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今は女だけど、元々は違うかもしれない私。

伝えたいことを文章で100%伝えられる自信がある人なんて、いないと思う。
何故なら、人の言いたいことを100%受け止められる自信が無いからで、その「人」というカテゴリーには自分も入るからである。

他人と自分は違うというけど、内から見ているか外から見ているかの違いだけで、はっきり分からない。
外堀から見ているか、見えないほど近くから見ているかの違いで、ちょうどいい立ち位置で見られるものでは無いと考えるからだ。

それを前提として、私は自分の中にある気持ちを誰かに10割伝えることを諦めているフシがある。
多感な時期(小学校高学年)に誤解されまくったからというのもあるし(友達いなかったし周りと衝突していた)
大人になって最初に就職した会社で語彙の違いによるすれ違いや摩擦を感じたからでもある。

なるべくわかりやすい言葉で伝えようとした経験が、今の文章書きに役に立っているのは認めるけども、人に伝えようとするのを重んじるばかりに自分の心の中を内観するのをなおざりにしてきたようにも思う。
(もちろんしてないわけじゃない。100できてないとしても70くらいはしていたと思う)

猫野さんの記事を読ませていただいたときに、初めに書いたようなことを思い出した。だけど書かずにはいられないのは文章書きの業なのかもしれない。

さて本題に入るが、自分が女性か男性か。
体のセクシャリティは女性だけど、実際のところの自分の「本当」のセクシャリティはグレーゾーンなのではないのか?という事をずっと考えていたのだが、皆そんなものだと思っていたのであえて口に出さなかったのだ。

女性として生まれ、中性的な顔と女性的な体つきで生きてきた。

好きになるのは基本的に男性だが、時折女性にも興味を示す。
本当に時折だし、私が興味を示す人が私に性的な興味を示さないのでどうこうなることは無かった。
(正確に言うと、キスどまりはあった。それ以上できる気がしなかったが、いつかそのようなお店で、先方の許可を得て試してみたいという気持ちはある)

たまたま結婚したいほど好きになったのが夫だったから、このように双子の息子たちに恵まれたが、別に女性を好きになってパートナーとして生きる人生もあったかもしれないなと思う。
夫が女性でも私は好きになっていただろうから。

そんなこんなでおそらく普通に生きてきた(と思われるであろう)私でも何となく不完全な感情を抱え、グレーで生きているというのに、自分ではっきりとしていない人たちはどれだけ生きにくいのだろうと思う。

せめてはっきりした人たちからでも、個々の好き好きを選べるような社会保障であってほしいし、出来る限りの平等を採択出来たらいいなと思うのだ。

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