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【Podcast】#2 九段理江「東京都同情塔」の話

今回のPodcastでは、第170回芥川賞記念ということで、受賞作と候補作について三回にわけて話しました。

その第一回は受賞作の「東京都同情塔」について話しました。

作品の感想についてはここにも書くより、話し言葉として話していること、そしてその雰囲気のほうが多くが伝わると思うので、ぜひ聴いてみてほしいです。

と、言ったときに、それは、その言葉は、こういう形しか取らない意味を持って、それを伝えたいのに、それを違う言い方をしたり、例えばPodcastの内容を要約してnoteに書いたり、もしくは既にある言葉を指すこととして新しい言葉で言い換えたり、そんなことをしてしまったらもともとそこにあった「意味のようなもの」は消失してしまうじゃないか。 

でも、それは言葉を使って話すということに基本的についてくることであって。

要は何が言いたいのかというと(要は何が言いたいのかというと!)、言葉を使うというのは、そういう側面もある営みだとわかったうえで、だからこそ、自分の存在を規定する言葉は、偉い人が考えたカタカナの言葉とか、AIのスマートさが生成した言葉とか、それを一方的に当てはめられるのではなくて、自分で選んで、決めて、自己検閲して、そして使いたいということを、今回の「東京都同情東京都同情」や候補作の「Blue」、「猿の戴冠式」などを読んで思いました。ということです。
他人の独り言に自分の存在を巻き込まれてたまるか、みたいな。

それってとても大変なことだと思うけど、なぜなら慣性にしたがっても言葉を使ったコミュニケーションはできてしまうから、どうしてわざわざ頭を使って言葉を自己検閲する意味が?(それは、大体のことはAIに聞けばわかるのに、それを頭を使って考える意味は?に似ているような。あとあと、ついAIがどうって言いたくなるし、そういう言説が多いけど、実はこの小説って、そんなにAI大事ではないよね?)って感じだけど、それって言葉が氾濫する大独り言時代の「暴力のようなもの」から身を守る一つの手段なのかもしれない。
もちろん自分が暴力を振るわないようにするため、という意味でも。両方。

「見られる」だけで生きていくのではなく、「見られる」視線を「見つめ返す」ことで生きていこう、みたいな。

なんか実存主義の話を引用した自己啓発本みたいになってしまった気がする。

それはこの本の要約でもなければ、私たちの作品に関する感想でもないので、やはり本の話については、自分たちの話し言葉を積み立てていくような場所、「通話」であるところのpodcastを聞いていただければ嬉しいです。

じゃあ、この1000文字はいったいなんなんだろう?


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