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生きっぱなしの記(阿久悠)【読書感想文】

「この歌、いいなー」と思って調べてみると、
「作詞:阿久悠」という表記が目に飛び込んでくる。
この現象が頻繁に起きる。

「あ、これも阿久悠の作詞だ。」
次第に、「私は、ひょっとしたら阿久悠の歌詞が好きなのかもしれない。」
という恋のような始まり方で阿久悠への興味を自覚するようになった。

そんなある時、阿久悠記念館なるものがあることを知り、すぐさま足を運んだ。

阿久悠の遺した作品、仕事の数々を知り、阿久悠への興味が一層強まるとともに、尊敬の念が芽生えた。

もっと阿久悠さんのことを知りたいと思うようになった矢先、この「生きっぱなしの記」(阿久悠)という本を見つけ、手に取った。

興味深かった箇所をピックアップしながら、感想文を書いてみる。
そして阿久悠研究の入門レポートとしたい。

時代を見つめ、時代を見抜く。時代のかたりべとしての歌謡曲。

実は、歌謡曲作りにおいての阿久悠は、いわゆる「自身の世界観を表現するアーティスト」の類ではなかったと思う。
とにかく、時代を見つめる。時代を見抜く。
そこから、その時代の人間の心を見抜く。
そして、言葉を紡いでいった。
つまり、観察・洞察・考察から歌詞を作る。
それは、アーティストではなく、時代のかたりべ。

阿久悠氏の歌詞作りの信条をまとめた「阿久悠作詞家憲法」にそのことが表れている。

1 美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、違う道はないものであろうか。
2 日本人の情念、あるいは精神性は、「怨」と「自虐」だけなのだろうか。
3 そろそろ都市型の生活の中での、人間関係に目を向けてもいいのではないか。
4 それは同時に、歌的世界と歌的人間像との決別を意味することにならないか。
5 個人と個人の実にささやかな出来事を描きながら、同時に、社会へのメッセージにすることは不可能か。
6 「女」として描かれている流行歌を、「女性」に書き換えられないか。
7 電信の整備、交通機関の発達、自動車社会、住宅の洋風化、食生活の変化、生活様式の近代化と、情緒はどういうかかわりを持つだろうか。
8 人間の表情、しぐさ、習癖は不変であろうか。時代によって、全くしなくなったものもあるのではないか。
9 歌手をかたりべの役から、ドラマの主人公に役替えすることも必要ではないか。
10 それは、歌手のアップですべてが表現されるのではなく、歌手もまた大きな空間の中に入れ込む手法で、そこまでのイメージを要求してもいいのではないか。
11 「どうせ」と「しょせん」を排しても、歌は成立するのではないか。
12 七・五調の他にも。音楽的快感を感じさせる言葉があるのではなかろうか。
13 歌にならないものは何もない。たとえば一篇の小説、一本の映画、一回の演説、一周の遊園地、これと同じボリウムを四分間に盛ることも可能ではないか。
14 時代というものは、見えるようで見えない。しかし、時代に正対していると、その時代特有のものが何であるか、見えるのではなかろうか。
15 歌は時代とのキャッチボール。時代の中の隠れた飢餓に命中することが、ヒットではなかろうか。

「生きっぱなしの記」(阿久悠) 日本経済新聞社
p149-p150

日本人の感性、近代化する生活様式、人間のしぐさ、表情に至るまで、阿久悠は時代とじっくりと対峙していたことが伝わってくる。

こうした時代を観察・洞察・考察することはどんな職業人にも必要な姿勢ではないでしょうか。その意味で、この阿久悠作詞家憲法は作詞家のみならずすべての人にとって大変な金言である。

決して、机上の理論だけでは人の心を掴んだり、動かしたり、揺さぶったりすることはできないのだと思う。

「美空ひばりが歌いそうにない歌」をテーマに。

時代と向き合うことと同様に重要なポイントの一つは、第一条の、「美空ひばりが歌いそうにない歌を作る」だったという。

それまでの歌謡曲の象徴であった美空ひばり。
その美空ひばりが歌いそうにない歌を作る。
分かりやすい判断基準ではないか。

それまでの王道、定石、定番、常識。
それらを度外視し、それらとは違う角度から考える。

これが革新的、創造的なそれまでにない歌詞を作る際の指針となっていたのだろう。

時代を見抜く目は、お茶の間の人間をも見抜いた。

それまでのラジオに替わり、テレビがようやく各世帯に普及していったが、その新しいメディアの本質を捉えたスターが不在だった。
そして、まだテレビがまだ文化を成していなかった。

阿久悠はその時代を見抜く目で、人々がテレビをどんな環境で視聴し、どんな態度で観て、何をテレビに求めているのか?という本質を突き止めていた。

 池田文雄とは折につけて、テレビから誕生したスターの必要性を話していた。テレビが本当の意味で一般化して十年が過ぎていた。放送開始から算えると十七年であるが、一家に一台の状態からでは十年であった。それなのに、テレビの持つ特性である日常性を魅力にしたスターは、まだいなかった。
 本来スターというものは映画館で大劇場で、観客と遊離したところで非日常の世界を構築し、溜息をつかせるものである。早い話、メークアップにしろ、衣装にしろ、語り調子にしろ日常のものではない。圧したり、見下ろしたりしたりすることで成立するスターと客の関係である。しかし、テレビは違う。
 テレビを見る人は、自分の城の中で、最も自分が寛いだ姿勢で何かを行いながら、せいぜい二メートルの距離の小さく縮小されたスターを見る。そうなると、非日常の魔力は効力を発揮しない。だからテレビは、日常性の中での常識的な魅力を見つけなければならない。そういうスターを何とか自分たちで発見したいものだと、池田文雄と話していたのである。
 ぼくは、テレビのスターは、「手の届きそうな高嶺の花か、手の届かない隣のミヨちゃん」であるべきだと、そんなことを言っていた。

「生きっぱなしの記」(阿久悠) 日本経済新聞社
p177

『テレビのスターは、「手の届きそうな高嶺の花か、手の届かない隣のミヨちゃん」であるべき』だと見抜き、「スター誕生!」という番組を企画、数々のスターをテレビの中に登場させ、テレビの文化を作った。

時代を読み、見抜き、時代の飢餓を満たすものを創る阿久悠は、その意味ではマーケターでもあったのかもしれないと思う。

メディアの歴史の記録としても興味深い

阿久悠は主要メディアの勃興と黎明期、成熟していくさなかで生きた人でもあり、メディアの変遷、メディアの体験についても興味深いことが叙述されているのでピックアップしてみたい。

まず、ラジオ。
ラジオは玉音放送以前と以後で別れる。
玉音放送以前は戦争関連の放送。
玉音放送の後、すなわち戦後はエンターテイメントを放送するように。

 昭和二十年八月十五日の玉音放送は、わが家のラジオでは聴かず、国民学校の校庭に置かれたラジオに頭を垂れて、全校生徒をはじめ先生や父兄たちと一緒に聴いた。それが楽しさを秘めていないラジオの終わりであった。
 敗戦によって、ラジオは生き返った。戦後の社会をビビッドに伝える第一人者は、ラジオであった。そして、ラジオはよくしゃべり。よく歌うようになり、ぼくら戦後の精神の迷い子たちをどこかへ誘うような、笛吹きでもあった。ラジオの置き場所も敗戦とともに変わり、茶の間の茶箪笥の上に置かれて、家族団欒の中心になった。

「生きっぱなしの記」(阿久悠) 日本経済新聞社
p46

 一方でテレビは、皇太子殿下と正田美智子さんの結婚の儀式とパレードを見る為に普及したという。

 そして、昭和三十四年卒業の年が、時の皇太子殿下と正田美智子さんの結婚が話題をさらい、同時に本格的テレビ時代の到来を実感させた年でもあったのである。結婚の儀式とパレードの中継を見る目的で、テレビの台数は一気に二百万台を超えたのである。

「生きっぱなしの記」(阿久悠) 日本経済新聞社
p86

メディアは戦争の中で国家の統一の為に機能し、家族団欒の中で家族の統一の為に機能し、平和の中でもまた社会の統一の為に機能してきたのだと思う。

ユニークな入社試験

阿久悠は大学卒業後、宣弘社という広告代理店へ入社する。
その際の入社試験がユニークで興味深い。

 問題は、「昭和三十三年十二月一日号と仮定して、『週刊朝日』『週刊アサヒ芸能』『女性自身』のトップ記事の企画を立てなさい」というものであった。

「生きっぱなしの記」(阿久悠) 日本経済新聞社
p97

なんとも面白い試験で、リクルートスーツに身を包んで画一的な問答を行う面接よりも遥かにその才能と適性を測ることができるように思われる。

そして何よりこの時の阿久悠の回答が既に企画者としての眩い才能の輝きを放っている。

「週刊朝日」は、ビジネス特急こだまの運転開始で、東京・大阪が日帰り時代になったサラリーマン事情を、「週刊アサヒ芸能」は、野球の神様が禅寺で修行しているという川上哲治のことを皮肉に、「女性自身」は、皇太子の妃に決まった正田美智子さんの言葉から、尊敬度、信頼度、清潔度というのを書いた。

「生きっぱなしの記」(阿久悠) 日本経済新聞社
p97

余談だが、この発想力や企画力を問うような阿久悠の得意な形式の試験はあとにも先にもこの阿久悠が受験した年だけのことだったらしく、運命的なものを感じる。

モーレツな働き方

モーレツ社員と呼ばれるように、この時代の働き方は尋常ではなかったようだ。
いち会社員としての仕事も激烈なこの時代に、「宣弘社の社員・深田公之」として働きながら、同時に「放送作家・阿久悠」としての一人ニ役を担っていたから、当然過酷な生活であったことは想像に易く、睡眠時間は平均三時間という働き方だったそうだ。

むしろ、あまりに時間が不足で、二十四時間の中から何を省略するのがいいかと考えた。省略するとするなら睡眠時間と通勤時間だと思い、睡眠時間を半分に、通勤時間をゼロにした。つまち、夜を徹するかたちの作業を自分の部屋ではなく、会社ですることにしたのである。これならゼロである。
 それで、みんなが完全に退社したころから、一人居残って、原稿書き、絵コンテ描きに没頭したのである。これは考えように合理的だった。その時代、毎日毎日一日の終わりに、自分の部屋へ帰って行意味が、全く見出せなかったのである。

「生きっぱなしの記」(阿久悠) 日本経済新聞社
p115

 眠くなると机の上を片付けて、その上で長々と寝た。寒いと新聞紙を体に掛ける。さすがに冬の暖房の切れたビル内は居られたものではなかったが、その他の季節は大丈夫であった。ぼくはそんな苦労をしながら、どこか陶然としているところがあった。売れっ子作家になったような気分といったらいいか、とにかく辛くはなく、むしろ得意だった。二時とか三時とかに仕事を終え、数時間仮眠して、七時過ぎに朝食屋で塩鮭と納豆の朝定食を食べ、そのあと、東京温泉で朝風呂に入っていたから、とんでもないサラリーマンであったのだろう。

「生きっぱなしの記」(阿久悠) 日本経済新聞社
p116

言葉を学ぶとは

最後に、氏がNHKの「課外授業・ようこそ先輩」という番組で授業をした小学生たちに、番組終了後に送ったという詩を保存しておきたい。言葉を学ぶことの本質を分かりやすく表していると思い、大変感銘を受けた。

たくさんの言葉を持っていると
自分の思うことを
充分に伝えられます
たくさんの言葉を持っていると
相手の考えることを
正確に理解出来ます

「生きっぱなしの記」(阿久悠) 日本経済新聞社
p59-60

言葉の世界に興味のある者の端くれとして、本書とこの詩をときどき思い返してみたい。








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