第3章―私はなぜルワンダへ?

 ところで、なぜ私、小峯茂嗣はルワンダにかかわるようになったのでしょうか?しかも25年も。
 少し、私がルワンダにかかわるようになったいきさつをお話させていただきたいと思います。
 私は幼少のころから、戦争というものに関心がありました。
 もちろん、戦争は人類の最大の関心事でから、あたりまえと言えばあたりまえかもしれません。
 ただ私の場合は、自分の父親が戦争遺児だったことが大きいかもしれません。父の父、すなわち私の祖父は医師でしたが、戦時中に軍医として中国に出征していました。が、中国で事故によって亡くなり、ついに日本に帰ることはありませんでした。つまり私の父は戦争遺児に、私の祖母はいわゆる戦争未亡人となったわけです。小峯家は、当時は病院を経営していましたが、それも戦争中に火事で消失してしまいました。一家の大黒柱を失い、病院も失った、戦後の祖母や父は、様々な困難に見舞われたようです。そのこともあってか、私が子どもの頃から、家の本棚には戦争に関する本や写真集がたくさんありました。私もその本を手に取って読むようになりました。思えばその頃から戦争というものについて、よく知るようになったのかもしれません。戦争で人が死んだり傷ついたりすることはもちろん悲しいことですが、それ以上に戦争が終わった後に生き残った人たちも、様々な苦労をしていることをよく知りました。その経験からか、ルワンダでジェノサイドという未曽有の災厄を被った人たちが、その後どのようにして生きていくのかということに思いを寄せるようになりました。
 私が高校から大学に進学する頃はちょうど冷戦が終わろうとしている時期でした。ベルリンの壁が崩壊し、ソ連や東欧諸国が民主化を進め、東西冷戦が終結して世界は平和になると思われた一方で、冷戦のタガが緩んだ結果、世界各地で国内紛争が頻発するようになった―そういう時期でした。そんな世界の激変の時代に、自分は何ができるんだろうかと漠然に考えたりしていました。
 受験勉強をしていた頃、夜中にふとテレビをつけるとニュースがやっていて、そこでは中国の天安門で民主化デモを行っていた学生たちが、中国人民解放軍に銃で打たれたり、洗車に轢かれたりしている様子が映されていました。自分と同じ時代に生きる同じ世代の人たちが、文字通り体を張って何かのために行動している姿は、私のその後に人生に大きな影響与えたと思います。
 大学では国際法を専攻し、国際安全保障について学びました。当時は湾岸戦争が起こり、カンボジア、ボスニア、ソマリアなどでの国内紛争と平和構築が注目を集めていました。大学を卒業した直後に、ルワンダでジェノサイドが起きました。そしてARCの活動と出会い、その活動に参加するようになりました。当時私は社会保険労務士さんの事務職員をしていました。ですが勤めて2年ほど経った時に、やはり「ルワンダに行ってみたい。自分が何をできるか考えてみたい」と思い、27歳で仕事を辞め、ルワンダに飛び立ちました。それから20年以上もルワンダに関わるようになり、今では人生の半分をルワンダと関わっていることになります。


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