見出し画像

「少女たちは翠の海に」二話 星々の音色


1

「咲月、夏休みはずっと寮にいるってほんと?」
 夏休み初日、咲月は朝から吹奏楽部の練習に出ていたが、休憩になった途端同期たちに囲まれて困惑した。
「そんな大事な話、なんで早く教えてくれなかったの?」
「強化練習には全部出るって言ったよ。帰省したら学校通えないよ」
「そうじゃなくて! この学校の二大美人、早川先輩と弓木先輩と、咲月の三人だけって話! 一度は想像する憧れのシチュエーションじゃん!」
 同期たちは皆一様に頷き、咲月たちの話に聞き耳を立てていた後輩たちも、羨ましそうに咲月を見つめている。
「咲月だって、絶対考えたことあるでしょ? 寮で毎日会ってるんだから」
「綺麗な先輩だとは思うけど」
 玲はファンクラブが結成されるほど絶大な人気で、講堂で行われる演劇部の学内公演はチケット制が導入された。抽選結果が出るたびに校内は大騒ぎになり、席を巡って熾烈な争いになっている。対する潮は、美術コースの期待の新星として注目され、校内に時折飾られる絵は必ず話題を呼んでいた。潮自身があまりに美人なので、誰もが遠巻きに彼女を眺めていたが、その近寄りがたさも含めて支持を集めていた。
 また、この二人が揃うとそれだけで絵になるのだ。中性的な魅力がある高身長の玲と、透き通るような儚さをまとう潮。誰も割って入れない二人の世界は、学校中の誰もが羨む高嶺の存在だった。
「三人だけって言っても、先輩たちも忙しいから。普段通り、食事の時に会うだけだよ」
「なによそれ、もったいない! 二人と親しくなりたいとか思わないの?」
「抜け駆けだって、皆に恨まれても嫌だし……」
 咲月の返事に、同期たちは「それもそうか」と納得したようだった。咲月はほっと胸をなでおろしつつ、内心ため息をつく。
 吹奏楽部の強化練習に出たい、という理由は建前で、本当は家に帰りたくなかっただけだ。今年の夏休みは、双子の妹の美月が出るピアノのコンクールがある。音大進学を見据えて、美月も練習に集中しなければならないし、両親も彼女のサポートで忙しい。普段はいない人間が帰ることで、煩わしい思いをさせたくなかった。
 玲と潮も残ると知った時は驚いたが、玲は演劇部の全国大会、潮は美大受験の講習があると聞いて納得した。学期中と同じく、個人的に二人と接する機会はないだろう。だから咲月は何も言わなかったのだが、周囲からそうは見えなかったらしい。
 高校から入った中途入学生は、それでなくとも目立ってしまうのだ。波風を立てないように、いつも通り大人しくしていようと思った。
 
 部活が終わる頃には、空は薄暗くなり始めていた。宣教師館の扉を開けると、いい香りが漂ってきた。
「遠藤さん、お帰りなさい」
「ただいま帰りました、植野さん」
 キッチンから出てきた牧師の植野に、咲月は微笑んだ。植野はオルガニストとしての顔もあり、咲月はチャペルで聴く彼のオルガンが好きだった。礼拝の作法や聖書については正直よくわからないが、オルガンの演奏を聴くために礼拝を覗くことがあり、植野とも親しかった。父親よりもさらに上の世代だからか、祖父に近しい安心感があった。
「手伝います、何すればいいですか?」
「では、テーブルの用意をお願いします」
 荷物を置いて手を洗い、キッチンとダイニングを往復する。カトラリーは銀色に輝き、ガラスボウルに入ったサニーレタスのサラダは瑞々しかった。冷製ポタージュと夏野菜のカレーを並べ、テーブルの用意が済んだ頃、扉の開く音がした。
「ごめんね、遠藤さん。手伝えなくて」
 入ってきたのは潮だった。陶器のように白い肌、色素の薄い瞳、長いまつ毛、艶やかな黒髪。潮を構成するすべてが完璧に整っていて、間近で見た咲月は息を呑んだ。
 一緒に住んでいるとはいえ、別の階なので滅多に会うことはない。時折見かけることはあっても、遠くから眺める程度で、一対一で話したこともなかった。潮から面と向かって呼びかけられたのも、これが初めてだった。
「気にしないでください。たまたま、練習が早く終わったので」
 咲月は、そう返事をするのがやっとだった。同期たちがざわつくのも当然だったと、今更になって実感する。それからほとんど間をおかずに、また扉の開く音がした。
「すみません、遅くなりました!」
 急いで帰ってきたのか、玲は黒い稽古着のままだった。飾り気が何もないのに、玲はスポットライトを浴びているかのように輝いていた。すらっと高い身長に長い手足、大きなアーモンドアイは意志に満ちていて、見つめられたら引き込まれるような魅力があった。
「お帰りなさい、早川さん。ちょうど支度ができたところですよ」
「とっても美味しそうですね! 私、ほんとにお腹すいちゃって」
 玲が植野の隣に座ってしまったので、咲月は植野の向かいの席を取った。隣に潮が座る気配がしたが、咲月は緊張して顔をろくに上げられなかった。
 食前の祈りが終わり、夕食が始まった。玲と植野が楽しそうに会話する中、咲月は夏野菜のカレーを食べながら、大変なことになったかもしれない、と思った。さっきから全然味がしないのだ。普段と何も変わらないと軽く考えていたが、それは大きな間違いだったと認識の甘さを後悔した。
「咲月は? 吹奏楽部はどんな感じ?」
 はっと顔を上げると、玲が人懐っこい笑みで咲月を見つめていた。
「今年の夏は、気合入ってるって聞いたよ」
 これはだめだ、と咲月は白旗をあげる。どうして玲のファンクラブに入っていなかったのだろう。今すぐ会員になって、チケット争いに自分も参加しなければと思うほど、正面から見る玲は凛として美しかった。
「あ、秋に定期演奏会があって……」
 返事をしようにも、うまく言葉が出てこない。鼓動が明らかに速くなり、咲月が半ばパニックになっていると、植野が穏やかに言った。
「今年は創立六十周年なんですよ、吹奏楽部は」
「六十周年? 歴史が長いんですね」
「前任の牧師から聞いた話ですが、創立当時から熱心に練習されていたようですよ。アンサンブルコンテストの優勝常連校だったとか」
 植野の低く穏やかな声を聞いているうちに、咲月は少しずつ落ち着いてきた。植野の助け舟に感謝しつつ、咲月はどうにか口を開く。
「今年は記念の年なので、定期演奏会に照準を合わせているんです。外部から特別に先生も呼んでて、それで、クラリネットのパートリーダーに指名されて……」
「パートリーダーって、具体的に何をするの?」
「先生からの指示を、他のクラリネットの子たちに共有したりとか……あとはパート分けとか、練習の仕切りなどをやってます。だから、今年は帰省する余裕がなくて」
「なるほどね、本当にリーダーなんだ。格好いいな」
 誰よりも格好いい人から褒められて、動揺のあまり再び俯いてしまった。こんな会話をしたことが他の部員に知られたら、きっとただでは済まないだろう。
 話題は潮へと移り、咲月はやっとカレーの味を感じ始めた。この場に植野がいてくれてよかったと、咲月は心の底から思った。三人だけで寮生活を過ごすなんて、心臓がいくつあっても足りやしない。夏休みが終わるまで植野を頼って乗り切っていこうと、咲月は一人頷いた。
「夏休みの食事なんですけど、私、翠玉館で自炊してみたいと思ってるんです」
 突然耳に飛び込んできた言葉に、咲月はぎょっと顔を上げた。
「翠玉館は自治寮の精神を掲げているのに、最近特に、学校のお世話になりすぎている気がするんです。昔の翠玉生は、一階の調理室で自炊していたって話を聞いたことがあって」
 熱く語る玲に、植野は感心したように頷いている。いつになっても玲を否定する気配がない植野を前に、咲月は呆然と目を瞬かせていた。どうしてこんな話になったのか、咲月が全く追いつけないまま話は進んでいき、気づいた頃には玲と植野の間で結論がまとまっていた。
「朝の礼拝には参加していただきたいので、日曜日の朝食は一緒に食べましょう。それ以外は、皆さんの自治の精神を尊重しますよ」
 
 翠玉館への帰り道、咲月は自分の足元を見ながら、大変なことになった、と思った。夏休みは寮監の先生もいない。咲月にとっては植野だけが頼りだったので、梯子を外されたような気持ちになっていた。
「玲、どうしてあんなこと言い出したの?」
 前の方で二人が話をしている。咲月が恐る恐る顔を上げると、玲が無邪気に言った。
「だって、宣教師館だとみどりが一緒に食べられないじゃん。ね、帰ったら談話室でお茶会しようよ。ジュースとか色々買ってあるんだよね。みどりにも声かけてあるんだ。咲月も来るでしょ?」
 急に話を振られたので、咲月はとっさに頷いてしまった。着替えてから談話室に集まることになり、部屋に戻った咲月はクローゼットを開けて呟いた。
「お茶会って、一体何着ればいいの……?」
 クローゼットの中には、基本的に雑な部屋着とパジャマしかない。門限が厳しいので学校の敷地から出ることがなく、私服を着る機会がほとんどないのだ。数少ない私服はどれも真新しく、外に出かけるわけでもないのに不自然な気がした。
(このプリーツスカートはやりすぎ? でも、パジャマはまずいよね……)
 なにせ、お茶会の相手は玲と潮だ。二人がどんな服を着てきたとしても、咲月がよれよれの部屋着なんて選んだ日には、一人だけ場違いさが目立つに決まっている。
 散々悩んだ末、咲月は比較的新しいワンピース型の部屋着を選んだ。淡いラベンダー色のワッフル素材で、まだそれほど着ていなかった。急いで階段を降りると、談話室には既に玲とみどりの姿があった。
「すみません! 遅くなって……」
「大丈夫だよ、まだ潮来てないし」
 玲はラフなTシャツと短パンで、爽やかな青年のようにも見えた。丸テーブルの上に並んだラムネソーダの瓶が、玲の清涼感をより引き立たせている。端正な顔立ちを前に咲月がぼうっとしかけた時、みどりが笑って言った。
「咲月も座ったら?」
 丸みを帯びたショートボブに、くりっとした瞳。制服姿のままのみどりは、椅子に座って無邪気に足を揺らしている。
 咲月は小さく頷くと、みどりの隣の席に座った。できれば距離を空けたかったが、丸テーブルなのでどこを選んでも大差ない。咲月はなるべく隣を見ないようにして、膝の上で両手を軽く握った。
 みどりは翠玉館の一階に住む、翠玉生にしか見えない「秘密の友人」だ。ずっと同じ姿のまま、翠玉生の良き隣人として暮らしている。寮生活で疲れた時、翠玉生たちはみどりの住む部屋に行って、悩みや相談、愚痴などをみどりに打ち明けるのだという。咲月も「気持ちが軽くなるよ」と勧められたが、今まで一度も行ったことがない。
 咲月は、みどりが苦手だった。
 中等部から寮にいる他の同期たちと違って、咲月にはみどりのことを受け入れる素地がなかった。なので、どう接すればいいのかわからないまま、みどりに近づかないように生活していた。
「なんかさ、不思議な感じしない? 翠玉館に私たちだけなんて」
 玲はみどりの真向かい、そして咲月の隣の席に座っていた。間近で向けられた玲の笑顔が眩しくて、咲月は「そうですね」と頷いたきり、また上手く言葉が出てこなかった。頬が熱くなるのが自分でもわかったが、高揚感をごまかすことができなかった。
 玲は椅子から立ち上がり、テーブルのそばに三脚を立て始める。高さを調整してネジを止めながら、歌うように言った。
「いつも通り過ごすだけじゃ、もったいない気がするんだよね。せっかく翠玉館に残れたんだから、特別な夏休みにしたいっていうか」
「特別な、夏休み……?」
 咲月は、自分の声が上ずったのを感じた。どきどきと胸の鼓動が速くなり、楽しそうに微笑む玲の口元をじっと見つめる。
「そう、私たち四人だけの」
 玲の言葉は、咲月にとって魅惑の響きがあった。玲の「特別な夏休み」に自分も含まれているなんて、普通なら考えられない状況だ。家に帰りたくないという理由だけで残ったというのに、こんな幸運があっていいのだろうか――
「遅いよ潮、ジュースぬるくなっちゃうじゃん」
「なにそれ、カメラ?」
 はっと我に返ると、いつの間にか潮の姿があった。キャミソールに半袖のパーカーを羽織ったシンプルな装いで、彼女の肌の白さと透明感が際立っている。
(この学校の、月と太陽……)
 二人の組み合わせは、校内でそう囁かれていた。潮が月で、玲が太陽。誰が最初に言い出したのかはわからないが、対照的な二人を指す表現として相応しく、この学校の生徒なら誰でも知っている二つ名だった。
 今年の夏休みだけは、二人のそばにいられる。それがどんなに貴重で尊い時間か、咲月は今になってやっと実感し始めていた。
「それじゃ、まずは乾杯しよ! 四人の夏休みに、かんぱーい!」
 咲月の真向かいに潮が座り、玲の声とともに、ラムネソーダの瓶が重なった。ラムネソーダに口をつけると、ピリッとした炭酸が抜けていって、さっきまでふわふわとしていた思考がわずかに戻って来た気がした。
「このソーダ見ると、今年も夏が来たって感じするよねー」
「購買ですか?」
「うん、休憩中にまとめ買いしてきた。昔から売ってるんだって。ね、みどり」
「そうよ。みんな夏になると、必ず飲みたくなるんだから」
 玲とみどりが気安げに会話する側で、潮は涼しい顔でラムネソーダを飲んでいる。
(弓木先輩は、みどりさんのことをどう思ってるのかな)
 今の翠玉生の中で、高校から入った中途入学生は咲月と潮だけだ。みどりを受け入れるための素地がなかったのは潮も同じはずで、潮がみどりと個人的に話している場面も今まで見たことがない。
 咲月にとって、翠玉館は決して居心地が悪いわけではない。だが、心から馴染んだ感じもしないのは、他の翠玉生たちが当然のように受け入れている「みどり」という存在を、一向に受け入れられないからだ。
「潮が来る前、咲月とみどりにも話してたんだ。いつも通り過ごすだけじゃ、絶対もったいないと思ってさ。せっかく翠玉館に残れたんだから、この四人だけで夏休みの思い出を作りたいんだよね」
 きっと、これは最初で最後のチャンスだ、と思った。
 今年の夏休みを逃したら、咲月はもう二度と潮と同じ夏休みを過ごせない。潮がみどりのことをどのように理解して、どうやって受け入れたのか、潮が翠玉館を出て行く前に知りたいと、咲月は強く頷いた。
 いいよ、と軽く言った潮に、玲は夏休みの計画について説明し始める。玲の計画が魅力的だったのか、みどりはわくわくした表情ではしゃいでいた。咲月はそんなみどりを見つめ、この夏休みが終わるまでに少しは馴染めるだろうか、と不安になった。

2

 数日後、咲月は朝早くから音楽室で一人、クラリネットの練習に励んでいた。外部から呼んでいる特別コーチが来る日で、午前中はパート練習の予定になっていた。
 咲月の自主練習が終わった頃、他の部員が登校してくる。咲月はクラリネットパートの部員を集め、パート割りや演奏の流れを確認した。話し合いが済んだタイミングで特別コーチが現れ、クラリネットパートの練習が始まった。
「遠藤さんは、耳がいいんだねえ」
 定期演奏会の曲目の中から数曲演奏し、咲月が代表して意見を交わした後、音大の講師だったという老年の男性は感心したように言った。
「先週の練習でも思ったけどね、周りの音を聴いてよく判断できている。パートリーダーに指名して正解だった。その耳があれば音大も目指せるよ。考えたことはなかった?」
 コーチの言葉に、咲月は息を詰まらせる。しかし、周囲に不自然さを悟られる前に、咲月はコーチに微笑んでみせた。
「ないですよ、一度も」
「そう? もったいない気もするけどねえ。今からでも遅くないよ」
「私には、過ぎた夢です」
 咲月がきっぱりと言い切ったので、コーチもそれ以上追及はしなかった。パート練習が一通り終わり、昼休みのためにクラリネットを片付けていると、同じパートの同期が腕をつついて来た。
「やったじゃん、咲月」
「褒め上手なんだよ、あの先生は。この前の練習も優しかったし」
「でも、上手くない人をわざわざ褒めないでしょ。うちらも、咲月がクラリネットのリーダーやってくれてよかったなと思ってるし」
 そばにいた後輩たちも、その通りだという表情で頷いている。彼女たちからの信頼が真っ直ぐ伝わって来て、咲月は後ろめたい気持ちになったが、しばらくして「ありがとう」とまた微笑んでみせた。
 午後の全体練習が済んで、帰る頃には日が陰っていた。昇降口で他の部員と別れ、咲月は一人翠玉館に向かって歩き出す。
 朝が早かったせいか、クラリネットケースがいつもより重たく感じた。敷地の奥へと続く木立は薄暗く、咲月は足元を眺めながらため息をつく。午前中の会話が頭から離れず、午後の練習は集中できなかった。
 中学から始めたクラリネットは、今でこそそれなりに愛着はあるが、特別気に入っているというわけでもなかった。吹奏楽部に入部した時、クラリネットのパートに空きがあったからという、ただそれだけの理由で選んだ楽器だった。
 妹の美月と同じく、咲月も幼い頃から、母親の意向でピアノを習っていた。
 咲月が「ちょっと惜しい」のは、ピアノでも同じだった。同じ課題曲を同じ練習量で同じように弾いたら、必ず美月の演奏に賞賛が集まり、「咲月ちゃんもよかったんだけどね」の一言で片付けられる。
 全く違う曲を選んでも、周囲の反応はなにも変わらなかった。美月の方が難易度の高い曲だった、美月の方が情感豊かに演奏できた、美月の方がミスタッチが少なかった、美月の方が、美月が――
 結局、咲月は早々に音を上げた。美月が中学で部活に入らず、ピアノに集中したのとは対照的に、咲月は吹奏楽部に入った。咲月の「誰かと演奏してみたい」という、取ってつけたような口実は納得され、母親にもあっさり受け入れられた。
「音大も目指せる、か……」
 幼い頃は、咲月もピアニストに憧れていた。でも、どうやったって美月に敵わないのだから、その時点で無謀な夢だと諦めがついてしまった。咲月がピアノを辞めたことを美月は気にしていたが、単に美月ほど熱意がなかっただけだ。だから気にしなくていいと咲月は言ったものの、美月は悲しそうな顔をするばかりだった。
 パイプオルガンの音が響いてくる。木立を抜けると、赤煉瓦造りのチャペルが現れた。円形のステンドグラス越しにライムイエローの明かりが漏れ、ゆったりとした旋律が流れている。咲月は歩きながらその音色に耳を傾け、いいものが聴けたと微笑んだ。
 ピアノを弾かなくても、自分は変わらず音楽が好きだ。咲月はそれで充分だった。
 
 咲月が翠玉館に帰ってからほどなくして、玲と潮がスーパーの袋を手に帰ってきた。制服のまま調理室に入り、三人で夕飯の支度にとりかかった。しかし、潮の手際が鮮やかで、咲月が手伝う余地もなかったので、咲月は談話室でテーブルの支度をすることにした。
 丸テーブルを磨いてテーブルクロスを敷き、カトラリーを並べる。水差しとコップを用意したところで手持ち無沙汰になり、咲月は談話室を眺めた。明るいパステルグリーンの壁に、花の形のシャンデリア。そして、アンティークのアップライトピアノ。
 ブラウンの木目が美しい、金の燭台がついたピアノだった。誰かが弾いているところを見たことがないので、今は使われていないのだろう。蓋の鍵穴に気づいた咲月は、きっと閉まっていると思いながら、何気なく蓋に手をかけた。
「お待たせ、できたよー」
 咲月がぱっと振り返ると、玲と潮がトレイを持って入って来た。あたたかいトマトソースの香りに、咲月は思わず声を上げた。
「いい香り、美味しそうですね」
 その日のメニューは、茄子とトマトのパスタに玉ねぎのスープだった。後からついて来たみどりも椅子に座り、四人で食卓を囲んだ。
 潮の作った夕食は本当に美味しかった。潮の手際を褒める玲に、咲月も心底賛同する。パスタは盛り付けまで品があり、スープは澄んだ琥珀色に仕上がっていた。誰もが認める美人で、絵の才能があって、さらに料理まで上手となると、欠けているところが一つも見当たらなかった。
「じゃあ、今は三人家族ってこと?」
「弟がいるよ。まだ保育園児だけど……」
 なので、潮から明かされた家庭の事情に、咲月は言葉を失った。その後、四人で花火をしている間も、咲月はずっと潮の家庭事情について考えていた。
(弓木先輩も、家で上手くいかなかったりしたのかな……)
 咲月は潮のことを、手の届かない遠い存在だと思っていた。だが、さっきの話を聞いてから、潮は自分と近い境遇かもしれないと、心のどこかで期待してしまっていた。
「潮が寮に入ったのって、もしかしてそれが理由?」
「まあ、私だけ余ってたしね」
 玲の問いかけに潮が頷いた時、咲月は思わず「私もです」と口を挟んだ。
「私、実は双子なんです。一卵性の妹がいて」
 話すきっかけがなかった、と言いながら、咲月は意図的に美月の存在を伏せていた。優れた妹から逃げてきた、情けない姉だと思われるのが怖かったのだ。
 しかし、学校の中心で輝く玲や潮と比べたら、自分はごく平凡な存在だ。二人の前では、咲月は虚勢を張る必要がない。それに、もし潮が家族から逃げるために翠玉館に入ったのなら、この話に共感してもらえるかもしれないと、咲月は淡い希望すら抱いていた。
「優しいね、遠藤さんは」
「……優しい、ですか?」
「だって、妹さんのために家を出たんでしょう? 簡単にできることじゃないと思う」
 潮の返事に、咲月は絶句する。潮の善良な解釈を聞いて、咲月は余計に打ちのめされた。そんなに美しい話ではないのだと、潮の誤解を正すこともできず、咲月は燃え落ちる線香花火を眺めることしかできなかった。
 花火が終わった後、部屋に戻った咲月はいてもたってもいられず、一人で談話室に向かった。アンティークのアップライトピアノに近づき、どうせ鍵がかかっていると蓋に手をかける。ところが、蓋はあっさり開いてしまい、整然と並ぶ白い鍵盤が現れた。
 久しぶりに間近で見たピアノの鍵盤に、咲月は指を伸ばしかける。だが、触れそうになる寸前で指を握りしめ、蓋を閉めて振り返った。
「何してるの? 咲月」
 談話室の入口に、みどりが立っていた。気配もなかったので、咲月はぎょっとしてしまった。いたずらっぽく笑うみどりに、咲月は苦笑混じりでため息をつく。
 いつからそこにいたのかと、みどりに尋ねようとした咲月は、彼女の髪が以前より伸びていることに気づいた。髪はショートボブくらい、と他の翠玉生に聞いてから、ずっとそういうものだと思っていたが、今はちょうど肩先で切り揃えたような長さだった。
 みどりも髪が伸びるのか、と首を傾げた咲月は、近づいてくるみどりに違和感を抱き始めた。髪型だけでなく、面影も異なっているような気がしたのだ。いつからそうだったのか、目元はくりっとした丸い瞳ではなく、いつの間にか丸いたれ目に変わっている。
 強い既視感に襲われた咲月は、このまま目を合わせ続けてはいけないと、心の中で警報が鳴り響くのを感じた。しかし、何故か視線を逸らすことができず、咲月が既視感の理由に気づいた頃には、みどりは咲月のすぐ目の前まで迫っていた。
(この顔、って――)
 咲月は、この顔をよく知っている。どこまで行っても逃れられない、自分にずっとついて回る顔。咲月が強張ったまま声も出せないでいるうちに、彼女はピアノを指さした。
「本当は、ピアノが弾きたかったんでしょう?」
 自分と同じ顔だ、と認識した時、咲月は弾かれたように談話室から逃げ出した。
 一度も振り返らずに階段を駆け上り、自室に飛び込んで扉を閉める。鍵をかけた扉に背を預けたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。
 談話室で見たものは、一体なんだったのだろう。咲月は震える体を必死で抑えようとしながら、さっきの言葉を思い出した。
〈本当は、ピアノが弾きたかったんでしょう?〉
 薄暗い部屋の中、咲月は首を横に何度も振って、膝を抱えてうずくまった。

3

 花火の夜からしばらく、咲月はみどりとなるべく目を合わせないように、そして二人になりそうな場面を必死で避け続けた。
 視界の隅に映る分には、みどりは以前の姿のままだったが、目が合ったらまたあの姿が見えてしまう気がして怖かった。こうして怯えたまま夏休みを過ごすのか、と思うと気が遠くなりそうだったが、かといってどうすればいいのか全然わからなかった。
 日曜日の朝、咲月たちは宣教師館で朝食をとり、礼拝のためチャペルに向かった。
 蔦の絡まる扉を開けると、すぐに礼拝堂が見通せた。赤い煉瓦の壁に、チェスナットブラウンの木組みの天井。木の長椅子が並んだ先には祭壇と説教台、そしてパイプオルガンが設置されている。円形のステンドグラスから朝日が差し込んで、銀色のパイプが一際眩しく輝いていた。
 植野がパイプオルガンの前に座り、オルガン奏楽が始まる。三人で讃美歌を歌い、聖書の朗読が終わった後、説教台で植野が語り出した。
「今日は、信仰についてお話ししようと思います。こちらの礼拝堂でも掲げている十字架は、見ての通り縦軸と横軸が重なっていますが、この形を用いて信仰そのものを解釈することがあります」
 祭壇の上部に掲げられた十字架を見上げ、植野は微笑んだ。
「まず、横軸ですね。これは人によって考え方が異なります。隣人との対人関係や、社会生活だと捉えることもあります。私も様々な解釈をしてきたのですが、今は人の一生だと考えています。生まれてから寿命を終えるまでの、時間の流れですね。川の水が海へと流れていくように、時間もまた等しく流れていきます」
 普段の礼拝は、生徒全般に向けた聖書に関する解説がほとんどで、この学校に入るまで関心がなかった咲月は、正直半分も理解できていなかった。しかし、今日は三人しかいないからか、植野の説教はいつもと話しぶりが異なっていた。
「川の流れは、時に濁流になることもあれば、氾濫してしまうこともある。人生はよく荒波に例えられますが、激しい流れの中で倒れずに立ち続けることは困難です。何か、支えとなるような縦の軸がなければ」
 植野は自分の手を支えるように、分厚い聖書を説教台に立てた。
「この縦軸の役割を担うのが、信仰です。天にいる神を信じ、空を見上げることで、人は荒波に飲まれることなく真っ直ぐ立ち続けられる。……とは言っても、縦軸を何にするかは人それぞれです。別に信仰でなくても構わないと私は思います。自分が心から信じられる、迷った時に支えとなるものを見つけてください」 
 植野の合図で三人は立ち上がり、再び讃美歌を歌う。そして最後に祈りの言葉を朗読して、礼拝は終わった。
「今夜は流星群のピークだそうです。皆さんも、ぜひ夜空を見上げてみてくださいね」
 
 チャペルを出た後、咲月は一人で音楽室に向かった。吹奏楽部の練習はなかったが、玲は演劇部、潮は美術室に行くというので、二人がいない翠玉館で過ごす気にはなれなかった。誰もいない音楽室でクラリネットを吹きながら、植野の説教について考えていた。
(自分が心から信じられる、迷った時に支えとなるもの……)
 咲月は、特に何も思い浮かばなかった。昔はピアノが大好きで、嫌なことがあってもピアノを弾けばすべて忘れられた。今、クラリネットにそこまでの気持ちはない。咲月にとって単旋律の楽器は、誰かと演奏してこそ成り立つもので、自分一人の音はいつも頼りなく聴こえた。
 最後まで曲を吹き終えることなく、咲月はリードから唇を離す。クラリネットの黒い管体に、銀メッキのキイが張り巡らされている。その表面に映る、像が歪んだ小さな自分を眺め、咲月はため息をついた。
 周りの音を聴いてよく判断できている、とコーチは咲月に言ったが、自分の音は何一つ聴けずに迷ってばかりだ。他の部員たちから信頼されればされるほど、咲月は自分の気持ちの薄っぺらさが嫌になった。クラリネットを続けていれば、いつか心から好きになれると思っていたのに、自分が信じられなくなる一方だった。
 練習に身が入らないまま時間だけが過ぎ、咲月はとぼとぼと翠玉館に帰った。夕食の席でも咲月は上の空で、上手く笑えていたかわからなかった。一緒にいる玲たちがあまりに眩しくて、自分だけが暗いところに沈んでいるような気がした。
「今朝の礼拝で聞いた流星群、これからピークなんだって。皆で一緒に見ない?」
 夕食が終わった後、玲は窓の外を見上げて楽しそうに言った。
「中庭にレジャーシート敷いてさ、寝っ転がって見たら絶対楽しいよ」
「いいけど、蚊取り線香つけないとね」
 玲と潮の会話に、みどりも嬉しそうにはしゃいでいる。翠玉館の裏にある中庭に向かう間、咲月は玲たちと少し距離を置いて、後から一人ついて行った。
 夏休みが始まった頃は、玲たちと過ごせるなんて奇跡みたいだと思った。なのに、今は劣等感しかない。こんなに落ち込んだのはいつ以来だろうと、俯いていた咲月の耳に、ふっと潮の声が入ってきた。
「星が、よく見えるね」
 空を見上げると、星々が無数に広がっていた。想像を遥かに超える数に、咲月は目を見開いた。視線を逸らさないでいるうちに、暗闇に目が慣れてきたのか、真っ暗だった夜空は次第に瑠璃色へと変わる。さっきまでは見えなかった、小さな星屑の光までわかるようになって、咲月は中庭で立ち尽くした。
「すごいな、いつもこんなに見えてたっけ」
 レジャーシートを敷きながら、玲が感心したように声を上げる。蚊取り線香を炊いていた潮は、煙が出たことを確認して呟いた。
「今日は新月だから。月明かりがほとんどない」
 潮の言葉通り、月がどこにも見当たらなかった。星空に圧倒されていた咲月は、玲たちがレジャーシートに座ったことに気づき、おずおずと左端に座る。
 咲月の隣に潮が座り、さらにその隣で玲とみどりが寝そべっていた。玲とみどりは、誰が流れ星を一番に見つけるかという話で盛り上がっている。潮は片膝を抱え、空を見上げて言った。
「ペルセウス座は、さすがにまだ見えないね」
「ペルセウス座、ですか?」
「今日、ペルセウス座流星群だから。聞いたことない?」
 咲月は、星座についてほとんど知らなかった。「そっか」と呟いた潮は、少し考えた後再び顔を上げた。
「冬は、北の空でよく見える星座で……夏は北東に上るけど、明け方頃まで待たないと見つけられない。ペルセウス座流星群は、そのペルセウス座の方角から流れてくる」
「何か、特徴とかあるんですか? 星座の形に」
「ペルセウスはギリシャ神話の英雄で、右手に剣、左手にメデューサの首を持っている、って話だけど。メデューサは、目が合うと体が石化する怪物」
 潮の説明に、咲月は花火の夜を思い出してしまった。ピアノを指さした、自分と同じ顔をしたみどりが脳裏をよぎり、背筋がぞっと震えた。
〈本当は、ピアノが弾きたかったんでしょう?〉
 あの言葉は咲月にとって、呪いにも似た恐ろしい響きがあった。どうして、みどりが自分と同じ顔に見えたのかわからないが、心の奥底に沈めた感情から、目を逸らし続けたツケが回って来たのだと思った。
「咲月、今日は自主練だったの?」
 玲の問いに、咲月は自分が黙り込んでいたことに気づく。潮の怪訝な視線に気づかないふりをして、「聴こえましたか?」と返事をした。
「なんか新鮮だった。クラリネットってああいう音なんだなって」
 自分一人の音は、玲の耳にどう聴こえたのだろう。咲月は玲の方を振り返りかけたが、視界の隅にみどりが映ってしまい、目を逸らしたはずみに体がぐらりと揺れた。
「咲月って、どうして吹奏楽部に入ったの? 昔からクラリネットやってたとか?」
 玲に対して、今度はすぐに声が出てこなかった。不自然な間が生まれたのが自分でもわかった。隣の潮がじっと咲月を見つめている。色素の薄い澄んだ瞳を前に、咲月は思わず口を開く。
「楽器は、別になんでもよかったんです。音楽を続ける大義名分が欲しかっただけで」
「……大義名分?」
 はっと我に返ったが、口にした言葉はもう戻らない。咲月は視線を外し、努めて明るい調子で言った。
「私、もともとピアノを習っていたんです。妹と同じ教室に通って、毎日ピアノを取り合って。でも、やっぱり妹の方が上手かったんですよね。家にはピアノが一台しかなかったし、真剣に音大を目指す妹に譲るべきだと思って、すっぱりやめました」
 だが、ピアノの代わりに何をすればいいのかわからなかった。音楽への未練をすぐには断ち切れず、だったら他の楽器で埋めてしまえばいいと思った。楽器の転向は珍しい話ではないし、いつか時間が解決してくれるだろうと、軽い気持ちで決めてしまった。
「咲月は、もうピアノは弾かないの? この学校には何台もあるし、先生に言えばいつでも弾かせてくれるよ」
「いいんです。ピアニストを目指すほどの才能もないので」
 コーチに「耳がいい」と言われたあの日、その後いくらでも、引き返すタイミングはあったのだ。潮たちに美月のことを話そうと思わなければ、談話室でピアノを開けようとしなければ、みどりが自分と同じ顔だと気づかなければ――
 潮が、軽く首を傾げて言った。
「才能がなくても、ピアノは弾いていいでしょう?」
 咲月が息を呑んだ時、潮はすっと空を見上げた。
「流れたよ、今」
 深い瑠璃色の空に、星々が瞬いている。視界の隅々まで目を凝らすと、時折光の軌跡が走っていった。追いつこうと視線を動かしても、その時には既に流れ去っていて、星の流れはなかなか捉えられなかった。
 星々は、よく見ると大きさや光の色が少しずつ異なっている。星の瞬きを見つめていると、何か音が鳴っているような気がして、咲月は光の粒を捉えようと目を細めた。
(夜想曲の楽譜みたい……)
 そう思った時、咲月はふいに既視感に気づいた。こんな夜を、前にも過ごしたことがある。一体いつのことだったのかすぐには思い出せなかったが、その時の咲月も夜想曲の楽譜を思い浮かべていた。
 脳裏で、ショパンの夜想曲の旋律が響く。久しぶりに聴こえてきたピアノの音を逃さないように、咲月は一心に夜空を見上げ続けた。
 
 流星群のピークが過ぎ、夜は一層深くなっていく。
 部屋に戻った咲月は、談話室で見たみどりの姿について考えていた。
 あの時、みどりを見て「同じ顔だ」と思ったが、実際は誰の顔だったのだろう。咲月と同じ顔をした人間は、もう一人存在している。目の前でピアノを指さしていたのは、自分自身だったのか、あるいは妹の美月だったのか。
 咲月は部屋を出て、三階に上がった。潮の部屋の電気はまだついている。ノックをすると、「どうぞ」と声が聞こえた。
「どうしたの、遠藤さん」
 デスクライトがついた机には、スケッチブックと鉛筆が置いてある。部屋の扉を閉めた咲月は、意を決して切り出した。
「弓木先輩は、みどりさんのことをどう思ってますか」
「どう、って」
「先輩も、中途入学生じゃないですか。みどりさんの存在を、どうやって受け入れたんだろうと思って」
 みどりのことを潮に尋ねるなら、今夜しかないと思った。この夜を逃すと、自分はもう勇気が出せなくなる。夜が明ける前に、咲月は潮と向き合わなければならなかった。
 だが、口に出した後で咲月は我に返った。いくらなんでも、この聞き方は突然過ぎる。他に何か言い方はなかったのかと咲月が後悔した時、潮は目を伏せて言った。
「ある種の信仰のようなものかな、って」
「……信仰?」
「今朝、礼拝で牧師さんが言ってたでしょう? 信仰とは、人を真っ直ぐ立たせてくれる縦軸の役割があるって」
 思ってもみなかった話に咲月が目を見張ると、潮は淡々と続けた。
「翠玉生にとってのみどりは、その縦軸なんだろうと思ったよ。みどりを信じるということは、翠玉生であることとイコールで繋がっている。だから、翠玉生にしかみどりの姿は見えない。みどりがいるから、翠玉館に住む寮生は『翠玉生』でいられる」
 潮の話を聞きながら、咲月は次第に、そうかもしれないと思い始めた。潮の説明は筋が通っていて、理解してしまえばすんなり腑に落ちる。同時に、咲月は潮の話し方に違和感を覚えた。なんだか客観的過ぎる気がしたのだ。
 潮自身はそれで納得しているのか、と聞こうとした咲月は、結局その問いを飲み込んでしまった。視線を落とした潮が、それ以上踏み込んでくるなと線を引いているように見えたのだ。
 
 夏休みは過ぎていき、気づけば三十日になっていた。
 翠玉館の掃除が終わった後、玲に誘われて講堂に向かった。夏休みの間、玲が撮っていた動画を編集したという。咲月にとってこの夏休みはあまりに非日常だったので、カメラの存在まで気にする余裕がなかったが、いざ上映されると夏休みの出来事がほとんど映っていて驚いた。
 舞台には今いる講堂が映し出され、潮と咲月が二人で現れる。「今週の風呂掃除は決まりだね」と言う玲の声に、咲月が「ずるいですよ」と笑う。映っている自分の表情が本当に嬉しそうで、あの時こんな顔をしていたのかと、咲月は頬に手を当てた。
 本校舎で肝試しをした夜、初めて潮から「咲月」と名前で呼ばれた。潮が誰かを親しげに呼ぶ場面なんて、咲月はそれこそ玲以外に見たことがなかった。
〈私は、夏休みを一緒に過ごしたのが咲月でよかったと思う〉
 話の発端は、咲月が名前の由来を語ったことだった。どうしてそんな流れになったのか、今となってはよく覚えていない。潮から「咲月」と呼ばれた事実が鮮烈で、それ以外のことはすべて忘れてしまった。
〈咲月じゃなかったら、きっと違う夏になった〉
 色素の薄い澄んだ瞳が、真っ直ぐに自分を見つめている。嘘みたいな瞬間で、潮が「咲月」と呼ぶ声とともに、鮮明な記憶となって刻まれた。玲がいなかったので映像には残っていないが、この先もずっと覚えていると確信した。
「あっという間でしたね、夏休み」
 舞台に映る動画を見ながら、咲月は、夏休みの終わりを実感する。起こった出来事の半分も飲み込めていないが、いつか懐かしいと思う日が来るのだろうかと、青白く光る夏休みを前にぼんやり考えていた。
「まだ終わらないよ。夜が明けるまでは、夏休みだから」
 え、と思う間もなく、玲の弾むような声が聞こえてくる。
「ね、夜って言ったら、やっぱり内緒話じゃん。今から一人ずつ、誰にも言ったことがない秘密を話してみない?」
 誰にも言ったことがない秘密、と聞いて、すぐに浮かんだのはピアノのことだった。舞台の隅に置かれている、黒いグランドピアノに視線が吸い寄せられる。
 流星群の夜、潮から「才能がなくても、ピアノは弾いていいでしょう?」と尋ねられた時、咲月は何も否定できなかった。潮の指摘はどこまでも正しく、咲月自身もその通りだとわかっていた。美月と比べて才能がなかったとしても、咲月がピアノを弾きたければ、弾き続ければいいだけのことだった。
「私は……本当はずっと、ピアノを弾きたかったんです」
 玲や潮には、大したことない秘密だと思われるだろう。しかし咲月にとっては、誰にも言わずに隠し通そうとした、自分の奥底で燻り続けていた感情だった。
 舞台に上がり、グランドピアノの蓋を開ける。金色に輝く無数の弦と、白い鍵盤が視界に映る。椅子の高さを見て、浅く腰掛けるまでの一連の流れは自然と体が動き、そのまま黒鍵に右手の親指を載せた。
 ショパンの夜想曲、第二番。変ホ長調の穏やかで優しい響きが、音の粒に乗って空気を震わせる。音楽教室の発表会で、咲月が初めて自分で選んだ曲だった。楽譜を見なくても弾けるようになるまで練習し、それでも上手く弾きこなせなかった時、先生から「夜空を見上げてごらん」と言われて毎晩空を見上げた。初めはよくわからなかったが、次第に星の瞬きが音の粒そのものだと思えるようになって、発表会当日は夜空を思い浮かべながら楽しくピアノを弾いた。
 咲月は、何よりもピアノが好きだった。ピアニストになろうがなるまいが、ピアノが弾ければそれでよかった。
 だがいつからか、咲月は自分に自信が持てなくなった。誰からも演奏を認められないのに、ピアノを弾いていいのだろうかと不安だった。好きだという気持ちだけでは理解を得られない気がして、確かな動機や強い目標がなければ、ピアノを続けるべきではないのかもしれないと思った。
 何年も弾いていなかったとは思えないほど、咲月の指は息をするように動く。軽やかに音の粒を捉えていく感覚は、夜想曲を弾いた発表会以来だった。咲月の前には、潮たちと見上げた瑠璃色の夜空が広がっている。瞬く星々の光を集めながら、好きなら弾き続ければいいのだと、咲月は自分の気持ちをやっと受け入れ始めていた。
 最後の音まで辿り着き、咲月は顔を上げた。あたりには星々の余韻が残っている。パチパチと、小さな拍手の音が聞こえて客席を振り返ると、自分と同じ顔をしたみどりがこちらを見つめていた。ずっと逸らし続けていた視線が重なった瞬間、ああ、と咲月は腑に落ちた。
(私が逃げたかったのは、美月からじゃなくて、自分からだったんだ……)
 みどりの姿がどうして変わったのか、本当は誰の顔をしているのか、結局何一つわからないままで、気味が悪いことに変わりはない。でも、咲月が自分の本心に気づけたのは、みどりがピアノを指さしたあの夜があったからだ。自分から逃げるのはもう終わりにするのだと、咲月は目を逸らさず、みどりをじっと見つめた。
 みどりは客席で拍手を続けている。彼女の表情は晴れやかで、咲月に向かって優しく微笑んでいるようだった。

#3:https://note.com/shigemasayu/n/ncdf83a91806a

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?