第4章―「家もない、食べ物もない、仕事もないし、学校にも行けない・・・そんなことで和解なんてできるの?」

 私がルワンダに初めて降り立ったのが、1997年の8月でした。ジェノサイドが終わってからわずか3年のちのことでした。初めてキガリの空港に降り立ったときの感動は今でも覚えています。「いよいよアフリカに来たんだ」。空港に足を踏み入れた時、そのような感慨でいっぱいでした。


↑ 1997年当時のキガリの街並み

 空港から市内に入ると、まだあちこちの建物に銃弾の跡が残っていました。実際にここでジェノサイドが起きたことを肌で感じました。当時は街にはストリートチルドレンもたくさんいました。土産物や卵を抱えて売っている子どもや、中にはジェノサイドで片腕を切り落とされた少年とも会いました。そのような子どもたちは道端で物乞いをしていました。空き瓶の中に入ったセメダインの匂いを嗅いでフラフラしている子どももいました。

土産物を路上で売る少年たち(1997年8月)

 また現地NGOの案内で農村部にも行きました。主要都市を結ぶ幹線道路を走っていると、時々、軍の検問と遭遇しました。全員が身分証明書を提示し、身なりや荷物をチェックされました。旧政権や民兵が、難民キャンプから越境攻撃を行っていたこともあり、治安維持のために、人の移動は厳重にチェックされていたようです。当時のルワンダは、ジェノサイドを起こした旧政府関係者の反撃が散発しており、国内には緊張状態が続いていました。

 農村では、当時の農村の厳しい環境にありました。難民が大量に流出したため、農業生産が落ち込み、食糧援助のために行列をなす人たちの姿も見ました。また医療機関が少ないために、現地NGOが定期的に看護師を派遣し、巡回診療を行ったりもしていました。

食糧の配給を待つ人々(1997年10月) 

 私は紛争直後の国の惨憺たる状況を目の当たりにしました。

 そんな状況で、「和解する」というのはたしかに大切だけど、どうやって実現させるかってなると難しいですよね。1999年3月のある日、ルワンダのNGOの一つ、「ルワンダ女性クリスチャン協会(ARTCF)」のリーダーのジョセフィンと話していた時に、「家もない、食べ物もない、仕事もないし、学校にも行けない・・・そんなことで和解なんてできると思う?」と言われました。

 はっとしました。人として生きることができないのに、他人を赦したり、その人と和解するなんてできないだろう―。でも、どうすれば・・・


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