小峯 茂嗣(こみね しげつぐ)

平和構築の活動家であり研究者。 NPO法人「インターバンド」(www.interban…

小峯 茂嗣(こみね しげつぐ)

平和構築の活動家であり研究者。 NPO法人「インターバンド」(www.interband.org)代表理事。 平和構築NGO「アフリカ平和再建委員会(ARC)」事務局長。 早稲田大学、大阪大学、立教大学、桃山学院大学で平和構築や開発協力の講義を担当。

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寄付文化

東京新聞2023年11月11日「大谷翔平選手はグローブ6万個!アメリカで寄付文化が根付く理由 でも日本で人気のふるさと納税って…」 1998年、神奈川県が「NGO研修派遣」という事業を開始しました。 これは県内のNGOの若手スタッフをアメリカのNGOにインターンとして派遣し、広報やファンドレイジングについて体験するというものでした。私はこの事業の1期生として選抜されました。渡航費、滞在費などが「奨学金」として支給してもらいました。 私はメリーランド州のInternatio

    • ミャンマー:暴力の拡大

      言論プラットフォーム「アゴラ」にミャンマーにおける暴力の拡大について寄稿しました。 4月24日の拙稿「ミャンマー「内戦」の抑止へ」で、2月1日のクーデター後のミャンマーにおける「内戦」状態に陥る懸念について記したが、その懸念はその後、さらに深刻化しつつある。すでに国軍による弾圧によって、800人以上が死亡、およそ5000名が拘束されているといわれる。…(続き)

      • ミャンマー「内戦」の抑止へ

        言論プラットフォーム「アゴラ」にミャンマー情勢について寄稿しました。 ミャンマー「内戦」の抑止へ   小峯茂嗣 ミャンマーで2月1日に軍事クーデターが起きた。軍政の拒否と民主化を求める「不服従運動(CDM)」に見られるような反政府デモが軍による武力弾圧を受けていることは日々報じられているとおりである。すでに700人以上が殺害され、3000人以上が拘束されているといわれている。…(続き)

        • 第8章―マイクロセービングで生活を立て直した女性たち

          ①クラリッセ・ニラポンガさん(35)はマイクロセービングのグループの一つである「INTAMBWE」のメンバーです。彼女は4人の子どもを持つ母親です。彼女は、小学校は卒業しましたが、その後に中等学校に進学する機会を持てず、20歳で結婚しました。INTAMBWEに参加するまでは農業とニットづくりをしていました。グループに参加してから彼女は、マイクロセービングからの資金をもとに、ニットに刺繍をして販売する仕事を始めました。並行して、現地パートナー団体のARTCFのスタッフは、彼

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        • ミャンマー
          2本
        • ルワンダ大虐殺から25年―民族和解に向けた挑戦!
          9本

        記事

          第7章―マイクロセービング活動が民族和解の糸口に!

           このマイクロセービングの場を民族和解の一助にする方法としては、現地パートナー団体のARTCFのフィールドオフィサーが、グループミーティングの場で、メンバーたちに和解のためのトレーニングを行います。その場では、皆一緒の人間であるということに気付かせ、民族の違いに関係なく同じ「ルワンダ人」として生きていこうと語りかけていきます。毎週のグループミーティングの場では、元・加害者も被害者も一堂に集まるので、メンバーにお互いのことを知り、理解する機会となっています。 フィールドオ

          第7章―マイクロセービング活動が民族和解の糸口に!

          第6章―和解のためのマイクロセービングプロジェクトのスタート

          ●「マイクロセービング」って何?  マイクロセービング(小口貯蓄)とは、開発途上国の農村部の貧困地域の人々の所得向上のための取り組みです。具体的には、農村で30人程度の「組合」を組織し、メンバーが毎週集まって少額の現金を積み立てます。メンバーは積立金から融資を受けて小規模ビジネス(牧畜、農業、工芸品づくりなど)をはじめたり、組合として銀行口座を作って利息を得ます。1年ほどの活動の後、メンバーは貯蓄金額の口数に応じて、配当金を受け取ります。1年間でおよそ1.5倍になって戻って

          第6章―和解のためのマイクロセービングプロジェクトのスタート

          第5章―社会に潜む疑心暗鬼・都市と農村の格差

           一方で、新生ルワンダ政府は、どのようにして和解を促進しようとしたのでしょうか。ジェノサイドを鎮圧したルワンダ政府の方針は、ジェノサイドに関わった人たちを徹底的に裁判で裁くということでした。しかしあまりにも関わった人が膨大なため通常の裁判手続では処理に200年かかると言われました。  そこでルワンダ政府は、ジェノサイド犯罪を裁くために、新たにガチャチャ裁判という制度を施行しました。これは刑務所にいる囚人を釈放し、出身地に返し、村々での住民の寄り合いの場で裁判を行おうという

          第5章―社会に潜む疑心暗鬼・都市と農村の格差

          第4章―「家もない、食べ物もない、仕事もないし、学校にも行けない・・・そんなことで和解なんてできるの?」

           私がルワンダに初めて降り立ったのが、1997年の8月でした。ジェノサイドが終わってからわずか3年のちのことでした。初めてキガリの空港に降り立ったときの感動は今でも覚えています。「いよいよアフリカに来たんだ」。空港に足を踏み入れた時、そのような感慨でいっぱいでした。 ↑ 1997年当時のキガリの街並み  空港から市内に入ると、まだあちこちの建物に銃弾の跡が残っていました。実際にここでジェノサイドが起きたことを肌で感じました。当時は街にはストリートチルドレンもたくさんいまし

          第4章―「家もない、食べ物もない、仕事もないし、学校にも行けない・・・そんなことで和解なんてできるの?」

          第3章―私はなぜルワンダへ?

           ところで、なぜ私、小峯茂嗣はルワンダにかかわるようになったのでしょうか?しかも25年も。  少し、私がルワンダにかかわるようになったいきさつをお話させていただきたいと思います。  私は幼少のころから、戦争というものに関心がありました。  もちろん、戦争は人類の最大の関心事でから、あたりまえと言えばあたりまえかもしれません。  ただ私の場合は、自分の父親が戦争遺児だったことが大きいかもしれません。父の父、すなわち私の祖父は医師でしたが、戦時中に軍医として中国に出征していま

          第3章―私はなぜルワンダへ?

          第2章―アフリカ平和再建委員会(ARC)の発足

           1994年4月、世界の人々は、突然、大量の難民がルワンダから周辺国に流出していることを知り、多くの人々が、ルワンダという国の名前をはじめて知りました。その時は、なぜこのような大量の難民が発生したのかを、誰も知りませんでした。しかし徐々に、ルワンダの国内でツチと呼ばれる少数派の人々が大量に殺戮されていたことが明らかになりました。これはのちに「ジェノサイド」と呼ばれることとなりました。しかし当時の世界の多くの関心は、この大量に発生した難民問題をどのように支援していくかということ

          第2章―アフリカ平和再建委員会(ARC)の発足

          第1章―ルワンダのジェノサイド

           ここではルワンダのジェノサイドがなぜ起こり、その後のルワンダはどうなっていったかについてお話したいと思います。  1994年、内戦下のルワンダで、多数派フツによる少数派ツチへのジェノサイド(大量虐殺)が起こりました。全土に組織された民兵集団に扇動された住民が銃や農具を手に取って、実に当時の人口の1割にあたる80万人以上が犠牲となりました。 ジェノサイドの犠牲者 教会に避難していたところを殺害された人々の遺体は、ジェノサイドから一年たった後も当時のまま残されていまし

          第1章―ルワンダのジェノサイド

          はじめに―平和構築のために行動する研究者、小峯茂嗣です♪

           こんにちは。平和構築のために行動する研究者、小峯茂嗣です!  1994年のルワンダのジェノサイド(大量虐殺)をきっかけにNGO活動に参加し、それからは何度もルワンダに足を運び、ジェノサイド後の「民族和解」のためにルワンダの人々と行動してきました。気がつけばこの当時から今までルワンダにかかわっている数人の日本人の一人となりました。  ルワンダという国の名前を知っている人は多いと思います。ジェノサイドがあった国として、はたまた今では目覚ましい経済発展を進めている国として

          はじめに―平和構築のために行動する研究者、小峯茂嗣です♪