延暦寺の住職・星野最宥さんに”心を調える”あれこれ、お聞きしました!
次から次に情報がタイムラインに流れてきて。それを見るたびに心が動いてもう大変。ざわざわしがちなこの心を、まっすぐ穏やかにコントロールする方法はないものだろうか…?ということで、延暦寺の住職に“心を調える”ために大切なことを取材してきました!
”場所や環境”も心のよりどころ
亀口:今日はどうぞよろしくお願いします。
星野:はい、よろしくお願いします。さきほどの坐禅体験はいかがでしたか?
亀口:1時間と聞いていたので長いかなと思ったんですが。坐禅自体は20分ぐらいですよね?
星野:はい、そうです。足の組み方や呼吸の仕方、心の持っていき方をお教えした後に「座ってみましょう」という流れになります。
亀口:延暦寺に1200年続く修行のひとつが、先ほど体験した「坐禅止観(しかん)」ですよね?
星野:はい。
亀口:「坐禅止観」は、心を止めるということですか?
星野:そうです。
亀口:心を止めることって、すごく難しいと感じます。特に私たちはSNSで情報を発信する仕事もしているので、次から次に情報がタイムラインに流れてきて。それを見るたびに心が動いて。もう大変です(笑)。
星野:そうですか。
亀口:その中で、どういうふうに、心をコントロールしたら良いのでしょう?
星野:自分でコントロールしやすい環境を作ることが大事です。
亀口:環境を作る?
星野:山の上で修行を行うときに、昔から『依心(えしん)より、依所(えしょ)』という言葉があります。
亀口:依心より、依所。はい。
星野:心を依り所にするための一つの手段として、場所や環境も大事なんだよと言う意味なのですが、例えば、街のネオンがギラギラしているようなところで坐禅を行っても気が散ってしまいます。
亀口:はい。
星野:延暦寺は比叡山の山の上で、下に駆けて降りても20、30分はかかるお山ですから、もう諦めがついて山の上で修行するしかないんですよ。
亀口:なるほど。
星野:比叡山延暦寺がもし京都の街中にあったら、また違う経緯を辿っていたと思います。比叡山の山の上だからこそ、この現在のスタンスが守られているのではないでしょうか。
亀口:もう「やるしかない!」という環境に自分を持っていくんですね。
星野:ええ。
亀口:さきほどの坐禅体験でもお話があったんですが、一般の人でも延暦寺の修行が体験できるんですよね。
星野:はい。
亀口:体験では1日ですが、実際の修行では、どんなことをされているのでしょう?
星野:修行の種類は本当に多様ですが、その中には、山に3年間、籠る修行もあります。
亀口:3年間ですか。
星野:ええ、病院にも買い物にも行けません。山の上で3年間、修行をすることが必須なんです。
亀口:必須?!
星野:その中で、浄土院での修行や僧侶の修行、道場の助手の修行を行います。自分で料理を作り洗濯を行う、草を引いて畑を耕すといった日常のすべても修行のひとつです。
亀口:誰とも会わないんですか?
星野:参拝者に会うことはありますが、山の下には降りません。
亀口:なるほど。
星野:ちょうど現在も、90日間お堂に籠って修行している修行僧がいます。
亀口:90日間お堂に……。
星野:他にも“百日回峰行”という修行を行います。“千日回峰行”という修行はメディアにも取り上げられて耳にする機会はあると思います。
亀口:比叡山の峰々をぬうように巡って礼拝する修行ですよね。およそ1000日間、ひたすら歩き続けるという。
星野:ええ。その十分の一の“百日回峰行”という修行は、だいたいの人は行っています。
亀口:はああ、だいたいのご住職は百日回峰行の修行をされているんですね。
星野:そうです。坐禅止観も同じで、自分の心を呼吸でとどめいくのです。
亀口:はい。
星野:たとえ話でよくするのですが、水槽に泥水があるとします。常に揺れ動いている状態であれば、泥水で濁ったままですが、これをピタッと地面に置き、しばらくすると下に泥の層ができます。
亀口:はい。
星野:上の方がだんだん澄んでくる。そのようなイメージを目指すのが坐禅止観です。
亀口:なるほど、濁りない状態。
星野:そのために、この心の揺れを止めるのですが、まずは体の動きを止めます。呼吸も、通常の呼吸ではなく、滑らかな呼吸にします。
亀口:呼吸ですか。
星野:あくまで坐禅止観の時の話ですが、滑らかな呼吸で、体の動きを止めて、理想的なフォームで座るということです。
亀口:坐禅止観の型をきっちりと行うことですね。
星野:はい。スポーツでもそうですが、例えばテニスやゴルフにしても、フォームが定まっていなけれ速く走れません。
亀口:はい。
星野:理屈ではない理想的なものがあってその通りに行うことで本物に近づいていくのです。
亀口:心を落ち着かせるのに適した型っていうのがあるんですね。
星野:いずれの世界でもそうでしょうけれども、まず基本が出来てからの応用です。
「やらされていない」は、強い
亀口:一般の坐禅体験は20分ほどですが、実際は、星野さんたちはどのくらい長くされるんですか?
星野:90日です。
亀口:……え?!90日ですか!
星野:もちろん途中で、お手洗いに行ったり、お風呂に入ったりしますので、24時間×90日座りっぱなしではないですよ。
亀口:ああー、座りっぱなしではないんですね。
星野:それでもお布団に入ることはありません。
亀口:眠る時も座って?!
星野:食事とお風呂のとき以外はずっと座っています。
亀口:はああー。そうなんですね。
星野:それを90日、お堂の中で一人っきりで取り組みます。
亀口:それは……どういう状況になっていくんですか?その、お布団にも入らず、90日間という。
星野:一つのことをやり続けるという意味で、読書三昧、映画三昧など『〜三昧(ざんまい)』という言葉がありますが、延暦寺で最も古い歴史を持つ修行に『四種三昧(ししゅざんまい)』というものがあります。
亀口:四種三昧、はい。
星野:中国の天台大師による教えに基づくもので、延暦寺の基本的な修行方法です。実際に実践できるものが3つありまして、それが『常坐三昧(じょうざざんまい)・常行三昧(じょうぎょうざんまい)・半行半坐三昧(はんぎょうはんざざんまい)』です。
亀口:どんな修行法なんでしょう。
星野:常に坐ると書いて“常坐(じょうざ)”。これは、坐禅三昧のことです。そして常に行くと書いて“常行(じょうぎょう)”。常に立ちっぱなしでのお念仏三昧です。念仏をとなえながら、本尊阿弥陀仏の周囲をまわり続けます。
亀口:ずっと立ちながらですか?!
星野:座ることは食事とお風呂のとき以外はありません。
亀口:はああ。
星野:半分立って、半分座るという“半行半座(はんぎょうはんざ)三昧”という修行もあります。
亀口:はい。
星野:これは通称、法華経という、妙法蓮華経というお経に出てくる仏様すべてに、礼拝(らいはい)を行います。
スクワットのように両手・両膝・額を地面に付けて、立ち上がってを繰り返す形です。チベットの巡礼みたいな形ですね。全ての仏様に礼拝を行い、読経と坐禅止観を行います。
これが1セットで4時間かかります。それを、1日6回行います。
亀口:4時間を6回ですか?
星野:4×6=24、24時間です。
亀口:24時間ずっと礼拝を?!
“三昧”の本当の意味がわかったような気がします……。
星野:そのような修行方法が今でも比叡山では実践されています。
亀口:これは野暮な質問だとは思いますが……なぜそういう修行をするのでしょう?
星野:修行で、仏様の世界に近づいていくのです。仏教の最終的な目標は、仏になることです。
亀口:はい。
星野:2500年前、お釈迦様が35歳でインドでお悟りを開いたときのように、実際に実践しながら、お釈迦様の修行方法で「どれだけ自分が仏に近づくことができるか?」を目標としています。
亀口:今に生きながら仏の世界に近づく……。
星野:仏様の気持ちで日常を送るというのが仏教の最終目標なのです。
亀口:仏様の気持ちで日常を送る。
星野:はい。
亀口:でも、そういう修行というのは途中で「もう、や〜めた!」って、できないじゃないですか。90日間ご飯とお風呂以外はずっと座るというのは……。あの……すごい俗的な言葉で言って良いですか?
星野:どうぞ。
亀口:修行って……ものすごいしんどいじゃないですか!
星野:ああ(笑)。それは、やらされていると思えばしんどいですよ。
亀口:やらされていると思えば?
星野:私たちは、自分で願書を書くんですよ。「修行をさせてください」と、慣れない筆で半紙に丁寧に書くわけです。
亀口:はい。
星野:比叡山から許可が降りるかどうか、その願書が通るかどうか、本当にドキドキしていますよ。そうやって、自分から挙手をしてさせていただくのが修行なのです。
亀口:やらされているのではない、と。
星野:ええ、「やらされている」ではないんです。「修行をさせていただいている」という気持ちです。
亀口:やるしかない!と決意することも大事ですよね?
星野:自分でそうやって追い込んでしまうのもしんどいですが、生活のリズムになってしまえば、しめたものです。
亀口:生活のリズム、ですか。
星野:三日坊主でいいんですよ。坊主のことわざで、良い言葉ではないことの一つですけれど(笑)。
亀口:坊主!ほんとですね(笑)。
星野:3日間できなくて、4日目寝てしまったら、また、次の日からまた三日坊主を続けたらいい。
亀口:なるほど。
星野:そういうふうにして、少しずつ自分のリズムを調えていくのです。
自分を知るために、自分を忘れる
星野:例えば江戸時代に丁稚奉公(でっちぼうこう)というものがありました。
亀口:はいはい。
星野:自分が生まれた家以外で、よその人の釜の飯を食べると言うことですが、最近では丁稚奉公というのは、聞かないですよね。
亀口:そうですね。
星野:家から出て一人暮らしをするぐらいだとは思います。それでも家の有難さを感じることは、いろいろな場面でありますね。例えば黙っていてもご飯を出してもらえる、その環境は一人暮らしではありえないわけです。
亀口:勝手に洗濯をしてたくれたり。
星野:同じように私達の世界であっても、家から出て、まあ出家と言いますけども。出家をして、まず自分の親ではないお寺に預けられて、生活をしていく。そこで小僧生活をします。
亀口:小僧生活ですか。
星野:はい。例えば和尚さんに「草引きをしておくように」と言われて、していなければ怒られる、やっておけば「ああ、そうかそうか」と、それだけのことです。
亀口:とくに褒められるでもなく。
星野:それだけのことですが、言われた事だけをやっていれば良いわけではなく、この指示の先に何があるのかまで自分で思いをめぐらして、先々と動かないといけない。
亀口:先を読むんですね。
星野:草引きというちょっとしたことですが、その積み重ねで、先を読むという勉強にもなります。
亀口:そいうところにも勉強できることがあるんですね。
星野:はい。それから小僧生活では自我を殺すことが大切です。
亀口:自我ですか?
星野:俺が、私がという考え方の方は非常に多いけれども。
亀口:前に出て、注目を集めたいとか。それも自我の強さですよね。
星野:自己アピール、PRに長けているというのは必要だとは思います。けれども、俺が私がというように、周りの方を蹴落としてでも自分が前に出ていくという、その考え方の良い時と、悪い時があります。
亀口:良い時と、悪い時。はい。
星野:比叡山を開かれた伝教大師最澄というお坊さんは、人を育てるために、この比叡山を作りました。
亀口:なるほど、比叡山は人材育成の場。
星野:はい。だから比叡山の根底には、悪いことは己に向かい、良いことは周りの人に与えなさいという『己を忘れて他を利する』という考え方があるのです。
亀口:悪いことは自分に、良いことは周りの人に与える。
星野:そのためにはまず、下座行(げざぎょう)を行います。小僧生活から経験することによって、自分の我を殺していくのです。
亀口:下座行?
星野:自分はこう思っていても、師匠から「こうしておけ」「ああしておけ」と言われたら、腹の中では違うと思っていても「はい」と言う、そういう考え方というのを体に覚えこますのが下座行です。
亀口:自分の我を殺す。自分を一段、低いところに置くんですね。傲慢な気持ちをもたずに、淡々と受け入れるというか。
星野:それがすべてに通じていくわけです。
亀口:俺が、私がと前に前に出て、注目を集めたいと思いながらでは、まず下座行は到底できませんね……。
星野:そういうことをしながら自分自身を見つめ直していくのですが、そうすると、自分というものが見えてきます。
亀口:自我を抑え込めば、分かってくるんですか?
星野:分かります。自分はこんなやつだ、と。
亀口:これをやりなさい、あれをやりなさいに応えていけば?
星野:応えているだけでは、ただのイエスです。その中で自分を考え、自分を見つめる時間を持つのです。
亀口:見つめる時間。
星野:例えば私は高校生の頃から小僧として比叡山に来ていますが、当時の同級生たちは学校が終わった後にカラオケへ行ったり、遊びに行ったりするわけです。でも私は、寺から通っていたので参加はできない。まわりは楽しそうだけれど、自分は今、やらなければいけないことがある。そういう葛藤はとてもありました。
亀口:はい。
星野:今にして思えば、なんともないことですが、当時は、遊びたい思いがありましたから、そういったものをいかに自分で呑み込んで、“昇華”していけるのかということです。
亀口:昇華するためには、自分を見つめる時間が必要なんですね。心を落ち着かせる瞑想を取り入れることも?
星野:それも一つだと思います。ただ結局、坐禅したからと言って仕事が進むわけでもありません。宿題が終わるわけでもない。全く、前には進まない非生産的なものですが、“自分のためだけの時間”という、非常に贅沢な時間を使って、自分を磨いていく。そういう一つのとっかかりが坐禅止観ではないでしょうか。
亀口:非生産的な時間はカタチには見えないけれど、じつは、内面では何かを生み出しているのですね。
言葉で説明できないものの中に
亀口:インターネットを日常的に使っていると、言葉がたくさんあふれていると感じるんですね。すべて説明されつくしているというか。
星野:はい。
亀口:そういう今だからこそ坐禅止観や仏様の世界だったり、目に見えないところのものを感じることは、大事かなと思うんですけれども。
星野:見えないもの、そうですね。
亀口:普段なかなか接しえないじゃないですか。日常の中では。
星野:例えば、家の味噌汁の味一つにしても、それぞれの味があるはずです。
亀口:お味噌汁ですか、はい。
星野:お父さんお母さん出身の、家の味というのもあります。遡っていくとおじいちゃんおばあちゃん、ひいじいちゃんひいばあちゃんまで。まあ、おせちなんて典型的なものですね、関東か関西かで全然違います。
亀口:はい。
星野:お家柄の味があるのと一緒で、それぞれの家のおじいちゃんおばあちゃんの教えが、皆さんの体の中に流れています。先人たちの知恵をいかに自分で受けて、日常生活を送れるのか。
亀口:はい。
星野:無駄なことも中にはあるかもしれません。
亀口:ガセネタも中にはあるかもしれない……。
星野:ただ、その中にはもちろん、真理を突き詰めた本当の事があります。そういったものを受け継いで次の世代に伝えられたら良いのではないでしょうか。
亀口:はい。
星野:今の私たちに必要な情報というのは、インターネットでいくらでも転がっています。
亀口:そうなんです、はい。
星野:そういうのではなくて、先人たちの教えというのは、家の味噌汁の味と一緒です。本当は教えてもらっているけれど、自分が気づいていないだけかもしれないのです。
亀口:すぐそばにあるんですね、じゃあ、そういうの。
星野:気づくか、気づかないかだけという可能性もあります。例えばただ琵琶湖を眺めているだけでも、いろいろな情報が視界からは入っているはずなんです。
亀口:それに気づくか気づかないか。
人間に生まれてラッキーだ
亀口:今日は学生インターン生も隣に座っているんですが学生からの質問も、ひとつ良いですか?
星野:はい。
亀口:その、「生きてる実感とは何でしょう?」という質問なのですが。
星野:そうですね、例えば先ほど坐禅を体験された時に、“今を”という話がキーワードだったと思います。
亀口:ああ、はい。
星野:結局、今、自分の置かれてる環境に満足できず、自分は不幸だと思っているネガティブな考え方であれば、生きているという実感は、まず無いと思うのです。
星野:今、自分がここにいるということが、どれだけ素晴らしいことなのか、まず、それを知らないといけません。
亀口:どうやって知るのでしょう。
星野:例えば、自分たちがオギャーと生まれます。そのためには、お父さんお母さんがいないと成立しません。そのお父さんお母さんの上には、おじいちゃんおばあちゃんがいます。
亀口:そうですね。
星野:それだけで、私の上にはお父さんお母さんが二人いる、その上におじいちゃんおばあちゃんが4人いる。2の倍数でご先祖さまを遡っていくだけで、10代遡って行くと1024人のご先祖さまが最低限存在しないと、今の私というのが消えてしまうわけです。
亀口:1024人がいたから、自分ここにいる……。
星野:はい、純粋にその1024人がいないと成立しないのですが、例えば戦争で早く亡くなられて、育ての親が存在すれば、もっと可能性は広がるわけです。
亀口:はああ。そうですね。
星野:その方々がいなかったら、今の自分は存在しない。だからそれが、“報恩感謝(ほうおんかんしゃ)”の気持ちに繋がるのです。
亀口:たくさんの人がいたから、今の自分がいるという。
星野:当たり前のように、いま人間として生きていますが、本当は人間ではなかったかもしれないのです。
亀口:人間ではなかったかも?!
星野:仏教では、『一切衆生(いっさいしゅじょう)、三悪道を逃れて、人間に生まるること大いなる喜びなり』と、平安時代に言われていたお坊さんがいます。
亀口:はい。
星野:人間の世界に生まれることがどんなに素晴らしいか、そのことを教えてくれます。三つの悪道というのは、地獄、餓鬼道、畜生道というあの限りなく無限に、気の遠くなるような世界です。
食べても食べても満腹感のない世界が餓鬼道。畜生道というのは動物の世界。その下に修羅があるのですが、修羅は戦の世界です。
亀口:ははあ。気の遠くなるような世界ですね。
星野:『一切衆生、三悪道を逃れて、人間に生まるること大いなる喜びなり』この後には『身は卑しくても、畜生おとらんや』という言葉が続きますが、これは、自分が高貴な王様に生まれたわけではないけれども、動物の世界ではなく、人として生まれて良かったのではないかと。
亀口:はい。
星野:人に生まれる、人間に生まれると言うことは、こういう稀有(けう)なことなんですよ、と教えてくれてるわけです。
亀口:はい。
星野:まあ、それは仏教ならではの考え方ですけれども。
亀口:はいはい。
星野:すこし難しい話になるかもしれないですが、“輪廻転生(りんねてんせい)”という言葉があります。
亀口:はい、死んだ後にもこの世に生まれ変わるということですよね。
星野:先ほども仏教の最終的な目標は仏になるという話をしましたが、仏になれず人生が終わったら、次の輪廻転生で人間になる保証はないのです。
亀口:は!人間に生まれ変われない……?
星野:次は、もしかしたら、あのカサカサカサと走っているあいつになるかもしれない。
亀口:ひやぁ〜、あいつに……。
星野:空を飛んでる、鳥になるかもしれないし、何になるか、生まれるかは分からないのです。
亀口:はい。
星野:お釈迦さまもいろいろな輪廻転生を繰り返して、最終的には2500年前に仏陀になられましたけれど、そういうことと一緒で、輪廻転生を繰り返しながら我々は仏に近づいていくというのが仏教の考え方です。
亀口:なるほど、はい。
星野:だから今、自分たちがいろいろな時を経て、今に至っているってことが分かると、満足・不満足というよりも、「ああ、ここに今いるということは有難いんだなあ」と感じられることもできると思います。
亀口:すごいですね、なるほど。人間であること、それがすでにもう恵まれている事。
星野:昔のお釈迦さまの教えの中にもありますが、人に生まれる可能性は『大海の針(だいかいのはり)』なのです。
亀口:大海の針、ですか。
星野:例えば太平洋の真ん中にぽんっと縫い針を放り投げます。これをどれだけの確率で見つけられますか?
亀口:海に沈む針なんて探せないですよね……。
星野:大海の針、それが人間に生まれる可能性ということなのです。
亀口:そう考えると、稀有な人間になれたからこそ、その”人間らしさ”みたいなのをもっとこう…使っていかないとですね。
星野:だから今、私たちは何をするの?ということです。信仰は自由で、宗教も自由です。何をしても個々の問題で自由です。けれども、生きる指針として、苦労や苦難に陥った時に、宗教というのは道しるべになると、私は思います。
亀口:道しるべ?
星野:比叡山であれば、根本中堂のお薬師さんを思う人もいれば、千日回峰行のときには不動明王という、後ろに火炎を背負った、怖い怖い仏さまがいるわけです。
亀口:はい。
星野:その時その時のシチュエーションで、本尊さまがいろいろ変わります。例えば高野山であれば、南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)と唱えて、真言宗の開祖である空海さまと常に二人で歩いているという
『同行二人(どうぎょうふたり)』という考え方もあります。
亀口:ええ。
星野:本当に苦労したとき、困難に陥った時に、それは手を差し伸べるというわけではないのですが、困難を耐え、乗り越えるための生きる道しるべとして、一つの助けになるのが、お釈迦さまや、阿弥陀さま、お大師さま、
いろいろな方からの教えだと思います。
亀口:そうですね。人に生まれる可能性は『大海の針』で、すごい確率なんだということ。もしかすると、次に生まれる時は、あのカサカサカサカサ走り回るあいつになっているかもしれない……。
星野:ええ。
亀口:それに、今の私がいるのは1024人のご先祖さんのおかげでもあって……。そういうことを知ると、パーっと視野が明るくなったような気がします。
星野:はい。
亀口:それは”教え”のほんの端っこでしょうけど、やっぱり、知ると知らないとでは、ぜんぜん心の持ち用も違うというか。
星野:そうですね、困難を乗り越えるときに、そういった教えはきっと道しるべになってくれるのではないかと思います。
亀口:坐禅体験に引き続き、心を調えるヒントをたくさんいただき、今日は本当に貴重な時間でした。ありがとうございました!
星野:はい、ありがとうございます。
亀口:……と言いながら、星野さん、最後にお聞きしたかったんです。あの、素朴な疑問なんですが、普段はインターネットやSNS、されてるんですか?
星野:はい、いまは利用しています。ただ、修行期間中は本当に山の上にしかいませんので、それに昔は電波も入らなかったので、全く疎遠でした。
亀口:はい。
星野:注文した野菜がくるまれてきた新聞を見て「えっ!こんなことあったのか!」というぐらいでした(笑)。
亀口:野菜を包んでる新聞で(笑)。
星野:そういうので、一喜一憂していたのが修行中ですけれど、今はもう、ネットで、速報!!というように、流れてきますので。
亀口:そうですね。
星野:だから情報には事欠かないですけれど、今は一喜一憂するエネルギーは無いですね。
亀口:エネルギーが。
星野:「私は48歳ですが、体力は無尽にないということが、最近、本当に分かってきました。限られた体力の中で何ができるのか?そこから取り組んでいかないといけない。もう、課題が山積みなので、余分なエネルギーを使いたくないんですよ(笑)」。
そう笑いながらざっくばらんに話してくれた星野さんですが、その笑顔は本当に若々しく年齢を感じさせない不思議な雰囲気に包まれていました。
坐禅体験と星野住職へのインタビューという、私たちの本日のお仕事も終わり、これから比叡山の山の下に降りようとしています。
そこにはいつもの日常が待っているわけですが、いつもの日々を、いつものように暮らしながらも、心の中には『大海の針』の考えを持っていたいものだなぁと、ぼんやりと思ったのでした。
(写真:若林美智子 文:亀口美穂 取材場所協力:喫茶れいほう)
協力:びわ湖大津観光協会
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