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死は生の濃度を最大化する

人はなぜ死ぬのか。
「死」は恐怖の対象であり、一般的に考えることも憚られる概念でしょう。
自分の大切な人が亡くなれば当然辛く悲しいですし、その人との時間が永遠に戻らないという事実に愕然とさせられます。

「死ぬ」「死なない」で言ったら、当然「死なない」方がいい。(少なくとも自分はそうです。)

しかし、どんな偉人も、どんなにお金を持っている人であっても僕は死なない人を聞いたことがありません。死は人類共通の無情な到達点として存在しています。

これだけ誰しもが直面する課題であるのに、「死」を日常的には意識しないで生きている人が大半だと思います。少なくとも「死」が自分に本当に訪れるものとしての実感がある人はほとんどいないでしょう。ニュースで人が亡くなってもそれは自分に起こり得ることではなく、あくまで他人の身に起こった悲劇として大抵は理解します。

「死」の実感がなぜないか。
「死」をなぜ意識しないのか。
それは「死」は人から時間を奪う不幸なものである、という通念を常識として受容することが、不幸なものである「死」を身近なものとして意識するのは当然不幸である、という直感的な結論に導いているからだと思われます。

そこで、考えたいのが「死」はなくなるべき不幸せな概念なのか、ということです。

自分の答えは否です。
なぜなら、「死」が無くなれば「今」という時間の価値も同時に無くなると思うからです。

もし「死」が無いとしましょう。
そしたら、あなたが今やっていることを今やる必要性はありません。なぜなら、「死」が無いため、現在の全ての行動は未来に行っても良いものとして転換されるからです。
例えば、あなたは今働く必要も、友達と会って話す必要も、勉強する必要もありません。それらの行動は時間が無限にあるあなたにとって「いつかやればいい」ものになるからです。

しかし、「死」があればどうでしょう。
あなたの現在の行動は今やるべきものとして知覚されるようになります。
なぜなら、あなたの人生は明日終わるかもしれなく、無限の時間は保証されていないからです。
今働くべきなのは、明日には労働を通じた価値創出ができなくなるかもしれないからです。
今友達と会うべきなのはもうその友達とはもう会えないかもしれないからです。
今学ぶべきなのは、明日に同じことが学べる保証はないからです。

このように「死」こそが現在という時間に価値を付与しているのです。
このことから自分は「死」を積極的に意識すべきだと思ってます。

毎日が夏休みの最終日だったらどうでしょうか。
それが一年間続けば365倍の夏休みの課題が達成できると思います(笑)。

それと同じで、「死」を意識することで「今」により向き合うようになり、「今」の濃度が最大化されます。その積み重ねが自分の「生」をより充実したものへと導いていくのだと思います。

スティーブジョブスは以下のように米スタンフォード大卒業式(2005年6月)にてスピーチしました。

私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。

「死」を恐れ思考を放棄するのではなく、「死」を積極的に意識することで「生」の濃度を高めていきたい、と思いました。


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