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「少女たちは翠の海に」一話 光の当たる椅子


1

 いつも通り朝六時半に目が覚めた潮は、半ば夢うつつで起き上がりながら、翠玉館が妙に静かだと気づいた。ベッドに入ったまま重たい瞼をこすり、しばらくしてやっと思い出す。今日から夏休みが始まったのだ。
 カーテンを開けると、太陽があっという間に室内を照らす。一人用のベッドと机、据え付けの古いクローゼットだけの小さな寮室だ。
 廊下はがらんとして、立ち並ぶ部屋の扉はどれも閉まったままだった。共用の広い洗面所で顔を洗い、部屋に戻って身支度を済ませる。夏用の白いワイシャツに、グレーのプリーツスカート。紺の通学鞄を肩にかけ、誰もいない三階を出る。
 潮が通う高校は、軽井沢のはずれにある中高一貫の女子校だ。自然豊かな環境を売りにするキリスト教系の私立校で、校舎はすべて有形文化財に指定されていた。寮もイギリスの寄宿舎をモデルに作られた洋館が二棟あり、高等部の寮生は『翠玉館』で暮らしている。基本的には近隣の生徒が通う学校だが、遠方から入学する生徒もいて、全校生徒の約六分の一が寮生だ。長期休暇は閉寮するので、学期末になると全員親元に帰される。潮が帰省せず残ったのは、美大受験の実技講習を受けるためだった。
 階段を降りるたび、足元で木の軋む音が響く。校舎と比べると築年数は浅く、有形文化財の指定からは外れている。とはいえ、潮にしてみればどちらも大差なかった。中学までマンション暮らしだった潮にとって、翠玉館は現実味のない空間だった。
 一階のエントランスに出ると、入口の扉は既に開いていた。上部にはめ込まれたステンドグラスが朝日を受け、エメラルドグリーンの光が揺れている。翠玉館という名に合わせて用意されたガラスなのだと、潮が初めて入寮した日に牧師が話していた。
 
「ねえ弓木さん、どんな感じなの? 夏休みの寮って」
 東校舎の美術室で、石膏像のデッサンをしていた潮は、その問いに鉛筆を止めた。
 実技講習は、美術部の同期三人も一緒に受けている。顧問が美術室からいなくなった隙に、皆鉛筆を置いて身を乗り出していた。通学生は、敷地の最奥にある翠玉館に足を踏み入れたことすらない。そんなに珍しいのだろうかと思いながら、潮は肩をすくめた。
「何も変わらないよ。静かだなと思ったくらいで」
「えー、そんなことないでしょ? あの早川玲も残ったのに。あとはほら、二年で学年一位の子。遠藤咲月だっけ?」
 翠玉館には、潮の他に二人残っていた。演劇部を率いる早川玲と、一年後輩の遠藤咲月だ。玲は来月に控えた全国大会の稽古のため、咲月は吹奏楽部の強化練習のために帰省をやめたらしい。二人とも下の階に部屋があるので、あまり接点がなかった。玲は校内で会うと必ず声をかけてくるが、学年の違う咲月は食事時に見かける程度だ。咲月の成績が学年一位だという話も初耳だった。
「あの子、頭いいんだね。知らなかった」
「知らなかったの? 同じ翠玉生なのに」
「そこまで話さないから」
 潮の答えに、三人は納得していない様子だった。通学生から見た寮生は、どうやらある種の連帯感があるように映るらしい。特に高等部の寮生は『翠玉生』と呼ばれ、より強い結びつきがあると思われている。高校から中途入学した潮にしてみれば、同じ翠玉生と言われたところで実感がなかった。
「早川玲とは話すんでしょ? いつも仲良さそうだよね」
「仲がいいというか……寮の同期だから」
 玲は誰に対しても分け隔てなく、明るく社交的に接していた。翠玉生の間で受け継がれるしきたりや規則など、潮が慣れるまで色々と教えてくれたのは確かだ。玲としては、途中から一人で入ってきた異分子に親切にしたというだけだろう。潮も感謝はしているが、それ以上の感情はない。
 思うような反応が得られなかったのか、美術部の同期たちは困惑したように顔を見合わせる。しかし、そのうちの一人がめげずに、再び口を開いた。
「でもさ、夏休みだから寮監の先生たちもいないし、実質三人暮らしじゃん。一緒にご飯とか作ったりしないの?」
「牧師さんがいるから。今朝も宣教師館で食べてきた」
 普段開放されている食堂は、長期休暇なので閉まっている。なので、朝と夜は学校の敷地内に住む牧師と食べることになっていた。同期たちは「なーんだ」とがっかりした表情になる。潮は再び石膏像を見つめ、素っ気ない声で言った。
「もういい? この課題、今日中に終わらせたいの」
 デッサンを再開した潮を前に、三人は渋々といった様子で席に戻る。潮はほとんど幽霊部員で、彼女たちと特に親しくはない。作品こそ顧問に見せていたが、部活の行事には一切参加していなかった。
 石膏像の目元に影を入れながら、潮は小さく息をつく。廊下で玲から声をかけられるたびに、いつも周囲からの視線を感じていた。「早川玲と一夏を過ごす」という状況は、どうやら潮が思っていた以上に目立つらしい。学内の人気者は、一挙一動注目されて大変だ。
 窓の外から、演劇部の発声練習が聞こえてくる。グラウンドに軽く視線を移すと、ショートヘアの髪を無造作に耳にかけ、半袖の黒い稽古着を着た玲がすぐ見つかった。部員がたくさんいる中で一際背が高く、すらっと伸びた手足は遠くから見てもよく映えている。中性的な顔立ちなので、男性役はいつも彼女が引き受けていた。
「そこ、もっと声出して! 遠くまで声が届くような意識で!」
 蝉の鳴き声に混ざって、玲の溌剌とした声が響いてくる。夏の日差しが驚くほど似合う玲の姿に、潮は思わず目を細めた。
 
 夜、潮が宣教師館に向かうと、既に咲月がテーブルの用意を済ませていた。
「ごめんね、遠藤さん。手伝えなくて」
「気にしないでください。たまたま練習が早く終わったので」
 そう言って、咲月は控えめに微笑んだ。肩先で切り揃えられた柔らかい髪と、丸いたれ目が印象に残る優しい顔立ちだった。彼女の席には、いつも持っているクラリネットのケースが置いてあった。潮は昼に聞いた話を思い出し、言われてみれば優等生然とした後輩だと思った。
 アンティーク調の長テーブルには、サラダと冷製ポタージュ、夏野菜のカレーが並んでいる。潮が宣教師館に入ったのは、この日が初めてだった。朝は慌ただしかったので落ち着いて見る暇もなかったが、大きな暖炉や古い振り子時計、長いレースのカーテンが馴染む、シックで上品な洋館だった。
「弓木さん、お帰りなさい」
 ガラスの水差しを持った初老の男性が、キッチンからやって来る。宣教師館に住む牧師だ。普段は黒いガウン姿だが、校務が終わったからか、洗いざらしのリネンシャツにズボン姿だった。
「ただいま帰りました」
 牧師が温和な笑みで頷いた時、入口の方から扉の開く音が聞こえてきた。
「すみません、遅くなりました!」
「お帰りなさい、早川さん。ちょうど支度ができたところですよ」
 稽古着のまま帰ってきた玲は、テーブルを前に「わあっ」と声をあげた。
「とっても美味しそうですね! 私、ほんとにお腹すいちゃって」
「今日も一生懸命練習されていましたね。声がチャペルまで響いていましたよ」
 玲が牧師の隣に座ったので、潮は咲月の隣に座った。食事が始まり、玲を中心に会話が広がっていった。
「今年の台本は思い切って、SF作品を選んだんです。新しい演目に挑戦してみたくて。大道具の準備も大変なので、時間がいくらあっても足りないんですよね」
「早川さんはどんな役を演じるんですか? いつも素敵な男性役をされていますが」
「実は、今回は女性役をやるんです! と言っても、男装の令嬢って設定なので、結局男役みたいなものなんですけど」
 玲が現れた途端、場の空気が華やいだ。咲月が一人緊張していたのを見てとったのか、玲は咲月を自然な形で会話に巻き込んだ。吹奏楽部も秋に定期演奏会を控え、練習が大詰めらしい。咲月はクラリネットのパートリーダになってしまい、帰省する余裕がなくなったと話していた。
「それで、潮は?」
 夏野菜のカレーを食べながら、その場の会話を他人事のように聞き流していた潮は、不意をつかれて顔を上げた。
「本格的に課題とか始まったの? 今日、ずっと美術室で描いてたんでしょ」
 グラウンドから見えたよ、と言った玲は、屈託なく笑っている。
「そうだね、石膏像のデッサンしてた」
「ずっとデッサンが続く感じ?」
「基本的には。でも、それとは別に課題が出てて」
 夏休みが終わるまでに、モチーフを決めて一作描くようにと顧問から言われていた。モチーフを選んだ意図や作品の説明も、合わせて提出することになっている。志望する学科に合った内容を、と指定されたが、潮にとっては難題だ。志望校はある程度絞っているものの、まだ明確に定まっていなかった。
「急ぐことはないですよ。弓木さんの夏休みは、まだ始まったばかりです。落ち着いて考えればいいと思いますよ」
 潮は牧師に対して曖昧に頷き、手元に視線を落とす。夏野菜のカレーはほとんどなくなっていた。残りを食べてしまおうとスプーンを手に取った時、既に食べ終わっていた玲が口を開いた。
「夏休みの食事なんですけど、私、翠玉館で自炊してみたいと思ってるんです」
 予期せぬ言葉に、潮は目を瞬かせた。隣の咲月に視線を向けると、彼女も驚いた表情で玲を見つめていた。
「翠玉館は自治寮の精神を掲げているのに、最近特に、学校のお世話になりすぎている気がするんです。昔の翠玉生は、一階の調理室で自炊していたって話を聞いたことがあって。食堂が閉まるって聞いた時、てっきり私たちもそうなるんだと思っていたんです。これも自立を学ぶいい機会だろうって」
 首を傾げていた牧師は、玲の主張を聞いて次第に頷き始めている。どうやら、夏に翠玉館を開けることは滅多にないらしい。昔は帰省せずに残る学生も多かったが、ここ十数年の間は誰も希望しなかったので、閉寮する方針に変わったという。
 潮と咲月が口を挟む隙もなく、玲と牧師の間で話し合いが進んでいく。潮たちに話が振られた頃には、もう同意以外の選択肢がなくなっていた。
 
「玲、どうしてあんなこと言い出したの?」
 結局、礼拝がある日曜日の朝は宣教師館で食べるが、それ以外はすべて自炊することになった。翠玉館への帰り道、上機嫌に歩いていた玲は、軽い調子で言った。
「嫌だった? 潮って、料理嫌いなタイプだっけ」
「別に嫌いじゃないけど、作ってもらえるならその方が楽でしょ」
「だって、宣教師館だとみどりが一緒に食べられないじゃん」
「――」
「ね、帰ったら談話室でお茶会しようよ。ジュースとか色々買ってあるんだよね。みどりにも声かけてあるんだ。咲月も来るでしょ?」
 はい、と咲月が微笑んだので、潮も断れなくなった。着替えてから談話室に集合することになり、一度部屋に戻った潮は、通学鞄を置いてため息をついた。
(みどり、ね……)
 みどりは翠玉館の一階に住んでいる。一見、他の翠玉生と何も変わらない普通の高校生だが、彼女は翠玉生だけに共有された「秘密の友人」で、その存在は決して口外してはならないという掟があった。
 みどりの姿は、翠玉生にしか見えない。
 翠玉館に入寮した日の夜、潮は他の同期たちと談話室に呼び出され、先輩からみどりのことを紹介された。みどりは年をとることなく同じ姿のまま、古くから翠玉館に住み続けているらしい。中学から寮で暮らす同期たちには、「翠玉館には秘密がある」という噂が伝わっていたようで、やっと明かされた存在に目を輝かせていた。
 なんの前置きもなくみどりと対面した潮は、高揚するその場の空気から一人取り残された。信じがたい話だったが、いると言うのだから仕方ない。みどりを囲んではしゃぐ翠玉生たちを遠巻きにしながら、きっと幽霊みたいな存在なのだろう、とぼんやり自分を納得させた。
 みどりに対して疑問や戸惑いはあったものの、特に追及するつもりはなかった。そもそも、潮は誰とも関わりたくなかったので、最初から周囲と距離を置いていた。潮にとっては、みどりもその中の一人に過ぎなかったのだ。
「遅いよ潮、ジュースぬるくなっちゃうじゃん」
 半袖のパーカーを着て談話室に向かうと、Tシャツと短パン姿の玲が三脚を立てていた。
「なにそれ、カメラ?」
「そ、一眼レフ。部室からちょっと拝借してきた」
「勝手にそんなことしていいの?」
「大丈夫だって、最近は使ってなさそうだったし……よし、できた」
 玲はファインダーを覗き込み、満足げに録画ボタンを押した。
 カメラの先には、缶ジュースやラムネソーダの瓶が並ぶ丸テーブルと、咲月とみどりが映っている。咲月はラベンダーカラーのワンピース姿だが、隣に座るみどりは夏用の制服姿のままだ。なだらかに波打つセミロングの髪に、くっきりとした黒い瞳。真っ直ぐ向けられた人懐っこい笑顔は、春の陽光のようにほがらかだった。
「ほら、潮も入って。四人で映らないと始まらないよ」
 玲に無理やり背中を押され、潮はみどりの向かいに座る。手渡されたラムネソーダの瓶は青く透き通っていて、表面がひんやりと冷たかった。
「それじゃ、まずは乾杯しよ! 四人の夏休みに、かんぱーい!」
 瓶を高く掲げた玲につられて、潮も瓶を持った手を上げる。それぞれの瓶が重なり、ガラスの軽やかな音が響き合った。
 潮が談話室に入ったのは、翠玉館に入寮した日の夜以来だ。明るいパステルグリーンの壁に、丸テーブルと長椅子、今は使われていないアンティークのアップライトピアノが並んでいる。翠玉館の中で一番広い部屋なので、四人では空間を持て余していた。
「このソーダ見ると、今年も夏が来たって感じするよねー」
「購買ですか?」
「うん、休憩中にまとめ買いしてきた。昔から売ってるんだって。ね、みどり」
 玲から話を振られたみどりは、嬉しそうに頷いている。玲と咲月、そしてみどりの三人でなんの違和感もなく会話が続いている。潮はそんな三人を横目に、ラムネソーダに口をつけた。すっきりとした甘さの後で炭酸が弾け、ピリッとした刺激が抜けていった。
 ソーダ瓶の中では小さな泡が音を立て、次々と浮かんでは弾けていく。瓶はシンプルな形だったが、ビー玉が入っている部分は湾曲し、色の濃度が違って見えた。
「潮? どうしたの、さっきからじっと瓶見て」
「静物画の課題にいいかなって。なんか、珍しくて。外で見かけないじゃない?」
「そうかも、私も購買のイメージしかない。咲月は?」
「私もです。スーパーはほとんどペットボトルですよね」
「自分じゃ買わないから、ちょっと新鮮だった。美味しいね、これ」
「でしょう? 私の一押しなんだ」
 玲は無邪気に笑うと、瓶をカメラに向けて軽く揺らした。中に入っているビー玉が、小さく涼しげな音を立てる。カメラを見た潮は、怪訝な顔で玲に尋ねた。
「ねえ、この動画いつまで回すの?」
「ずっとだよ。夏休みが終わるまで」
「えっ?」
「潮が来る前、咲月とみどりにも話してたんだ。いつも通り過ごすだけじゃ、絶対もったいないと思ってさ。せっかく翠玉館に残れたんだから、この四人だけで夏休みの思い出を作りたいんだよね。それに、私と潮はもう卒業じゃん? 翠玉館を出た後、あの頃楽しかったなーって見返せるものがあったらよくない?」
 熱っぽく語る玲を前に、潮は戸惑った。ちらっと咲月を見ると、彼女は真剣な面持ちで頷いている。
「もちろん、無理にとは言わないけど。潮が嫌じゃなかったら、どうかな」
 潮はあまり関わりたくなかったが、ここでわざわざ拒否するのも面倒だった。どうせ日中は学校に行くのだから、思い出作りと言うほどの時間はないだろう。動画を撮るだけなら好きにさせた方が楽だ、と軽い気持ちで頷いた。
 ところが、潮が頷いた途端、玲は顔いっぱいに喜びをみなぎらせた。
「やった! ありがと潮! 実は私、この夏の計画をいろいろ考えてきたんだ。まず花火は絶対でしょ? 肝試しもやってみたいし、あとは夕飯の献立も気合い入れたいよね。裏の畑でトマト収穫したりとかさ。園芸部の先生にも相談してあってね、今年はスイカがよくできたから分けてくれるって。みんなでスイカ割りやったら楽しそうじゃない?」
 潮がたじろいだ時には、もう手遅れだった。玲は、夏休みの計画を語りはじめた。咲月も楽しそうに話に参加していて、今更嫌だと言い出せるような空気ではなかった。
 玲の声が右から左へと上滑りしていく中、潮はみどりの方に視線を向けた。みどりの笑顔は眩しいくらいに輝いて、彼女の座っている椅子だけに、まるで光が当たっているように映った。  

2

 開け放たれた美術室の窓から、清涼感のある風が吹き抜ける。窓際の席でデッサンに集中していた潮は、頬にあたる風に顔を上げた。気づけば日差しが和らいで、空には柔らかいキャンパスブルーが広がっていた。
「潮ー! 課題どんな感じー?」
 はっとグラウンドを見ると、稽古着姿の玲が美術室を見上げていた。この後、二人でスーパーへ買い出しに行く約束があった。他の演劇部員たちからの視線が一斉に集まり、潮は慌てて声を上げた。
「あと少しで終わる!」
「わかったー! じゃあ、昇降口で待ってるねー」
 大きく手を振った玲に、潮もためらいがちに手を振り返す。ため息をついて視線を戻すと、美術部の顧問や同期たちが物珍しげに潮を見つめていた。
「どれどれ? 確かに、おおむね描き終わっているね」
 顧問は潮のデッサンを覗き込むと、腕を組んで首を傾げた。
「影が印象的な構図だね」
「……日中、すごく眩しかったので」
 空になったソーダ瓶と、机に伸びる影の構図が描かれている。影が強すぎただろうかと思ったが、顧問は納得したように頷いた。
「早く行ってあげなさい。他の皆さんも、きりのいいところでおしまいにしよう」
 顧問に促され、潮は後片付けもそこそこに美術室を出た。落ち着かない気分をごまかすように、廊下を歩く足が次第に早くなっていく。
 夏休み初日の夜以降、玲は潮に対してすっかり遠慮がなくなった。潮が周囲に作っている壁など物ともせず、潮の日常に入ってくるようになった。それまでも玲のことを社交的だと思ってはいたが、手加減されていたのだと潮は初めて気づいた。
「潮、お疲れ」
「ごめん、お待たせ」
 制服姿の玲が、もたれかかっていた下駄箱から身を起こす。たったそれだけの仕草が様になっていて、これは人の目を引くわけだと潮は感心する。二人で昇降口を出ると、吹奏楽部の合奏が聞こえてきた。西校舎の方角を眺め、玲はふっと笑った。
「今日は練習長いね、吹部」
「外部から先生が来るって、遠藤さん言ってたね」
「スパルタだって噂だよ。パートリーダーに指名されるなんてすごいな、咲月」
 楽器に詳しくない潮は、どの音が何の楽器なのか一つもわからなかった。一糸乱れずまとまって続く旋律を聞きながら、咲月はどこにいるのだろうと思った。
 学校から十五分ほど歩いた先にあるスーパーで、二人は夕飯の買い物を済ませた。その後、玲の希望でコンビニに寄って、手持ち花火を一通り買い込んだ。
「やったね、あるならコンビニだと思ったんだ」
「買い出しに行くって言い出したの、もしかして花火目当て?」
「それもあるけど、ちょっと外に出たくてさ。最近稽古ばっかりだから」
 花火の入った袋を揺らしながら、玲は上機嫌に歩いている。そんなに気分転換できたのかと、潮は内心首を傾げた。学校の周辺には基本的に何もない。最寄り駅も徒歩では厳しい距離なので、どこかに遠出するのも難しかった。
 学校の正門まで戻ってくる頃には、やっと日が陰り始めていた。守衛室に会釈して正門をくぐり、校舎に真っ直ぐ伸びる道を歩く。
「なんかさ、ここからが一番長く感じない? この学校広すぎるって」
 青々とした葉が生い茂るけやき並木の先に、本校舎がコの字型に建っている。その裏手に東校舎と西校舎が向かい合って並び、木立を抜けて宣教師館とチャペル、さらに敷地の最奥まで進んでようやく寮に辿り着く。
「玲もそう思うんだ、意外」
「意外?」
「だって、中学からずっと住んでるから。もう慣れてるのかと思って」
 けやき並木を過ぎると、途端に夕日が眩しくなった。一面に広がる夕焼けを背に、本校舎には影が落ちている。日中は華やかな桜色の壁も、今は色が目立たなくなっていた。
「正門なんて、帰省の時しか通らないよ。普段は門限で外出られないし」
「そっか。週末もずっと部活だしね」
「潮は普段どうしてた? 放課後とか」
「別に……図書室で勉強するか、美術の課題描くかって感じ」
 学校の敷地は、高い塀と木々に取り囲まれている。学生は裏口が使えないので、基本的に正門まで行かなければならない。そこまでして外に出ようとも思わなかった。
 翠玉館に戻ると、咲月も部活から帰っていた。制服のまま三人で調理室に入り、夕飯の用意に取り掛かった。買い出しもあったので簡単に済ませようと、茄子とトマトのパスタにスープを添えた。
「前から思ってたけど、潮って料理上手だよね」
 談話室で夕飯を終えた頃、玲がしみじみと言った。
「無駄がないっていうか、今日も手早かったじゃん。作り慣れてる人の動きしてた」
「大袈裟じゃない? 難しいもの作ってないよ」
「そんなことないです。弓木先輩がいなかったら、もっと時間かかってました」
 珍しく断言した咲月に、玲が「そうそう」と頷いている。潮は視線を落とし、少し考え込んだ。
「実家でご飯作ってた時期があって。そのせいかも」
「へえ、偉いね。中学の時?」
「小四とかだった気がする。父親と二人暮らしだったんだけど、仕事で夜遅かったんだよね。でも、再婚して義母がやってくれたから」
 実の母親は物心つく前に亡くなったので、潮には何一つ記憶がない。しばらくは父方の祖母が面倒を見てくれたが、高齢で長くは続かず、結局潮が台所に立つようになった。
「じゃあ、今は三人家族ってこと?」
「弟がいるよ。まだ保育園児だけど……」
 ついぽろっとこぼした潮は、二人が息を呑んだことに気づいてしまった。隠すつもりはなかったが、かといって話すようなことでもなかった。場の空気を取りつくろえないまま不自然な沈黙が続き、うかつな返事を後悔し始めた時、玲が唐突に言った。
「ね、今から花火やらない? せっかく買ってきたんだしさ」
 
 翠玉館の前に三脚が立てられ、一眼レフの赤いランプが点いている。
 長いススキ花火の先から、鮮やかな炎と煙がザーッと流れ出す。色が変わるタイプだったようで、オレンジ、パープル、ピンクと瞬く間に移り変わっていった。
「すごーい! ほんとに色変わるんだ!」
「きれいですねー!」
 花火の音があるせいか、玲と咲月のはしゃぐ声が大きかった。二人のすぐそばで、みどりも花火に目を輝かせていた。
 翠玉館の前には舗装された広場がある。普段はここで点呼が行われ、朝の体操や奉仕活動の準備をしているが、まさか花火をやる日が来るとは思いもしなかった。潮は燃え尽きたススキ花火をバケツに入れると、手近にあったスパーク花火を取り出し、蝋燭から火をつけた。
 パチパチと弾けるような音が響き、火花があたりに飛び散った。ススキ花火と違って煙が出なかったので、純粋に花火だけがよく見えた。四方八方へ広がっていく、結晶にも似た眩しい光を眺めながら、潮は一人ため息をついた。
 玲は、花火をいつやる予定だったのだろう。潮は、週末まで取っておくつもりなのかと思っていた。余計な気をつかわせたのかも、と思った矢先、玲の無邪気な歓声が聞こえてきた。あの様子では、はじめから今日やるつもりだったのかもしれない。
(……どっちでもいいか、別に)
 ススキ花火とスパーク花火をやり尽くし、あとは線香花火の袋だけとなった。四人で蝋燭のそばに集まり、しゃがみ込んで火をつける。
 細長い柄の先に小さな火球が生まれ、しばらくして火花が散り始めた。先にスパーク花火を見たせいか、線香花火は妙にか細く映った。勢いは少しずつ萎んでいき、花弁に似た火花が散った後にぷつりと燃え落ちる。
「儚いですね、線香花火って」
「わかる、ついじっと見ちゃうよね」
 咲月と玲が頷き合いながら、線香花火に再び火をつける。潮も新しい線香花火に手を伸ばし、思い出したように言った。
「名前があるんだって、燃え方に」
「そうなの?」
「うん。つぼみから始まって、牡丹、松葉とよく燃えて……衰えてくると柳、最後は散り菊。花弁が消えたら火も落ちる」
 潮の言葉通りに移り変わった線香花火を見て、玲は「本当だ」と声を上げた。
「そういうのって、絵を描いてると詳しくなるの?」
「私も、これは義母の受け売りで……」
 はっとした時にはもう遅かった。どうして今日は、こんなに余計なことばかり話してしまうのだろう。花火で間を持たせようにも、火がついているのは、後からつけた潮の線香花火だけだった。
「潮が寮に入ったのって、もしかしてそれが理由?」
 玲の「それ」が何を指しているかは明白だった。潮はその場で黙り込んだが、少し経ってから口を開いた。
「まあ、私だけ余ってたしね」
 どう答えるべきか悩んだ割には、歯切れの悪い返答になった。潮の線香花火もちょうど燃え尽き、ぷつりと地面に落ちる。
 それまで気にならなかったのに、潮はふいに、夜が深くなっていることに気づいた。蝋燭もすっかり短くなって、小さな火が夜風に吹かれて揺れている。頬に触れる空気の冷たさに身じろいだ時、咲月が呟いた。
「私もです」
 え、と潮が顔を上げると、咲月は潮をじっと見つめていた。
「私、実は双子なんです。一卵性の妹がいて」
「そうだったの? 咲月の家の話って、そういえば聞いたことなかったね」
「話すきっかけがなくて、誰にも言ってなかったんです」
 咲月は玲に苦笑し、線香花火に火をつけた。先がジジ……と燃え、火のつぼみが徐々にふくらんでいく。
「私と妹、外見は本当に似てるみたいなんです。家族にしか見分けられない、ってよく言われてて。私も瓜二つだなって思うんですけど」
「性格は違うの?」
「妹は、明るくて優しいですね。皆から慕われてて、何でもよくできます。頭も良くて、可愛くて、ピアノも上手で……」
「咲月だって同じじゃん。学年一位で、クラリネットでパートリーダーになって」
 玲は線香花火を二つ取り出し、そのうちの一つを潮に渡す。玲から線香花火を受け取った潮は、咲月の物憂げな表情が気になって、つけるタイミングを逃してしまった。
 そういえば咲月も、潮と同じく高校からの中途入学組だった。咲月たちの学年が翠玉館に入ってきた時は少し気にしていたが、咲月は違和感なく周囲と馴染んでいたので、潮はそれ以上興味を示さなかった。
「妹の方がよくできるんですよ。いつも、私よりも」
 咲月の線香花火が震え、つぼみから火花が散り始めた。パチパチと音を立てる線香花火を見つめたまま、咲月は淡々と話す。
「たとえば、私がテストで九十点を取ると、妹は九十一点を取ってくるんです。私の絵が銀賞に選ばれた時も、妹の絵は金賞でした。運動会の徒競走は、タッチの差で妹がゴールテープを切って……ピアノの発表会は、妹の出番は必ず私の後です。親からよく言われました。咲月は、いつもちょっと惜しいんだって」
「それが嫌だったの?」
「妹が気にしちゃって。いつも自分ばかりで、私に申し訳ないって」
 短くなった蝋燭は、今にも消えそうになっている。潮は線香花火をかざし、静かに火を取った。夜風のせいなのか、それとも持ち手が甘いのか、潮の線香花火はゆらゆらと頼りなく揺れている。小さなつぼみに視線を落とし、潮は息をついた。
「優しいね、遠藤さんは」
「優しい、ですか?」
「だって、妹さんのために家を出たんでしょう? 簡単にできることじゃないと思う」
 潮は咲月に感心していた。誰かのためになんて、潮はとても思えなかった。咲月と違って、潮は自分のために逃げ出したのだ。
(咲月みたいに思えたら、もっと人生違ったかな)
 潮の火花が咲き始めた時、蝋燭がふっと消えてしまった。顔を上げると、咲月がまだついていない線香花火を持ったまま困惑していた。
「いいよ、取って」
 潮は咲月のほうに、自分の線香花火を差し出した。咲月がおずおずと線香花火を近づけると、潮の火球がわずかに震え、静かに火が燃え移る。
「だから似てるのかな、潮と咲月って」
「――似てる?」
「なんとなく、雰囲気が近い感じがしてさ。気が合いそうだなって思ってたんだよね」
 咲月の線香花火に、玲が「私も」と線香花火をかざす。玲の線香花火につぼみがつく頃には、潮の線香花火が終わりに近づいていた。菊の花弁に似た火花が、はらはらと流れるように落ちていく。
 いつか自分も咲月のように、誰かのためにと思える日が来るだろうか。この夏を四人で過ごせば、今まで何一つ変われなかった自分が、少しはまともな人間になるのだろうか。
 潮の線香花火が消えると、玲が新しい線香花火を手に取った。パチパチと鮮やかに燃える自らの火球から火を取り、つぼみが生まれた線香花火を潮に差し出してくる。
「ほら、潮」
「……ありがとう、玲」
 玲から受け取った線香花火は、しばらくして力強く燃え始めた。赤く燃える火花は、まるで牡丹のように色鮮やかだった。
 暗闇に目が慣れたのか、線香花火の光がくっきり映るようになった。誰かのつぼみが鮮やかに咲いて、散るより先に新たなつぼみに火を渡す。そうして、線香花火を続けていくうちに、潮は予感めいたものを覚えた。
 きっと、この夜のことを思い出す日が訪れる。――その時、自分はどんな人間になっているのだろう。

3

 花火の夜を境に、潮の中にあったある種の頑なさが、少しずつ薄れていった。
 玲の立てた夏休みの計画は、ほとんど実行された。野菜の収穫やスイカ割り、手の込んだ夕食。流星群の夜には空を見上げ、何もない日も談話室に集まって、部活や進路のことを話した。
 玲に振り回されている、という感覚が消えたわけではなかったが、潮は不思議と嫌な感じがしない自分に気づいた。目まぐるしく日々が過ぎていく中で、次は何が起こるのだろうと、心のどこかで期待している節さえあった。
「夜の学校って、思った以上に怖いですね……」
 隣を歩く咲月は、怯えた様子で廊下を見回している。普段なら気にならない足元の軋みも、夜にたった二人となると妙に響く。
 そういえば、肝試しも夏休みの計画に入っていた。夏休みも終わりが見えてきて、肝試しのことをすっかり忘れていた潮は、突然の提案に驚いていた。
「講堂で集合だよね、さっさと行けばいいよ」
「先輩、幽霊とか怖くないんですか……?」
「見たことないから。虫だって、森に紛れている間は怖くないでしょう」
 玲はみどりと、潮は咲月とペアになって、それぞれ違うルートで本校舎の講堂を目指していた。勝敗も競っていて、先に着いた方が勝ち、負けた方が風呂掃除をする約束だ。
 ゴールとして設定された講堂は、本校舎で最も広い部屋で、学年集会や説明会で使われている。体育館ができる前は、入学式や卒業式も行われていたらしい。
 スマートフォンのライトだけがあたりを照らしている。東校舎も古いと思っていたが、本校舎は別格だった。廊下に並ぶ小さなフラワーシャンデリア、今は使われていない蒸気式ラジエーター、コリント式の白い柱頭飾り。木の階段は途中から二手に分かれていて、支柱に支えられた手すりが美しい曲線を描いていた。
 左の階段が西棟の二階、右の階段が講堂に繋がっている。二階を一周して戻って来なければならないので、二人は左の階段をのぼって行った。途中で設けられた踊り場には大きな窓があり、半月が輝いていた。上弦と下弦、どちらの月だろうかと見上げる潮に、咲月が呟いた。
「上弦の月ですね」
「そうなんだ。どっちかなと思ってた」
「上弦は西側が光っていて、下弦は東側が」
 詳しいね、と返したきり、潮は何も言えなかった。玲がいなければ、満足に会話も続けられない。玲ならどうするだろうと思った時、咲月が息をついた。
「小学生の時、授業であったんです。名前の由来を調べて親に聞いてみようって。それで妹と月について調べました」
「妹さんも、名前に月が?」
「美しい月で、美月です。私たちが生まれた後、病室から見た月が美しかったからって、母が言ってました」
 いい名前だね、と出かかった言葉を潮は飲み込んだ。窓の外を見上げる咲月が、明らかに浮かない表情だったからだ。
「私は五月生まれだからです。漢字だけ変えて咲月。美月と揃うように決めたって」
「どうして、妹さんの名前が先についたの?」
「母も覚えてないみたいで。母の隣にいたとか、多分そんな理由だって話でしたけど」
 咲月は窓から目を逸らし、足早に階段をのぼっていく。
 大きく軋む音を聞きながら、潮は咲月の後を追いかけた。妹のためにと思えた咲月を潮は羨んだが、事はそう単純ではなかった。咲月にしてみれば、家を出るなら自分の方としか思えなかったのだ。
 二階の廊下を往復する間、咲月は何も言わなかった。潮も、咲月にどんな言葉をかければいいのかわからなかった。何か慰めになるようなことを言えばいいのか、それともあえて関係のない話をするべきなのか。
 夏休みを一緒に過ごさなければ、どうでもいいと聞き流していただろう。周囲に高い壁を作り、自分の殻にひたすら閉じこもってきた潮は、そのことを初めて後悔した。玲がいなければ、場の空気を変えることはおろか、保たせることすらできない。この夏、一見うまく行っているように思えたすべての場面は、結局玲がいなければ成り立たなかった。もし、ここにいるのが玲だったら、咲月にどんな言葉をかけるのだろう――
「咲月」
 思わずこぼれた名前に、潮ははっと我に返る。顔を上げると、咲月が目を見開いて潮を見つめていた。
「私は、夏休みを一緒に過ごしたのが咲月でよかったと思う」
 玲ならきっとこんなことは言わないが、今咲月の前にいるのは潮だ。いつも自信がなさそうに俯いていた咲月と、潮はこの時初めて正面から目があった。だから、ここで目を逸らしてはいけないと、それだけは強く思った。
「咲月じゃなかったら、きっと違う夏になった」
 こんな当たり前のことしか言えないのか、と嫌になった時、階段の方から玲の声が聞こえてきた。みどりと講堂に着いたのか、楽しそうにはしゃいでいる。後ろを振り返った咲月は、再び潮に視線を戻し、困ったように笑った。
「負けちゃいましたね」
「……やっぱり、玲には敵わないな」
 潮も肩をすくめ、咲月に笑い返した。二人が講堂に向かうと、玲が舞台に座って待ち構えていた。
「遅いぞ、二人とも! 今週の風呂掃除は決まりだね」
 舞台の端にあるグランドピアノは蓋が閉まっていて、その上にカメラが置いてあった。真っ暗な校舎を歩いていたせいか、舞台の照明しかついていないのに、講堂はやけに明るく見えた。木目が刻まれた柱に、えんじ色のカーテン。机がない広々とした空間で、みどりが嬉しそうに歩き回っている。
 さっきまで張り詰めていた空気が嘘のように、咲月は柔らかい表情で玲と話している。玲がいてくれて助かったと思いながら、潮はふと、壁に飾られた大きな絵に目を留めた。
 金の額縁に入った、海の絵だった。セルリアンブルーを基調に、翡翠色や水色など数色が重なり合っている。水面で揺れる小さな波が目立つ一方、空との境目は曖昧で、全体的に霞がかったような色合いだった。
「綺麗だよね、その絵。どこの海かわかんないけど」
 玲はそう言って舞台から降り、潮に近づいていく。
「なんで海の絵なんだろうね。このあたり、山とか湖しかないのに」
「玲も知らないの?」
「先生に聞いたりしたけど、誰も知らなかったんだよ。作者もわからないし。昔の学生が描いたんじゃないかって話だけど」
 後からやってきた咲月も絵を見上げ、しばらくして呟いた。
「描いた方、海に行きたかったんでしょうか」
「かもね。代わり映えしない景色に飽きたとか? だったら気持ちわかるなー。せっかく夏休みなのに、ここには海がないんだから。近くにあったら絶対行ったのに」
 咲月と玲は、過去訪れたことがある海について話が盛り上がっていた。みどりも絵に興味を持ったのか、すぐそばまで来て絵を覗き込んでいる。卒業したら行ってみたい海の名前がひとしきり挙がった後、玲が潮に話を振った。
「潮は? 好きな海とかある?」
「わからない。行ったことないんだよね」
「一度も? 潮って名前だから、海の近くに住んでたのかと思ってた」
「母親の出身はそうみたいだけど、どこだったのかちゃんと聞いてなくて……」
 絵を覗き込んでいたみどりは、いつの間にか玲たちを見つめている。陽だまりのようにあたたかい笑顔は何かを言いたげで、その横顔を潮はどこかで見たことがある気がした。
 
 通学生の夏休みは八月三十一日までだが、寮生は実質三十日で終わる。三十一日には学校に戻ってきて、新しい部屋割り発表や荷解き、終わっていない夏休みの宿題などを済ませなければならない。
 三十日は、潮たちも慌ただしかった。いつも通り学校に行った後、宣教師館で牧師と夕飯を食べ、帰ってきて翠玉館の掃除に取り掛かった。明日には寮監の教師たちが戻ってくる。調理室や談話室だけでなく、独占していた洗面所も片付けなければならず、これがそれなりに手間だった。
「潮、三階の掃除終わったー?」
「どうしたの、その荷物」
 二階からあがってきた玲は、三脚とカメラを抱えていた。
「今から講堂で上映会するよ。咲月とみどりにも声かけたから」
 本校舎の講堂に行くと、舞台の前にタブレットとプロジェクターが準備されていた。既にテストも済んでいて、壁一面に直接ブルーの画面が投影されている。講堂の照明がついていないせいで、舞台全体が青白く光っている。
 どの教室から持ってきたのか、プロジェクターのすぐ後ろに、古びた木の椅子が四つ横並びで置いてあった。玲が三脚にカメラをセットしながら「好きな席に座って」と言ったので、咲月が右端に、潮がその隣に座った。
「皆、準備いい? 始めるよ」
 左端に玲、その隣にみどりが座る。三人を覗き込んだ玲は、タブレットに触れて上映を始めた。最初に映ったのは、談話室に集まった夏休み初日の夜だ。次に色鮮やかな花火が映り、調理室で夕飯を作る後ろ姿や週末のスイカ割り、玲の部屋に集まって宿題を終わらせる様子など、翠玉館で過ごした日々が流れていく。
 舞台に映し出された自分の姿を見ながら、潮は現実感のなさに驚いていた。夏休みが始まるまで、こんな時間を過ごすなんて想像もしてみなかった。白く輝く眩しい光の中に、自分が存在していることが信じられなかった。
「あっという間でしたね、夏休み」
「まだ終わらないよ。夜が明けるまでは、夏休みだから」
 夏休みの映像が最後まで流れた後、少し経って再び最初から始まった。リピート再生を止めることなく、玲は悪戯っぽく笑った。
「ね、夜って言ったら、やっぱり内緒話じゃん。今から一人ずつ、誰にも言ったことがない秘密を話してみない?」
 録画切ってくるね、と玲は席を立った。潮は何も言えないまま、舞台で繰り返される夏休みを強張った表情で見つめていた。
(どうしてこんな、急に)
 玲の提案はあまりに唐突で、潮は困惑した。だがしばらくして、玲はいつもそうだったと思い直す。潮にとって、この夏はすべてが突然だった。
 それに、玲はすべて見透かしていたのかもしれない。誰にも見つからないように、潮が奥底に隠してきた歪みの存在を。潮が周囲から人を遠ざけていたのは、自分の異質さに気づかれるのが怖くてたまらなかったからだ。そんな潮のことを、玲は最初からわかっていたのかもしれない。
 玲が戻ってきて、隣の咲月が語り出す。本当はずっとピアノが弾きたかったと、意を決したように舞台に上がり、グランドピアノの蓋を開けた。咲月は椅子に浅く腰掛け、ポーンと最初の音を鳴らす。か細かった音は、曲が進むにつれて少しずつはっきりして、鍵盤に向かう咲月の背も次第に真っ直ぐ伸びていく。
 舞台に映る夏休みがどこか作り物めいて見えるのは、結局自分が少しも変わっていないからだ。今を逃したら、打ち明ける機会はきっと二度と訪れない。こんな自分を閉じ込めたまま、この先も生きていくなんて、はたして本当に耐えられるのだろうか?
 最後までピアノを弾き終えた咲月が戻ってくる。舞台には再び花火の夜が映る。暗闇で弾ける火花はどれも鮮烈で、あたりを強く照らしては燃え尽きる。その光があまりに眩しくて、潮は思わず瞼を閉じる。
「……寮に入った理由を聞かれた時、私は嘘をついた」
 花火の音がバチバチと響いている。瞼の裏で光の残像が揺れ動く。それはどこまでも追いかけてきて、自分の奥底でくすぶっている感情が引きずり出されるようだった。
「私は義母が――彼女が好きだった。弟が生まれると聞いた時、父に対して強い怒りと嫌悪感が湧いた。だからもう、あの家にはいられなかった」
 潮、と呼ぶ柔らかな声を思い出す。ある日、潮の前に突然現れた彼女は、それ以来ずっと潮の日常を陽だまりのように照らしていた。
〈私のこと、お母さんって呼ばなくていいよ。お姉さんって言うには、ちょっと年がいき過ぎてるけど〉
 彼女の波打つ髪は、綺麗な焦茶色をしていた。日に当たると光が透けて、明るいブラウン色に輝くのだ。特に染めたわけでもなく素の色だと聞いて、羨ましく思ったことをよく覚えている。潮の髪質とはまったく違う、軽やかで柔らかな髪だった。
 彼女はとても聡明で、色々な名前を教えてくれる人だった。線香花火の移り変わり、雨の種類、空の色や植物の見分け方。彼女が現れてから潮の世界は鮮明になり、いつも眩しい光で満ちていた。彼女に教えてもらった景色をすべて覚えていたくて、潮は自然と絵を描くようになった。忘れてしまうことが、惜しくてたまらなかった。
「彼女に対する気持ちは、娘が母親に向ける普通の感情だと思っていて……でも、弟が生まれてからごまかせなくなった。それに、私はずっと前からわかっていた。この感情は普通じゃないって」
 潮に対して、彼女は母親然としなかった。母と呼ばなくていいという前提が共有されている間は、潮も上手にごまかせていた。自分たちは血の繋がりがないだけで、それ以外は普通の親子だ。彼女を家に連れてきてくれた父には感謝しなければならない。潮は自分にそう言い聞かせながら、彼女との陽だまりのような時間を享受していた。
 だが、弟が生まれてから、潮は否が応でも気づかされた。彼女が潮に注ぐ愛情は、弟に注がれるものとまったく同じだった。そして、それまで見ないふりをしていた彼女と父の関係性から、目を背けることができなくなった。潮が彼女から欲しかったのは、家族としての慈愛でなく、彼女が父に対して向けるあの眼差しだったのだ。
 瞼を開くと、舞台には青い海の絵が映っていた。絵を見上げる潮のそばに、玲たちが近づいていく。海の話をしながら自然と集まる後ろ姿は、仲のいい友人同士のようで、絵に描いたような青春の光景だった。
「歪んでるよね、こんなの」
 夏休みの映像を見つめたまま、潮は自嘲する。舞台に映る自分の姿は嘘みたいに綺麗なのに、実態はまるでかけ離れている。何重にも取り繕っていた鎧はあまりに脆くて、その中にいる自分は背中を丸めてうずくまるのがやっとだった。
 ギィ、と椅子の軋む音が聞こえ、潮は舞台から視線を外す。隣を見ると、玲が真剣な眼差しで潮を見つめていた。
「そんなことないよ」
「――」
「そんなことない。潮は歪んでなんかない。みどりと咲月だってそう思うでしょ?」
 振り返ると、咲月も黙って頷いている。潮は、軽蔑されこそすれ、受け入れられるとは思ってもみなかった。
「潮の気持ち、わかる気がするよ。年上のお姉さんって、それだけで憧れるっていうか。中学生の時、高等部の先輩たちがすごく大人に見えたんだよね」
 玲は、いつもと同じ明るい笑顔でそう言った。想像もしなかった反応に潮は戸惑い、玲に何を言えばいいのかわからなかった。玲は困惑する潮を気遣ってか、何気ない調子で会話を続けていた。彼女から一体どんな名前を教わったのか、その中で印象に残っているものはあるのかと。
「……潮騒、かな」
「しおさい?」
「うん。潮が満ちる時に、波が立てる音。私の名前が入っているから、って」
 潮は、玲越しに見える海の絵に視線を向ける。
 弟が生まれる前、海に行ったことがないという潮に、彼女は「いつか一緒に行こう」と言った。普段なら迷いなく頷くのに、潮は曖昧な反応でごまかした。彼女が教えてくれた潮騒を聞いてみたい。そう思う一方で、実の母親の存在を意識してしまうのではないかと恐れていた。彼女は母親だと自分に言い聞かせていた潮にとって、海はパンドラの箱そのものだった。
「いつか皆で行こうよ、海」
 はっと潮が我に返ると、玲は潮を真っ直ぐ見据えていた。
「肝試しの時、ここで話したでしょ? 卒業したら海行きたいねって。咲月とみどりも一緒にさ、皆で行けば絶対楽しいよ。ね?」
 どこの海がいいかな、と玲は候補を挙げていく。沖縄、江ノ島、瀬戸内、いっそハワイかグアムかと、楽しそうに話している。張り詰めていた場の空気は、玲の軽やかな声とともに、次第に和らいでいった。玲があえて話を変えたことは潮にもわかったが、きっと玲の優しさだったのだろうと思った。
 舞台で繰り返される夏休みは、再び最初の夜から始まった。談話室に皆で集まって、玲が夏休みの計画を語り出す。みどりが座る椅子に向かって身を乗り出す玲の姿は、卒業した後の話をする今の玲とまったく同じで、潮は思わず目を細めた。まるで、夏の光に照らされているような眩しさだった。
 
 次の日、潮は美術室でキャンパスに向かい、課題を仕上げて顧問に提出した。
 潮が描いたのは、一脚の椅子だった。背景はパステルグリーンで、アンティーク調の長椅子に窓から光が差し込んでいる。椅子の上にはソーダ瓶が置かれ、光を受けてエメラルドグリーンに輝いていた。
「このソーダ瓶は、中身が入っているようだね。デッサンの時は空だったが」
「表面を伝う水滴や、ソーダ水の炭酸を描きたいと思ったんです。今ここに存在しているものとして、椅子の空間を表現したくて」
「椅子を選んだのは、何か理由が?」
 潮は相変わらず、行き場のない感情を一人抱えたままだ。少しもまともな人間にはなれず、玲を眩しく見つめるばかりだった。――潮がそういう人間だということを、夏休みを一緒に過ごした玲たちは知っている。
「椅子を置くことは、そこに座る誰かを認めることだと思ったんです」
 潮は最後まで、玲たちを理解することができなかった。それは玲たちも同じだろう。幾度となく会話を交わしたが、潮は自分のことを理解されたとは思っていない。
 それでも夏休みの間、潮の椅子は常に用意されていた。椅子があるということ自体、椅子に座る誰かの存在を認めているということだ。たとえわかり合えなかったとしても、それが潮にとっては救いだった。
「だから、大学で椅子を作りたいと思って」
 玲が潮を受け入れたように、潮も、誰かを受け入れられる人間になりたいと思った。美大に行って何を形にしたいのか、玲たちと過ごした夏休みを経て、やっと道筋を見つけられた気がした。
 この選択が本当に正しいのか、今の潮にはわからない。間違っていたと思う日が来るのかもしれない。だが、潮にとって何よりも必要なのは、その答え合わせをするためにここから踏み出すことだった。

#2:https://note.com/shigemasayu/n/n3d188c4aba0b


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