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短編小説・ホームレスの愛人 (2/2)

金持ちだったおっちゃんと、その美しい愛人だった私。私たちは煌びやかな思い出を引きずって今を生きている。
前・後編のその2。

【ホームレスの愛人 (後編)】

次の日、私はパートを休んでおっちゃんに会いにいった。
おっちゃんは私の腫れ上がった顔を見て驚いたみたいだったけれど、何も聞かなかった。
「まずは酒でも入れるか」おっちゃんは言った。
「ねえ、競馬に連れて行って」私は言った。
「けいこちゃん、それは安易すぎる」おっちゃんは言った。「何があったか知らないけど、競馬で儲けてどうにかしようなんて、ダメな人間の考え方の典型だよ」
それでもおっちゃんは私を競馬場に連れて行ってくれた。
私は電話ボックスの脇から掘り返した1万円札の束をポケットから出し、握りしめた。
でも、結果は惨敗だった。
「チキショウ」
私は悔しくてその場にしゃがみこんで泣いた。
おっちゃんは競馬場近くのどうしようもない居酒屋で私にお酒を注いでくれた。
「帰りたくない。パートを休んでお酒を飲んでいたなんて知られたら、また暴力をふるわれるもの」
「それでも帰る家があるうちは帰った方がいいよ。家のない生活はけいこちゃんが思っているよりっずっと辛いものなんだから」
おっちゃんの仕事はまだ見つかっていない。
おっちゃんはこのあいだ当てた万馬券で食いつないでいる。
「ねえ、あと幾ら残っているの?」
「さあ、幾らかな。あと数万っていうところだね。なくなったら現場仕事をするしかないな」
「この間の警備の仕事は?」
「紹介所の信用を失ったから無理だろうな。また、そのうちだね」
「ふうん」
「何もしてあげられなくて悪いけど、帰った方がいいよ」
「わかったわ。じゃあ、代わりにヤミ金の名前を教えて。自己破産した後に借りたところ」
「どうしてそんなことが知りたいの?」
「いいから教えて」
私があんまりしつこく聞いたので、おっちゃんは幾つかの業者を教えてくれた。
だけど、その金融屋はもちろん、おっちゃんの行方を追っている業者であるわけはなくて、私はまた夫に死ぬほど殴られた。
それから、おっちゃんと連絡が取れなくなった。

私は再び、パートをするだけの日々に戻った。
おっちゃんからの連絡を待っていたけれど、おっちゃんは私の電話を鳴らさなかった。
パートの帰りに、私はお小遣いで缶チュウハイを買って、公園のベンチに座って飲んだ。
部屋はゴミ箱をひっくり返したみたいに汚くて、家で飲むと気が滅入るのだ。
私はまったく片付けができなかった。でも、そのことで夫に責められたことはない。
それに食事もスーパーの惣菜のコロッケでもネコ缶でも文句を言わなかった。
それに私がお願いすると、夫は私を抱いてくれる。
夫にも優しいところはあるのだ。
夕焼けを眺めながら、夫の乱暴なSEXのことを思い出していたら濡れてしまった。
私はチュウハイを飲み干して急いで家に帰ると、夫のベッドの中でオナニーをした。

私が夫からの脱出を諦めてすっかり飼いならされた頃のある日、ぜんぜん知らない番号から電話がかかってきて、私はそれがおっちゃんだと直感した。
「けいこちゃん、この番号はねプリペを使ってるから控えても無駄だよ」
開口一番、おっちゃんは言った。
「そんなことしないわよ」私は言った。
「久しぶりに会わないか?」
「いいわ」私は電話を切った。
私は洋服ダンスから、いちばんお洒落に見える服を取り出して着替えた。
それから夫のベッドの引き出しの奥の隠し引き出しにあるカードケースからクレジットカードを1枚抜いて財布にしまった。
おっちゃんは去年と同じユニクロの黒いダウンジャケットを着て、改札に立っていた。
私も去年と同じユニクロの茶色いダウンコートを着ていた。
おっちゃんが音信不通になってからぴったり1年が経っていた。
私たちは例の犬小屋のような定食屋に入って近況を語り合った。
私はおっちゃんが急に音信不通になったことについて責めたりしなかった。
おっちゃんが私の前から姿を消したのは初めてのことじゃない。
1回目は私が奥さんに浮気をバラした時。
2回目は脱税疑惑でおっちゃんの会社にマルサが押し入った時。
3回目はおっちゃんの経営する六本木の高級クラブが風営法違反で摘発された時。
4回目は自社ビルを手放した時。
5回目はアパートの窓から逃げ出して、ホームレスになった時。
私は密告したり、通報したりことごとくおっちゃんの事業の邪魔をした。
そして、今回だ。
「少し痩せたみたい」私は言った。
「いや、参ったよ。実はあの後、体を壊して入院してたんだ」
「えっ?ホームレスなのに入院できるの?」
「けいこちゃん、驚くべきはそこじゃないだろ。心配してくれよ」
「どうしたの?」
「街中で心臓発作を起こして倒れてね、誰かが救急車を呼んでくれたんだ」
「それで?」
「心臓の冠動脈のバイパス手術を受けたんだよ」
「うそ。それって大変な手術じゃない」
「そうだよ。生死を彷徨う大手術さ。見せられないけど、ここに大きな傷跡がある」
おっちゃんはそう言って、脇の下から胸の中心までを鉤型に指でえぐってみせた。
「痛かった?」
「痛かったというか、まあ、いろいろ大変だったよ」
「それで今は?お金はどうしたの?入院費とか手術もしたんでしょう?」
「それが不幸中の幸いというか、病院が警察に連絡をしてね、兄弟から親戚から別れた女房にまで連絡がいったんだ。それで、何だかんだあって、アパートを借りて生活保護を受けられることになった」
「えっ?」
「だからもうホームレスじゃない」
「そんなのズルいわ」私は思わず立ち上がった。

おっちゃんは昔からずうずうしくてズル賢かった。
私はおっちゃんのそういうところに腹が立って仕方なかった。
自社ビルを売却する前、おっちゃんはビルを担保に相当のお金を借りていた。
三流のコメディ映画みたいな話だけど、おっちゃんは銀行や金融会社の融資担当を片っぱしから色仕掛けで落としていった。
「けいこちゃん、世の中は複雑に見えて、意外と単純なものなんだよ」おっちゃんは言った。
胸元の開いたブラウス、深くスリットの入ったミニのタイトスカート、9センチヒール、赤い唇。
私はおっちゃんの秘書として、担当の前に現れた。
応接室のソファに座り、おっちゃんの隣で長い足を組み替えた。
「バカみたい」私は心の中でつぶやいた。
だけど、おっちゃんの作戦は面白いほど成功した。
手に入れたお金でおっちゃんは、サラブレッドを買った。
〈ケイコチャンサンダー〉競馬新聞の出馬表に私の名前が入った馬の名前が載った。
「これが昔からの夢だったんだよね」おっちゃんは言った。
私たちは馬主席に座って、シャンパンで乾杯した。
もちろん、私だって悪い気はしなかった。
「けいこちゃん、借金は返さなきゃいけないものだと思ってるだろ?」
「当たり前じゃない!」私はほとんど反射的に即答した。
「けいこちゃんは真面目だからな。答えは、返さなくていいんだよ」
「どうして?!」
「じゃあ、金融会社は借金を返して欲しいと思うかい?」
「さっきから何を当たり前のことばかり言ってるのよ。怒るわよ」
私はすでに怒り心頭だった。どこまでふざけたオヤジだと思ったから。
「ほら、やっぱり真面目だ。でも、答えはノーなんだ。いいかい、金融会社は利子で儲けてるんだ。全額返済されたら儲けは無くなってしまう。だから、毎月の利子分だけ払っていればいいんだよ。金融屋は儲かる、俺は好きなことができる。最高だろ?」
でも、おっちゃんはコケた。
馬は勝たないし、事業には次々に失敗するし、バブルは弾けた。
おっちゃんは身から出た錆でホームレスになった。それなのに、、。

「どうしてそうやって調子がいいのかしら?」私の声は震えていた。
「どうした?何が気に食わない?」
「だって、ホームレスをやめて、屋根のあるところで悠々自適に暮らすんでしょ?」
「もう暮らしてるよ」
「もうっ!」
私は頭にきて思い切りテーブルを叩いてみたけど、誰も振り返らなかった。
この店には我を忘れて酔っ払っているダメな人間しかいないからだ。
「普通、恋人がホームレスから脱却したら喜ぶものだと思うけど」
「恋人とか言わないで!恋人なんかじゃないんだから」
「じゃあ何だよ」
「愛人よ。ずっと愛人。私が独身の時にはあなたには家族がいたし、あなたが離婚した時には私は結婚していたんだから」
「まあ、いいけどね」
おっちゃんはため息をついた。
私はウイスキーをボトルで頼んだ。
「あんまり無駄遣いするなって。俺は生活保護をもらっている身なんだから」
「無駄遣いなんて言葉、あなたの口から初めて聞いたわ。別にいいわよ。ボトル代ぐらい自分で払うんだから」
そう言って私は、夫からくすねたクレジットカードをおっちゃんに見せた。
「こんな店でクレジットカードなんて使えるわけないだろ?」
「うるさいわね。二千円くらい現金で持ってるわよ」
「俺は飲まないからね」
「どうしてよ。飲みなさいよ」
「ダメだよ。まだ体調が万全じゃないんだから」
「ねえ、どうしちゃったの?さっきからつまらないことばかり言って。昔はあんなに無鉄砲でやりたい放題やっていたのに、そんなに健康が大事なわけ?そんなに屋根のある生活が大事なの?」
「別に昔から無鉄砲だったわけじゃない。すべては自分なりのセオリーに従って綿密に計画を立てて実行した結果だよ」
「もう!そんなこと聞いてない。おかげで私の計画はめちゃくちゃだわ。せっかく私が一緒にホームレスになってあげようと思って、家を出てきたのに!」
「えっ?」
おっちゃんは一瞬、動きを止めて、それから大笑いした。
「まさか!けいこちゃんにホームレスなんて出来るわけないよ。出来たとしたら、プンプン臭う本物のホームレスだよ」
「何よ、それ。バカにしてるの?私、本気なんだから。だから夫のお財布からクレジットカードを盗んできたのよ。こんなことバレたら本当に殺されちゃうんだから」
「そうは言っても、俺はもうホームレスじゃないし」
「じゃあ、あなたのアパートに一緒に住むわ」
「ダメだよ。生活保護の分際で女と一緒に住んでるなんて民生委員にバレたら、受給を打ち切られちゃうよ」
「女、なんて言わないで。要はバレなきゃいいんでしょ?」
「けいこちゃん、俺はもう60を超えた年寄りなんだ。今回ばかりは君に邪魔をされたくない」
「邪魔なんてしないわ。料理だって、掃除だってやるし」
「けいこちゃんにそのつもりがなくても、一回でも何かあればもうお終いなんだよ」
「私のことが大事じゃないの?」
「そんなこと言ってない。もっとリアルな話なんだ。今はけいこちゃんの気まぐれに付き合っている余裕はないんだ」
「もう、いいわ。私一人でホームレスになるから」
私は立ち上がって店を出た。
店の外でしばらく待っていたけれど、おっちゃんは私を追いかけてこなかった。
私は店の中に戻っていって、おっちゃんに言った。
「わかったわ。じゃあ、最後のお願い。手術の傷あとを見せて」
 
私たちはホテルのダブルベッドの上に並んで寝転がっていた。
ワゴンの上にはよく冷えたシャンパンとフルートグラス。
それに高級な食材が並んだオードブルプレート。
私たちは犬小屋を出て、昔よく行った高層ホテルに向かった。
フロントでクレジットカードを提示した時、ドキドキしたけれど、カードは使えるようだった。
おっちゃんは夫の筆跡を真似てサラサラとサインをした。
その様子はあの頃を彷彿とさせて格好が良かった。
私たちはカプセル型のエレベーターに乗り込んで高層に向かった。
「どうしてスイートにしなかったの?どうせならスイートが良かったのに」
私はフロアの廊下を歩きながら小声で言った。
「こんなユニクロのジャンパー着てスイートはないだろ?一度疑われたら、もうどの部屋も借りれなくなってしまうんだ。何事も自分が求めるよりもワンランク下を狙ってちょうどいいんだ」
「じゃあ、私はあなたが望む女よりもワンランク下の女だったわけね?」
「けいこちゃんは俺の唯一の挑戦だよ。今だに手に入った気がしない」
私たちは微笑み合って部屋の扉を開いた。
窓の向こうにはスイートよりもワンランク下の夜景が広がっていた。
 
おっちゃんは私に手術の傷跡を見せてくれた。
鉤型のそれは脇の下から胸の中心に向かって刻まれていて、まるでおっちゃんを戒めているみたいだった。
私は赤茶色に膨れた傷跡をそっと指でなぞってみた。
「これがあるおかげで、あなたはシャンパンにもほとんど口をつけないのね?」
「そうだよ」
「これがあるおかげであなたは屋根のあるところで生活できるのね?」
「そうだね」
「そして、おじいさんみたいなつまらないことばかり言うのね」
「もう、そんな年だからね」
「ねえ、私の体はどうかしら?あなたみたいに年をとった?」
「けいこちゃんはぜんぜん変わらないよ。いつだって最高だよ」
私は裸の自分の体を見下ろしてみた。
私は若い頃から体型があまり変わらずにお腹も出ていなかったけれど、もうずいぶんくたびれて薄汚れてしまったような気がする。
「ねえ、私の肌はまだ白く見える?」
「けいこちゃんの肌はいつだって光り輝いて眩しいくらいだよ」
おっちゃんは私が望む通りの返事を返してくれた。
「でも、私の体を見て、もうオナニーをしてくれないのね」
「心臓に負担がかかるからね」
「私のおしっこも飲んでくれないのね」
そのことについて、おっちゃんは少し考えるような顔をした。
「そうだね。飲んでもいいけど、きっとあの頃と同じような気持ちにはならないような気がするな」
「そうね。わかる気がするわ」
私はシャンパンのグラスを手に取って、裸のままヒールを履いて窓辺に向かった。
大理石の床にコツコツとヒールの音が響いて、眼下にキラキラとした夜景が広がっていて、少しだけ高級な女になれた気がした。
「せっかくいい部屋をとったけど、けっこう退屈ね」
「その退屈があと何十年も続くんだ」
「ねえ、人って何のために生きているのかしら?」
「さあ、わからないけれど、死ぬ気にはならないだろ?」
「そうね。面倒な気がする」
「また暇を潰す方法がそのうちに見つかるさ」
「私ね、あなたがうんと不幸になればいいと思っていたの。だって、あなたはズルいことをして、好き勝手して生きてきたんだから、戒めを受けるべきだって。そういう考えって間違えているかしら?」
「さあ、どうかな。わからないけれど、一つだけ言えるのは、俺が不幸になったからって、騙された相手が幸せになるとは限らないと、言うことかな」
「それでも、あなたには、せめて私より不幸でいて欲しかったの」
「今の俺はけいこちゃんより幸せかな?」
「わからないわ。あなたって、どこにいてものうのうとしてるんだもの」
「どんな状況だったとしても、どう感じるかは自分次第だよ」
私は頭ごと白いシーツに包まって、悲しい気分になった。
私はおっちゃんがひどい目に合うことをずっと夢見てきたのに、おっちゃんは少しも不幸じゃなかったのだ。
「ねえ、私が夫からひどい目に合わされるのは、あなたに色々ひどいことをした罪滅ぼしなのかしら?」
「もし、そうだとしたら俺は少しも嬉しくないね。けいこちゃんにはいつだって幸せでいてほしいもの」
私はシーツの中でわんわんと泣いてしまった。
「私はこれからどうすればいいの?」
「帰りなさい」おっちゃんは言った。「自暴自棄になってホームレスなんかになっちゃダメだ。人生はけいこちゃんが思ってるよりずっと、ずっと長いんだよ」
「わかったわ」
私はおっちゃんの体の上に自分の体を重ねた。
「愛してるよ」おっちゃんは言った。
私はおっちゃんを愛しているのだろうかと、自分に問いかけてみた。
でも、きっとそんなことは考えるべきではないのだ。
「ねえ。家に帰ったら、きっと今までより、夫とうまくやっていけそうな気がするの」私は言った。

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