくるね」
 他の部員たちに引き止められそうになる中、玲は多目的教室をさっと抜け出した。演劇部の活動場所は西校舎の二階で、購買は東校舎の一階にある。階段を軽やかにかけ降りながら、玲は今日から始まった夏休みのことを考えていた。
 去年、演劇部の部長となった玲は、演劇部を率いて全国大会まで駒を進めていた。全国大会は来月、東京で開催される。玲の志望校は、演劇界隈では有名な名門私立大学で、全国大会の結果とともに推薦入試を狙う計画だった。
 進路がかかった大事な夏休みなので、今年は晴れて翠玉館に残れることになった。去年と一昨年も申請したものの、「部活がある」という理由だけでは許可が出なかったのだ。稽古に制約がないことはもちろん、夏休みを翠玉館で過ごせるということが、玲は何よりも嬉しかった。
(本当に、潮と咲月も残ったんだ)
 てっきり自分一人だと思っていたので、他にも許可が降りた翠玉生がいると聞いて、正直最初はがっかりした。自分以外の翠玉生がいるなら、その分みどりを独り占めできなくなってしまう。だが、潮と咲月ならまた話は変わってくる。中途入学生の潮は、校内で玲と同じくらい注目を集めている有名人で、玲も潮に一目置いていた。咲月は控えめな優等生で、玲の周囲を騒ぎ立てるような後輩ではない。二人とも、一緒に生活する上で害のないタイプで、潮とはむしろこれを機に仲良くなりたいと思っていた。
 西校舎を出た玲は、グラウンドを突っ切って東校舎に向かう。その途中で東校舎を見上げると、美術室の窓際に潮の姿があった。遠くからでも潮は目を引く美しさで、潮が入学したばかりの頃、玲は演劇部にスカウトしようと密かに試みていた。いくら話しかけても全然打ち解けられず、結局早々に諦めたのだが、玲と潮が二人でいると周囲が盛り上がるようになった。それ以来、玲は潮を見かけるたび、必ず声をかけている。
(今夜、潮たちをお茶会に誘ってみよう)
 購買に着いた玲は、冷蔵ケースに並ぶラムネソーダの瓶を見ながら、いい案だと頷いた。他にも色々買っていこうと、玲は四人分のジュースやお菓子を選び始めた。

「今年の台本は思い切って、SF作品を選んだんです。新しい演目に挑戦してみたくて」
 玲は、植野の存在が鬱陶しいと思いながら、宣教師館で夕食を食べていた。
「早川さんはどんな役を演じるんですか? いつも素敵な男性役をされていますが」
「実は、今回は女性役をやるんです! と言っても、男装の令嬢って設定なので、結局男役みたいなものなんですけど」
 夏休みは寮監の教師たちがいないので、代わりに植野が監督役になったらしい。朝食と夕食は必ず宣教師館で、と言われた時から嫌な感じがしていたが、こうして根掘り葉掘り尋ねられると、行動を逐一監視されている気分になる。
 植野の前では、潮たちと踏み込んだ会話ができないし、みどりだって一緒にいられない。これでは、普段の学期中と何も変わらないと思った。
「夏休みの食事なんですけど、私、翠玉館で自炊してみたいと思ってるんです」
 夕食が終わる頃合いを見計らって、玲は用意していた台詞を口にした。
「翠玉館は自治寮の精神を掲げているのに、最近特に、学校のお世話になりすぎている気がするんです。昔の翠玉生は、一階の調理室で自炊していたって話を聞いたことがあって。食堂が閉まるって聞いた時、てっきり私たちもそうなるんだと思っていたんです。これも自立を学ぶいい機会だろうって」
 大人にとって耳障りのいい言葉を並べ、あくまで熱心な生徒を装う。植野に対して切々と訴えかける間、玲は早くも手応えを感じていた。そもそも、玲は教師受けがとてもいい生徒で、玲自身それを大いに自覚していた。
「朝の礼拝には参加していただきたいので、日曜日の朝食は一緒に食べましょう。それ以外は、皆さんの自治の精神を尊重しますよ」
 植野の返事は、玲にとってまずまずの結果だった。宣教師館からの帰り道、玲は首尾よく話が運んで満足していた。日曜日の朝食は避けられなかったが、多少は様子を知らせておいた方が、余計な詮索をされずに済むだろう。
「玲、どうしてあんなこと言い出したの?」
 振り返ると、潮は怪訝な表情だった。
「嫌だった? 潮って、料理嫌いなタイプだっけ」
「別に嫌いじゃないけど、作ってもらえるならその方が楽でしょ」
「だって、宣教師館だとみどりが一緒に食べられないじゃん」
 玲としては当然の返事で、潮もそれ以上何も言わなかった。潮も納得したのだろうと思いながら、玲は二人をお茶会に誘った。エントランスで一旦解散し、玲はそのまま一階の廊下を歩いて行く。
 奥の部屋を「ただいま」と覗くと、みどりが嬉しそうに顔を上げた。丸みを帯びたショートボブの毛先が、かけ寄って来た拍子に軽やかに跳ねる。
「遅くなってごめんね。すぐ着替えてくるから、昼に話したお茶会やろ」
 みどりに声をかけた後、玲は部屋に戻って制服を脱いだ。Tシャツと短パンに着替えながら、机に置いてあるカメラと三脚に目を留める。夏休み直前に、演劇部の部室で見つけた一眼レフだ。特に使われている様子もなかったので、夏休みの思い出を撮ろうと思って借りてきた。スマートフォンでは特別感が足りない気がしたのだ。
 カメラと三脚を持って、玲は再び一階に降りた。談話室でみどりとお茶会の準備をしながら、玲は今日あった出来事を話していた。
「あの顧問、いい感じしか言わないんだよね。次は全国大会なんだから、もっとちゃんと指導してほしいっていうか」
「玲に文句ないってことでしょ? 自信持てばいいんだよ、玲は才能があるんだから」
 そうかな、と首を傾げつつ、玲は自然と微笑んだ。玲も他の翠玉生たちと同様に、日常的にみどりに悩みを打ち明けていた。みどりに話した内容は、外に漏れることは絶対にない。相談相手として誰よりも安心できるので、玲は翠玉館に入ってから、みどり以外には自分の本心を話さなくなった。
 みどりについて、もっともらしく考察する翠玉生もいた。過去の翠玉生の残留思念だとか、イマジナリーフレンドだとか、その時流行る説は様々だった。だが、玲はそんなことを考えるのは無意味だと嫌っていた。みどりが何者であるかは瑣末な問題で、みどりが翠玉館に住んでいるという幸運を、素直に享受すればいいと思っていた。
「すみません! 遅くなって……」
 急いで入って来た咲月は、玲を前にぼうっと立ち尽くした。みどりに声をかけられて我に返ったのか、視線を逸らして椅子に座る。すっかり緊張しているのが見て取れて、玲は可愛いなと思った。
「いつも通り過ごすだけじゃ、もったいない気がするんだよね。せっかく翠玉館に残れたんだから、特別な夏休みにしたいっていうか」
 カメラの準備をしながら、玲は咲月に話しかける。
「特別な、夏休み……?」
「そう、私たち四人だけの」
 演出が過ぎたか、と思ったものの、咲月にはわかりやすく効いたようだった。中途入学生の咲月とは今まで接点がなかったが、この分では他の生徒と大差ないだろう。
 しばらくして潮もやって来て、四人のお茶会が始まった。潮はいつも通り言葉数が少なく、淡々とラムネソーダを飲んでいる。乗り気な感じはしないが、完全に拒絶されている様子でもない。お茶会に参加したということは、多少なりとも親交を深めようと思っているのだろうか。
「ねえ、この動画いつまで回すの?」
「ずっとだよ。夏休みが終わるまで」
 カメラに言及した潮に、玲はそれ以上話す隙を与えることなく、立て続けに語った。
「潮が来る前、咲月とみどりにも話してたんだ。いつも通り過ごすだけじゃ、絶対もったいないと思ってさ。せっかく翠玉館に残れたんだから、この四人だけで夏休みの思い出を作りたいんだよね。それに、私と潮はもう卒業じゃん? 翠玉館を出た後、あの頃楽しかったなーって見返せるものがあったらよくない?」
 潮の表情は変わらず、むしろ面倒そうな気配もあった。玲は慌てて、無理にとは言わないけど、と付け加える。玲はここまで、考えておいた通りに話を進めたが、潮がどんな反応をするかまでは読めなかった。他の生徒や教師が相手なら容易く事が運ぶのに、潮だけはいつもわからない。
 少し間が空いた後、潮が「いいよ」と頷く。その返事を待ち望んでいた玲は、思わず声を上げた。
「やった! ありがと潮!」
 玲はそのまま、夏休みの計画について三人に説明する。いつになく高揚しているのが自分でもわかった。きっと忘れられない夏になる、と玲はこの時確信していた。

2

「潮ー! 課題どんな感じー?」
 グラウンドでの稽古終わり、玲が美術室を見上げると、窓際に座っていた潮は珍しく大きな声で答えてきた。
「あと少しで終わる!」
「わかったー! じゃあ、昇降口で待ってるねー」
 小さく手を振る潮に、玲は手を大きく振った。部活が終わってから、潮とスーパーに行く約束をしていた。他の部員がいる前でわざわざ声をかけたのは、この後引き止められないようにするためだった。
「皆お疲れ、明日の稽古は四幕からね。出番がある子は先に発声しておいて」
 他の部員たちからの挨拶を背に、玲は着替えに戻った。稽古着のままでもよかったが、制服姿の潮と並んだ時にそれでは絵にならない。稽古着をカバンに詰め、急いで昇降口に向かう。
 潮を待たせていると思っていたが、玲の方が早かった。潮が来たらすぐわかるように、階段が見える場所で待つことにした。下駄箱に寄りかかると、スチールの冷たさが少しずつ背中に伝わっていく。周囲に誰もいないことを確認して、玲はため息をついた。
(手応えが、ないな……)
 入部から六年目、やっと掴んだ全国大会出場だった。予選では例年通り、等身大の学園ものを手堅く演じていたが、同じことをしていても勝ち残れないと、思い切って台本を変更した。これをやり遂げれば演劇部として新境地を開拓できるし、推薦入試でも高い評価を得られる。実際、部員の士気は目に見えて高まり、稽古はいつも以上に白熱していた。
 だが、玲はいつになっても、自分が演じる役について掴めなかった。頭では理解しているものの、感情が追いつかないのだ。上辺をなぞっている感覚から一向に抜け出せず、本当にこの演技でいいのかわからなかった。
 近づいてくる足音に顔を上げると、潮が小走りで現れた。お疲れ、と玲は声をかけ、二人で昇降口を後にした。
 学校の外に出るのは、本当に久しぶりだった。最後に正門を超えたのはいつだろう、と玲は思い出そうとして、春の帰省から戻って来て以来、ずっと学校の中にいたと気づく。西校舎の購買が充実しているので、日用品程度であれば事足りてしまうのだ。翠玉館で自炊がしたいと言ったのは完全に建前だったが、植野の監督下に置かれたままだったら、この夏も同じ調子で閉じこもっていただろう。
「やったね、あるならコンビニだと思ったんだ」
 スーパーに行くというだけのことが楽しくて、このまま帰るのが惜しかった。しかも、今日は潮も一緒にいるのだ。なんとかこの時間を引き延ばせないかと、玲は潮をコンビニに誘った。ちょうど手持ち花火があったので、棚にあった種類すべてを買い揃えた。
「買い出しに行くって言い出したの、もしかして花火目当て?」
「それもあるけど、ちょっと外に出たくてさ。最近稽古ばっかりだから」
 玲が考えた夏休みの計画には、花火も入っている。帰ったらすぐやりたいと思いつつ、いきなりやるのはもったいない気もした。楽しみはもう少し取っておこうか、とあれこれ考えているうちに、気づけば正門まで戻って来ていた。
「なんかさ、ここからが一番長く感じない? この学校広すぎるって」
 正門からはけやき並木が続き、その先にうっすらと本校舎が見える。敷地の一番奥にある翠玉館は、ここから見ただけでは影も形もない。
 玲はいつからか、実家から帰寮するたびに、正門から先の景色を「箱庭みたいだ」と思うようになった。次に出てくるまでの間、自分の世界はこの箱庭の中で完結する。敷地が広く、日々の生活も不自由なく回ってしまうので、これが世界のすべてだと錯覚しそうになるが、一歩外に出たら単なる箱庭に過ぎない。
「玲もそう思うんだ、意外」
「意外?」
「だって、中学からずっと住んでるから。もう慣れてるのかと思って」
 けやき並木を抜け、本校舎が視界いっぱいに映る。潮の返事は何気なかったが、その何気なさに玲は言葉が出なくなった。
 この学校にいる生徒は、ほとんどが中学から入学し、高校を卒業するまで顔ぶれが変わらない。高校から入ってくる生徒はわずかで、彼女たちは「中途入学生」と呼ばれる。だが、少数派の彼女たちは、あっという間に他の生徒と区別がつかなくなる。入学したての頃は明らかに異物感があるのに、その他大勢と馴染んで変わらなくなるのだ。
 中途入学生の潮は、翠玉館で暮らしていながら、一向にこの学校に染まる気配がなかった。潮は一人異質なまま、この箱庭の中から、はるか遠くの方を見つめている。
「正門なんて、帰省の時しか通らないよ。普段は門限で外出られないし」
 苦し紛れの返事に、潮から軽い相槌が返ってくる。玲が潮に一目置いているのは、潮はどこにいても、同じように彼女自身を貫くことがわかるからだ。潮がこの学校で注目を集めるのは当然で、たとえこの箱庭を出て行ってもそれは変わらない。
 一方、玲は自分のファンクラブの存在を認識していたが、所詮はこの箱庭だけの人気に過ぎないと思っていた。箱庭で求められる姿を上手に演じているだけで、実態が何も伴わない。今のままでは、箱庭の外では通用しないだろう。早く本物にならなければ、という焦燥感に、玲はずっと駆られていた。
「潮は普段どうしてた? 放課後とか」
「別に……図書室で勉強するか、美術の課題描くかって感じ」
 潮と本当の意味で親しくなれば、潮が潮である理由がわかるかもしれない。だから、玲は少しでも潮のことが知りたかった。

 潮の事情を知る機会は、その夜訪れた。夕食を作る潮の手際が完璧で、話の種として軽く触れた時、潮がふいにこぼしたのだ。
「父親と二人暮らしだったんだけど、仕事で夜遅かったんだよね。でも、再婚して義母がやってくれたから」
 潮は淡々と、年の離れた弟がいることも話した。咲月の言葉を失った様子に気づき、玲も口をつぐんでしまった。このタイミングで色々と聞きたかったが、迂闊に触れると潮との距離がますます遠のいてしまう。
「ね、今から花火やらない? せっかく買ってきたんだしさ」
 とりあえずこの空気を変えようと、玲は潮たちを翠玉館の外に連れ出した。三脚をセットしてカメラを回し、ススキ花火に火をつける。
 穂先からあふれ出す鮮やかな炎と煙は、暗い夜を彩った。次々と色が変わる花火に、みどりと咲月は楽しそうに声を上げる。潮も少し離れた場所でスパーク花火に火をつけて、パチパチと弾ける火花を眺めていた。
(さっき、花火買っておいてよかった)
 狙い通り事が運んだことに玲は安堵しつつ、この後どうしようかと悩んだ。気まずい雰囲気は変えられたが、話の続きをするきっかけがどこにもない。自然な展開が何も思い浮かばないまま、ススキ花火とスパーク花火の袋がなくなり、あとは線香花火だけになってしまった。
 四人は蝋燭の周りに集まって、線香花火にそれぞれ火をつけた。さっきまでの華やかな花火と違って、線香花火の燃え方は繊細で、その分静けさが気になった。
「名前があるんだって、燃え方に」
 潮がおもむろに、玲たちの線香花火を見つめて言った。
「つぼみから始まって、牡丹、松葉とよく燃えて……衰えてくると柳、最後は散り菊。花弁が消えたら火も落ちる」
 潮のささやく声に合わせて、玲の手元の線香花火がその通りに移り変わる。まるで予言にも似た出来事に、「本当だ」と思わず呟いた。
「そういうのって、絵を描いてると詳しくなるの?」
「私も、これは義母の受け売りで……」
 そう言った途端、潮ははっと息を呑んだ。本当は、話を蒸し返すつもりなんてなかったのだろう。だが、玲は今しかないと口を開いた。
「潮が寮に入ったのって、もしかしてそれが理由?」
 潮の線香花火だけが、震えるように燃えている。潮の異質さが複雑な家庭事情のせいなら、玲としても納得だった。わざわざ家を離れて寮に入ったのも、いつも余所者感を漂わせているのも、潮の振る舞いすべてが腑に落ちる。
「まあ、私だけ余ってたしね」
 火花をか細く散らしていた潮の線香花火が、ぷつりと地面に落ちた。すっかり短くなった蝋燭の炎は、夜風に吹かれて頼りなく揺らめいている。ここまで聞き出せれば上出来だと思った。成果に満足した玲は、何か潮に慰めの言葉でもかけようと、この後の流れを考えながら線香花火の袋に手を伸ばす。
「私もです」
 ところが、全く予想もしていなかった咲月の声に、玲は手を止めてしまった。顔を上げると、咲月は切実な表情で潮を見つめていた。
「私、実は双子なんです。一卵性の妹がいて」
「そうだったの? 咲月の家の話って、そういえば聞いたことなかったね」
 慌てて話に入った玲に、咲月は「話すきっかけがなくて」と苦笑する。咲月はそのまま線香花火に火をつけ、膨らんでいくつぼみに視線を落とす。
 咲月が語った双子の妹の話は、潮の話と同じくらい劇的なエピソードだった。自分と瓜二つの、それでいて自分より常に秀でている妹。妹に遠慮して家を出たという咲月に、潮は珍しく気遣うような視線を向けていた。
 蝋燭の炎がふっと消えてしまい、火をつけ損なった線香花火を咲月が物憂げに眺めている。潮は、自分の線香花火を咲月に差し出した。パチパチと静かに弾ける潮の火球に、咲月がおそるおそる花火の先をかざし、火が静かに燃え移る。線香花火を介した二人だけのやりとりに、玲は思わず言った。
「だから似てるのかな、潮と咲月って」
 似てる? と怪訝そうな声を出した潮に、玲は取り繕うように続けた。
「なんとなく、雰囲気が近い感じがしてさ。気が合いそうだなって思ってたんだよね」
 心にもないことを口にしながら、玲は咲月の線香花火から半ば強引に火をもらう。こうして見ると、潮と咲月はよく似ていた。同じ中途入学生で、親元を離れて寮に入り、人知れず複雑な家庭事情を抱えている。自らの内面を他人には打ち明けないが、いざ話してみると互いに共鳴するところがあって――その相手は自分になるはずだったのに、と唇を噛み締めた。
 この学校で潮に一番近かったのは、紛れもなく玲だった。周囲から月と太陽などともてはやされ、玲も満更でもない気分だった。潮に相応しい相手だと認められている間は、自分も本物になれたような気がしたのだ。
「ほら、潮」
 潮の線香花火が消えた後、玲は自分の火球から新しい線香花火に火をつけ、潮に差し出した。咲月に対抗しようとする浅ましさを自覚し、苛立たしい気持ちになった。新しく現れた義理の母、姉よりも優れた双子の妹。どちらも舞台の題材になるような、特別な響きをはらんでいる。玲はごく普通の家庭で育ち、親と不仲でもない。二人に共感できるような事情は何も持ち合わせていなかった。 
「……ありがとう、玲」
 線香花火を受け取った潮は、柔らかく微笑んだ。初めて目にした潮の表情に、玲はこの時息を詰まらせた。潮のことを、自分はまだ少しも理解していないのではないかと思ったのだ。

3

 何も思い通りにならないまま、時間だけが過ぎていき、八月の全国大会本番を迎えた。
 衣装班が作った銀のサイバースーツを身にまとい、玲は一人舞台に立っていた。スーツに刻まれた文様は、玲が動くたびに照明を反射して、フレスコブルーの光を放つ。
 背景には、メタリック素材の幾何学模様のパネルが何枚も重なっている。大道具係が用意した近未来世界の抽象イメージで、場面が変わるたびにパネルも組み替えられた。
「この世界は、まるで箱庭のように思えてならなかった」
 冷たい玲の声だけが舞台に響く。会場となった東京の区民ホールは、収容規模が千二百席と広い劇場で、客席は二階席まですべて埋まっていた。
「新たに植え付けられた『僕』の記憶が、本来は自分のものではないと、一体どうして信じられるだろう」
 玲が演じる主人公の女性は、自分の記憶を失っていた。新たに発明された、記憶を書き換える装置の実験台に志願していた彼女は、自分とそっくりな「彼」の記憶を植え付けられる。数日前に亡くなった彼として、彼女は彼の人生を続けることになるが――
「記憶を抹消する前の自分が、何故他人として生きることを選んだのか、実験を遂行する研究者たちは誰も教えてくれなかった」
 台本の台詞は、一言一句狂いなく記憶に刻まれている。練習通り、舞台上をどのように歩き回り、どの地点で視線を動かすか、細かい所作まで再現する。客席の視線を一身に集めているのを感じながら、玲は、自分の感情が醒めていく気配に怯えていた。
 この台本を選んだのは玲だった。演劇部の部室にあった台本の束の中で、ほとんど開かれた形跡のない本を見つけ、興味本位で読んでみた。だが、この世界を箱庭だと語る主人公に惹かれ、他人として生きることになった彼女の姿が、玲は自分と重なって見えた。彼女の生き様を体現できれば、自分も本物になれるかもしれないと思ったのだ。
 ところが、どうやっても彼女の気持ちを理解できなかった。顧問も、他の部員たちも、玲の演技を絶賛するばかりで、それ以外の意見を得られなかった。本番になったらまた気持ちが変わるだろうと、玲は自分を奮い立たせて舞台に上がったが、まるで機械のように台詞が出てくるだけで、感情が全くついてこなかった。
 潮たちは客席にいない。三人からは今朝、「頑張って」と翠玉館を送り出された。こんな無様な姿を晒さなくてよかったと、玲は能面のような表情で舞台に立ち続けた。
 すべてが終わって翠玉館に帰った頃には、もう深夜になっていた。潮と咲月は既に寝ているのか、物音一つ聞こえない。玲は制服のまま部屋を出て、一階まで降りて行った。
「玲、おかえり!」
 みどりの部屋は、他の寮室とほとんど変わらない。一人用のベッドと机、据え付けの古いクローゼットがある小さな空き部屋で、ベッドのマットレスが撤去されているだけの違いだ。玲は固いベッドフレームに座り、「だめだった」と肩を落として呟いた。
「優勝できなかったの?」
「……特別賞だった」
「すごーい、おめでとう! 賞が取れたならよかったじゃん」
「賞が取れたのは、他の皆が頑張ったから。私のせいで優勝できなかった」
 最終講評で、審査員は玲の演技がずば抜けていたと言ったが、だったらどうして優勝できなかったのだろう。他の部員たちの舞台作りは完璧で、主役として前に立つ玲がそれを高みに押し上げなければならなかったのだ。単に慰められているようにしか思えず、自分に対する苛立ちばかりが募った。
「玲が頑張ったから、賞が取れたんだよ。もっと自信持っていいんだって」
「あんなに酷かったのに? 私は結局、最後まで役になりきれなかった」
 そもそも、演劇部に入ったのも些細な理由だった。他の女子より少し身長が高く、顔立ちが中性的だったというだけで勧誘されたのだ。特にやりたい部活もなかったので入部したが、後輩たちに騒がれるようになった頃から、次第に不安を感じ始めた。
 人から求められる姿を演じてしまう、そんな自分に限界を感じたから家を出たはずだったのに、結局同じことをしているのではないかと。
「ずっとそう。私は、いつだってずっと中途半端」
 みどりから顔を背けるように俯き、ぼやけていく視界の中で両手を握りしめる。
 玲の両親は、元々息子が欲しかったらしい。その名残りだったのか、玲に与えられる服や玩具は男子用のデザインが多く、運動会などで男子と対等に張り合ってみせると、両親は非常に喜んだ。しかし、学年が上がるにつれて身体が変化し始めると、玲はこれ以上両親の期待には応えられないとわかってしまった。中学受験の話が出た時、あえて女子校を選んだのは、当時の玲なりに考えた両親への意思表明だった。
「玲は、ずっと頑張ってるよ。何も中途半端じゃない」
「……でも」
「大丈夫。玲は、誰よりも素敵な女の子だから。今まで見てきたどの子よりも」
 みどりの優しい声が耳元で聞こえ、柔らかい腕にそっと包み込まれる。さっきまで荒れていた気持ちが少しずつ凪いでいき、代わりに安心感が広がっていく。どんなに辛く、耐えられないと思う出来事があっても、みどりがいるからやり過ごせる。翠玉生になれたことが人生最大の幸運で、翠玉生でいる限りは、自分が特別だと肯定し続けられるのだ。
 いつも通り、玲がみどりに身を預けようとした時、ベッドフレームの軋む音が響く。その一瞬で、玲の思考は現実に引き戻された。そしてこの夏休みの間、他の翠玉生たちが不在なのをいいことに、毎晩のようにみどりの部屋に来てしまっている自分に気づいた。
(潮と咲月は、この部屋に来てない……?)
 玲がこんなに入り浸っているのだから、鉢合わせてもおかしくないはずなのに、あの二人とはすれ違ったこともない。二人がみどりと個人的に話す場面すら、そういえば一度も見たことがなかった。どうしてあの二人は、みどりがいなくても、いつも平然としていられるのだろう。
 
「今日は、このチャペルについてお話したいと思います。まずは礼拝堂の設計ですが、旧約聖書の『ノアの方舟』が由来です。特徴的な部分はこの天井ですね。舟の底をイメージしたものですが、光が見えない方舟の中でも、神がいつも共にいて導いてくださる。そんなメッセージが伝わるかと思います」
 日曜日の朝、説教台に立つ植野を前に、玲はあくびを噛み殺していた。話が具体的なうちはまだ聞いていられたが、聖書の話が挟まれると集中力が切れてしまう。この学校に入って六年目だというのに、玲は一向に興味が持てず、いつも話半分に聞き流していた。
 夏休みの間、植野から参加を義務付けられた朝礼拝も、もう片手で数えるほどしか残っていない。全国大会が終わってから部活の日数も減り、時間に余裕ができた。そのすべてを埋める勢いで、玲は潮たちと夏休みの思い出作りに励んでいた。今夜も本校舎で肝試しをしようと、既に声をかけてあった。
「皆さんが住んでいる翠玉館にも、由来があります」
 ふいに耳に入った植野の声に、玲は顔を上げる。植野は温和に微笑んで、席に座る三人に言った。
「翠玉とは、宝石のエメラルドの和名ですが、エメラルドは神の栄光や恵みを表す石だと言われています。皆さんに、常に光が差すようにという願いが込められているんですね。エメラルドグリーンのステンドグラスは、その願いの象徴です」
 神の栄光と言われてもピンとこないが、翠玉生にとっての恵みは、間違いなくみどりの存在だろうと思った。いつもみどりがそばにいる翠玉館は、玲にとって本当に居心地のいい場所で、あと一年もしないうちに退寮だなんて信じられなかった。
 意識していなかった「退寮」が、玲の中で急に現実味を帯びる。卒業について口にしてはいたものの、翠玉館を出ていくこと、そしてみどりと別れることとは結びついていなかった。翠玉館にいる間、玲はずっとみどりに支えられていた。だが、翠玉館を出た後は、一体何を支えに生きていけばいいのだろう。
 隣に座る潮は、植野を真っ直ぐ見つめている。円形のステンドグラスから朝日が差し込んで、潮の艶やかな黒髪と、白く美しい横顔が輝いていた。すぐそばにある凛とした存在感が眩しくて、玲は思わず目を細めた。
 その夜、玲はみどりとペアになって、潮たちとは違うルートで本校舎を歩いていた。肝試しのゴールを講堂にしたのは、演劇部が校内公演を行うときに使っていて、玲にとって馴染みのある場所だったからだ。夜の本校舎に来るのは初めてで、いかにも非日常という雰囲気で楽しかった。みどりも教室を覗いては、時折聞こえる家鳴りや風の音にはしゃいでいる。
 二人はあっという間に東棟を一周してしまい、先に講堂に到着した。明かりのない部屋は薄暗く、えんじ色のカーテンがただの影になっている。潮たちが到着する瞬間を撮ろうと、玲は舞台の照明をつけ、グランドピアノの上にカメラを置いた。
「どうしたの、玲」
 振り返ると、みどりが心配そうに玲を見つめていた。玲は肝試しを精一杯楽しんでいたつもりだったが、様子がおかしいことに気づかれたのだろう。舞台に座った玲は視線を落とし、みどりには嘘がつけないな、と苦笑した。
「寂しいな、と思って」
 この夏休みが終わることが、翠玉館を出ていくことが、みどりと別れてしまうことが、玲はすべてがどうしようもなく寂しかった。どれも避けられないからこそ、居心地の良い箱庭を去らなければならないという事実が、潰れそうなほど重くのしかかっていた。
「大丈夫だよ、玲。私たちは、いつだってずっと一緒だよ」
 みどりの優しい声が、今日は聞き入れられなかった。首を横に振って顔を上げた玲は、視界に映ったみどりの姿に目を見開いた。短かったはずの髪が、肩を超してさらに長く伸びている。艶やかな黒髪で、肌も陶器のように白い。少しずつ近づいてくる彼女は、慈愛に満ちた表情で微笑んでいる。
「寂しいなら、ここにいればいいんだよ。ずっと一緒にいればいい。何も変わらないよ」
「潮……?」
 目の前にいるのは潮そのものだった。だが、講堂にはまだ咲月の姿がない。それに、玲の知っている潮はこんなことを言わないし、こんな表情で玲に微笑むはずがないのだ。
 舞台に座ったまま、玲は思わず後ずさった。彼女は容赦なく近づいてくる。あと少しという距離になった時、廊下から二人分の足音が聞こえてきた。
「遅いぞ、二人とも!」
 思い切って声を出した先に、咲月と潮の姿が見えた。玲は咲月に視線を向け、罰ゲームの風呂掃除を嬉々として語った。すぐ近くまで来ていたみどりは気が逸れたのか、講堂の中を自由に歩いている。
 しばらくして、玲は恐る恐るみどりを視界に入れた。みどりの姿は元に戻っている。しかし、安心したのも束の間、ずっと見つめていると次第に輪郭がぼやけていく気がした。玲は慌てて目を逸らし、わずかに震える腕を必死で抑えた。
 みどりが何者であるかは、瑣末な問題だと思っていた。だが――本当にそうだったのだろうか?
 
 三十日の夜、玲は潮たちを再び講堂に誘った。プロジェクターを用意して、舞台の壁に夏休みに撮った動画を映す。談話室でのお茶会から始まって、花火の夜や自炊の様子などがほのかに青白く輝いている。
 シーンが次々と移り変わる中、最後に撮った肝試しの夜が舞台に映る。四つ並べた椅子の左端に座った玲は、潮と咲月を横目で窺った。今夜の目的は夏休みを振り返ることではなく、二人にみどりがどう見えるか尋ねるためだった。肝試しの夜以来、玲は一度もみどりの部屋に行けなかった。自分一人でみどりに向き合うのは怖かったが、潮と咲月が一緒にいれば、まだ勇気が出せる気がした。
「ね、夜って言ったら、やっぱり内緒話じゃん。今から一人ずつ、誰にも言ったことがない秘密を話してみない?」
 玲は半ば強引に話を切り出すと、カメラの電源を消しに行った。あの日、玲は講堂の入口に向かってカメラを設置したので、幸か不幸かみどりの姿が変わった瞬間は映っていなかった。しかし、今の画角では四人全員が入ってしまっている。潮が二人なんて絵面は考えただけで恐ろしく、そんな瞬間を残したいとはとても思えなかった。
 玲が椅子に戻ると、咲月が強張った表情で舞台を見据えていた。玲は、咲月がみどりを避けている様子に気づいていた。明らかに視線を逸らしたり、距離を取ったりしている咲月を不審に思っていたが、咲月もみどりと何かがあったのかもしれない。きっと、咲月はみどりについて何かを打ち明けるだろう。玲がそう期待していた矢先、咲月は「ピアノを弾きたかった」とだけ言って、舞台のグランドピアノを弾き始めた。
 唖然と咲月を眺めていた玲は、咲月がピアノの話をしていたことを思い出す。今の咲月にとって最大の関心事がみどりではなかった事実に、玲は言葉を失った。
 みどりをこんなに気にしているのは、自分だけなのだろうか。いや、みどりがいる前だから話しにくいのかもしれない。もう少し話の流れを自然にしなければならないと、玲が必死で思考を巡らせていた時、潮が「私は嘘をついた」と呟いた。
 珍しく、感情が滲んだ声だった。潮は固く目を閉じて、絞り出すように言った。
「私は義母が――彼女が好きだった」
 あの潮が、堪えきれなくなったように苦しい表情を露わにしている。潮が語る義母への感情はあまりに切実で、箱庭から潮が何を見つめていたのか、そして潮が箱庭に関心がなかった理由を、玲は本当の意味でやっと理解した。
「歪んでるよね、こんなの」
 歪んでいる。
 玲の椅子が、ギィと鈍く軋んだ。潮の視線が玲に向けられる。玲はとっさに「そんなことない」と返し、思ってもないことを話し始めた。
「潮の気持ち、わかる気がするよ。年上のお姉さんって、それだけで憧れるっていうか」
 潮の感情は、そんな生易しいものではない。わかっていたが、否定せずにはいられなかった。潮にとっての「彼女」が、本当に潮が語った通りの存在なら、そんなの、全然勝ち目がないじゃないか――
 潮から視線を逸らすと、隣のみどりと目が合った。みどりは潮と全く同じ顔で、玲を見つめている。薄っぺらい言葉でその場を取り繕う玲を非難しているようで、玲は目の前が真っ暗になった。
「いつか皆で行こうよ、海」
 玲が苦し紛れにそう言った時、みどりが、ゆっくりと口を開いた。

 彼女が玲に向かって何を言ったのか、記憶から声だけが失われている。絶対に忘れてはいけなかったはずなのに、あの夏を何度も繰り返しても思い出せないのだ。
 ああ、今日も何もわからない。最後の記憶を取りこぼして、また愚かな夏を繰り返さなければならない。玲がたった一人、終わりのない暗闇に沈むような絶望感に囚われた時、腕を強く掴まれる感覚が玲を引き戻した。
「行こう、一緒に」

#4:https://note.com/shigemasayu/n/n5f85b14e8ced

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