見出し画像

『誰も知らない』(是枝裕和監督)【映画感想文】

「万引き家族」「そして父になる」「歩いても歩いても」など、家族をテーマとした作品を多く作られている、是枝裕和監督の作品。主演は柳楽優弥くん(さん)でカンヌ国際映画祭にて当時最年少で最優秀主演男優賞を受賞し話題を呼んだ作品でもあります。

いやぁ、これは「なんでもっと早く見なかったのか!」と後悔するほどに衝撃を受けました。

育児放棄を扱った作品で、キャッチコピーは「生きているのは、おとなだけですか。」だったそうです。(参照元はwikipedia)

まるで柳楽優弥くんがあの鋭い目で「ねえ、生きているのは、おとなだけですか。」と訴えてくる画が浮かぶような、お見事なキャッチコピーですね。。
鳥肌が立つほどスバらしい。。。
誰が書いたのか気になりますがwikipediaには載っていませんでした。

稚拙ながら感想文を書き散らしてみたいと思います。

「俺は知らない。」無責任な父たち

作品では、大人たちの無責任さとそれによって子供が受ける理不尽さが描かれています。
当然、蒸発する母ケイ子も無責任な訳ですが、、、父たちも知らぬ存ぜぬで無責任極まります。そんな印象的なシーンをいくつか挙げてみます。

二人の父に会いに行くシーン

明は母ケイ子に放置されお金がなくなるので、仕方なく義理の父親たちにお金をもらいに会いに行きます。
そのシーンがまたリアル・・・。

①妹のゆきの父親(木村祐一)に会いに行くシーン

明は妹のゆきの父親に会いに行きます。ゆきの父はキム兄が演じています。タクシーの運転手です。
会いに行くと、ゆきの父はタクシーの中で口を開けて寝ている。
起きたらまずトイレに行く。明に軽く目をやりながら。
そしてトイレから戻ってくる時に同僚から声をかけられます。

同僚「あれ、今日非番じゃなかったけ?」
ゆきの父「うん また夕方からまた乗させてもらうねん。家おってもしゃあないし。」

「誰も知らない」(是枝裕和監督)

短い会話ですが、なんともリアル。そして「時間があるなら仕事でもしてたほうがいいわ」というゆきの父の生活環境が情報として盛り込まれています。

トイレから戻ると明と会話をはじめます。
ガムを噛みながら、携帯電話をいじりながら。目は合わせず。

ゆきの父「お母さん元気?」
明「お母さん一か月家に帰ってきてないんです。」
ゆきの父「まじで?・・・あきらくんいくつなった?」
明「12歳です。」

ゆきの父「ゆきちゃんは?」
明「ゆきは元気です。」
ゆきの父「俺に似てる?」
明「似てます」
ゆきの父「まじで?」

「誰も知らない」(是枝裕和監督)

最後の「まじで?」が「ああ、こいつと話してもダメだ。。」と絶望させます。

また、ゆきの父であることは説明されていませんが、
このシーンで明のことを「明くん」と呼んでいることや、ゆきが自分に似ているか?と聞いていることから、ゆきの父だとわかります。
更に、「いくつなった?」とさりげなく関西弁を使っていますが、これに対応する形で、別のシーンにてゆきがアポロチョコを「あと一個かいな。」とポロっと関西弁を使っていますので、やっぱりゆきの父だったと判ります。

トータルでたった2分くらいのシーンですが、最小限の表現で多くの情報と感情が盛り込まれていてすごい!と思いました。

②明の父?(遠藤憲一)に会いに行くシーン

遠藤憲一さんが明の父を演じています。パチンコ店で働いています。
ただ、明の父なのか、ちょっと不明です。

というのも母ケイ子(YOU)が明の父はパイロットだったと言っていたので・・・。

しかし明のことを「明」と呼び捨てにしているのでたぶん明の父であり、パイロットだったというのは嘘か、あるいはパイロットは辞めていまはパチンコ店で働いているのだと推測されます。

自販機で飲み物を買おうとするのですが、10円足りず、あろうことか明に10円をせびります。

しかもデリカシーの無い言動ばかりします。

そして明がお金を貸してほしいと話すと、急に怒り出します。
いま付き合っている彼女のせいでお金が無いというのです。

息子の明の前で、彼女がいることを構わずに言ったりとやはりデリカシーが無いです。。。

明は辛うじて頼れそうな大人にあたってみますが、彼らの「俺はそんなこと知らないよ。」という無責任な態度に直面するのです。

超リアリティ。何がリアリティを演出しているか。

作品全体を通して、徹底的にリアルに描かれています。
どのシーンもすごいのですが、リアリティが演出されていた部分をいくつか挙げてみます。

前半の柳楽優弥くんの演技。特に笑い方。

柳楽優弥くんの演技がめちゃくちゃ自然で、演じているとわからないほどです。本当に演技か??と見まがう感じです。特にはじめのほうの笑い方がすごい!でもあれはもはや演技じゃなくて本当に笑っちゃったのかもしれない。演技だったらすごすぎる。

少年野球の監督(寺島進さん)の明への接し方。容貌。

寺島進さんが少年野球の監督を演じているのですが、もう見た目からセリフまでどこからどうみても少年野球の監督です。
明が野球の試合に出て、ネクストバッターズサークルで素振りをして待機しているところへ近寄ってきてアドバイスします。

「あきらくん、あきらくん、手ね、締めて。縮めて。詰めて。そうそう。それでね、ボールが来たら思いっきりガツーンと叩き切る感じで。ガツーンといきゃいいからな。うん。」

「誰も知らない」(是枝裕和監督)

明が野球を好きなのに、いままで教わってこなかったからバットの握り方という基本的な知識が無いところも悲しくて泣けますが、、、。
寺島進さんの演技がめちゃくちゃリアルです。
明の後ろから手を回して、実際に明の手をとって指導する感じが完全に少年野球の監督です。

少年野球の応援歌

たぶん実際に使われていた応援歌をそのまま使っていると思われます。
小学生特有の歌い方が超リアルです。

実物の商品名が出ている。

アポロチョコだったり、コンビニに並ぶお菓子、またはテレビゲームまで実物のものが登場しています。平成中期の風景が懐かしいです。

母ケイ子(you)は明には後ろめたい、気後れがある。

母ケイ子が大阪に出張(という名の育児放棄)から帰ってきた時のこと。「ただいま~元気にしてた~?」とケイ子はこどもたちにお土産と愛想を振りまく。

しかし明には後ろめたい。
何故なら明は育児や家事をすべて担ってきたし、明は賢いので自分が育児放棄をしていることを見抜いている・・・だからケイ子は明には後ろめたい気持ちがある。

明にはそっけなく接する。それがとてもリアルだった。。

12歳の少年が背負った理不尽と哀しみ

悲しすぎるシーンはたくさんあるのですが、明の哀しみにフォーカスしていくつかピックアップしてみます。

汚いボールを拾って、一人で夢中になって遊ぶシーン

明は野球が好きだ。お金を貯めたらグローブを買おうと夢見ている。そんな明がある日公園で汚いボールを拾う。ひとりで空に向かってに投げたり、木の棒で打とうとしたりして無邪気に遊ぶシーンが出てきます。

明は学校にも行けないから友達と遊ぶ経験が無いし、グローブやボールもないから一人で野球をすることもできなかった。そんなあきらがボロボロのボールを見つけてはしゃぐ姿があまりに悲しすぎました。

ゲームセンターにて

同様に、ゲームセンターで遊ぶお金も持っていない明。同世代の子供がゲームセンターで遊ぶのを羨まし気に眺める。家までの帰り道、明は「ブーン」とか「キキ―ッ!」とか口で音真似をしてレーシングゲームをした気分になってる姿がやはり悲しい。

明がはじめてユニフォームを着て野球を思い切り楽しむシーン

ふと少年野球に誘われて、試合に出ることができた。
それまでの鬱積していた野球への情熱や、子供らしく遊びたい欲求を思う存分解放させました。

しかし楽しい野球が終わった直後、ユキが事故で意識を失ったという状況に直面する。

「ほんのひとときですら、子供らしく遊ぶことが自分には許されないのか?」
という明の絶望と虚無感がピークに達します。

効果的な対比表現

作中では対比表現を効果的に使って、明の貧しい環境と悲しさを表現していると思いました。いくつか対比を挙げてみます。

コンビニのアルバイト店員さなえと明の対比

明たちが良く利用するコンビニのアルバイト店員さなえ。彼女は高校生くらいの年齢ですが、店長に怒られてばかりいてこころもとない感じです。

一方でまだ小学生の明は「買い物をして、料理をして、家計を計算して、電気代を払い込んで・・・」とさなえよりずっとしっかりしているという対比がすごいと思いました。

明のボロボロのスニーカーと、友人の新品で大きめのスニーカーの対比。

明のスニーカーは後半はとても汚れていきます。
しかし中学に入学した友人は真っ白なピカピカのスニーカーを履いています。しかも「母親がさ、すぐにでかくなるから大き目のスニーカーにしとけって言うんだよね。」と不平を漏らします。

子供たちの髪の毛が後半では伸びきってしまうこと

前半は明は短髪です。また、母ケイ子が子供たちを散髪してあげるシーンも出てきます。
しかし、母ケイ子が家を出て育児放棄をすると誰も髪を切ってくれません。もちろん床屋に行くお金もない。
結果、子供たちの髪の毛はの伸び放題になってしまいます。

母のフェードアウト

はじめは子供たちも無邪気に笑い、とても和やかです。ほのぼのとした映画かなと思わせます。しかし少しずつ、不穏になっていきます。そのグラデーションが絶妙です。

ぬらーりと、しれっと母はフェードアウトしていきます。
無責任な大人ってこんな感じだよなーとすごく共感しました。

ラストシーンについて

ラストシーンは、残酷なユキの死で終わりかと思ったのですが、その後の日常生活の一幕で終わっています。

推測ですがこれはきっと、残酷な現実があろうと関係無く流れていく日常の残酷さを描いているのかもしれないと思いました。

余談

是枝裕和監督の作品は食べるシーンが多い気がする

食べるシーンが多いだけでなく、食べ物がおいしそうに、あるいは人間らしい食べ方が描かれているように思います。

この理由についての推測ですが、「食べる」ことは「生きる」ことの象徴である、として描いているのではないでしょうか。

生きる為に必要なことはなによりまず食べることです。

動物としての生命維持を目的とした、「食べる」という行為を重点的に描いているのかもしれないと思いました。

映画はドキュメンタリーに勝てるか?

(長くなったので、読むのに疲れたら無視してください。。。)
この映画は徹底的にリアルに描かれています。

ただそこでひとつ疑問が湧いてきました。
もしリアリティが重要ならば、映画はドキュメンタリーに勝てるか?という疑問です。リアリティという点ではドキュメンタリーには敵わないはずです。

例えばフジテレビの番組で、「ザ・ノンフィクション」という番組がありますよね。
市井の人の人生に密着取材して記録した、タイトル通りのノンフィクション・ドキュメンタリー番組です。

ご覧になったことがある方はお分かりだと思いますが、どれも強烈な印象を残すエピソードばかりですよね。

たぶん、虚構ではなくどれも実際に存在する世界の話だからこそ、そうした強烈な印象を与えるのではないでしょうか。

映画は、たとえば数年後にそのストーリーを聞かれても、ちゃんと覚えていることは実は少ないのではないでしょうか。

よほど好きで何回も観た映画でないとなかなか覚えていない気がします。。

しかし「ザ・ノンフィクション」は映画より何気なく見ていたのに、数年後でもその内容をちゃんと覚えていたりしませんか。

とするならば、「誰も知らない」のようなリアリティを重視した映画はドキュメンタリーに勝てるのでしょうか?

それは、問いそのものがナンセンスなのかもしれません。

映画は映画で、「編集、構成、演出、セリフ、キャスティング」によってドキュメンタリーのようにあるいはそれ以上に胸に迫るものになり得るはずです。

上手い編集、絶妙な構成、効果的な演出、心を動かすセリフ、キャラクターを体現したキャスティング・・・などによって記録を中心としたドキュメンタリーよりも時に心を動かす作品になるのだと思います。

これが映画の、ドキュメンタリーに対する優位性だと思います。

ところでこの問題は写真と絵にも同じことが言えると思います。

写真の技術が成熟しきっている今、絵に価値はあるか?という問題です。
当然、価値はあるはずです。

例えば抽象画だったり、シュルレアリスムだったり、この世に存在しないものを、絵は描くことができますよね。
写真は実体のないものは撮れないので。

結局いちばん重要なのは表現したいことが表現できるかどうか、そして受け手に伝わるかどうかですよね。

だから映画もドキュメンタリーも対立するものではなくて、手法やアプローチの違いに過ぎないのだろうと考えます。

おわりに

是枝監督の他の作品もまた観てみたいと思います!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?