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自国の歴史や文化を知らないと、世界に発信などできないことを知らしめた東京五輪の開会式

 東京五輪の開会式は、MISIAの歌唱力やピクトグラムの再現、ドローンによるエンブレムなどお面白いものもあったが、総じて冴えなかった。

 「週刊文春」がスクープした通り、電通の威光を背負った佐々木某が、それまで中心になっていたMIKIKO氏などから実験を奪い、演出チームを解散させた結果である。

 もともとの演出チームは、リオ五輪閉会式で東京五輪のプレゼンを行い、高評価を得ていた。それを解散させたのだから、驚くべき話だ。その結果、開会式のパフォーマンスは方向性のよくわからない、ごった煮のようなものになってしまった。

 明らかに失敗だと思われるものもあった。例えば上原ひろみのジャズ演奏と、海老蔵の見栄との組み合わせである。文化の融合、多様性を表現したかったのだろうが、ジャズを聴かせたいのか歌舞伎を見せたいのか、さっぱりわからない。結局歌舞伎がかすんだ。

 法被姿でのモダンダンスや、芸人が出たテレビクルーの様子など、日本人が見ても意味不明でパッとしなかったのだから、外国人には尚更だろう。むしろアナログに徹した、人間によるピトグラムの表現がとても良かったのは皮肉だ。

 全体に安上がり感が否めないが、これに160億円かかっているというから驚きである。中でも一番残念だったのは、「日本」の出し方である。それが最もよく現れたのが「イマージン」の使用だ。どうしてあそこで、日本の歌を出さなかったのか。

 英語とスペイン語ができて、南米で暮らしたこともあるグローバル派の知人は、「日本の歴史や文化を勉強せず、チャラチャラと外国に行った人間が作ったのではないか」「これが多様性だなんて、ちゃんちゃらおかしい」「日本はどうなるのやら」と嘆いていた。

 同感である。日本には古来から先住民族がいたわけだし、渡来人もいたし、海の民も山の民も存在した。それが近代になって歪んだのである。そういう埋もれた多様性に光を当てれば、日本ならでは多様性を世界に発信する意義もあったというものだ。

 それをダイバーシティーだのインクルージョンだのと、肝心の言葉を母国で言わないような欧米かぶれが、世界的な流行に乗って発信する上っ面だけの多様性など、説得力も何もない。

 かの知人は「アニメにつなげるにしても、鳥獣戯画や北斎を踏まえるやり方もあった」「古来から万物に八百万の神が宿り、アニミズムがアニメにつながっていくという展開もあったのでは」「あれが日本だと思われたら噴飯物だ」と嘆くことしきりだった。

 しょせん、自国の文化と歴史を学んでいない人間に、グローバル化も多様性もないのである。尊敬もされないだろう。近年、新し好きのマスコミが持ち上げている文化人は、たいてい留学帰りか帰国子女で、名前の中にカタカナが入っている。

 同化圧力の高い日本社会で、そういう多様な源流を持つ若い世代が台頭しているのは、実に素晴らしい。どんどん活躍してもらいたい。しかし、彼らにグローバル化を丸投げするのは安易である。

 今回も八村塁や大阪なおみを前面に出したのは、確かにわかりやすい。しかし安易でもある。日本文化や歴史を掘り下げた上で彼らを出せば、もっと説得力が出ただろう。

 しかも聖火の点火まで、つまり11時半頃まで子どもたちが出演していた。これが問題にならないのは驚きだ。アメリカのテレビ放送に合わせるためなら、労働基準法も無視するのか。

 多様化以前に法令遵守が求められるべきだろう。こんな前近代的なことをしていたら、それこそ世界から笑われる。とはいえ、そもそも五輪の開会式がこれほどまで仰々しく行われるものなのか。私はずっと疑問に思っている。

 聖火リレーも、ナチス政権下で行われたベルリン五輪から始まったものである。何を持って「聖なる火」と呼ぶのだろう。美化し過ぎである。そろそろ五輪も潮時だ。

 2年後には北京冬季五輪が、それこそ大金を注ぎ込み国の威信をかけて行われるのだろう。もうそういうことは、北京で終わりにしてもらいたい。そもそも雪が降らない北京で強引に開催することに疑問がある。

 五輪の先行きを心配しているIOCにとっては、ありがたい話なのだろうが、五輪の役割は終わっている。まぁ私がここで叫ばなくても、次第に飽きられて衰退していくだろう。

 

 

 

 

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