やさしいひと

自由に暴言を吐く、あのこの人生がただ羨ましかった。彼女のうなじは発光している。毒素の抜けた胃の中は、きっと美しいピンク色をしているのだろう。私は煙草を吸わないけれど、胃の粘膜は真っ黒なヤニに侵されているし、人から隠し続けてきた背中といえば、焼き過ぎたココアクッキーのように壊死している。庇いようのない醜さを飼い育てる自分が、それを許してきた自分が嫌い。この世に優しい人などいない。優しさという皮を被る人と、それを優しさだと認めたがる人がいるだけだ。ぬるめのシャワーを背中に当てる。

まざまざと平穏

『淋しい夜が淋しいまま明けゆく絶望や、押し殺した激情で喉の奥が焼ける感覚が分かりますか。かつては瀕死の金魚のように浮いたり沈んだりしていて、それは良くも悪くも紛いのない自分そのものでした。生きづらさに息を詰まらせながらも、何ものにも染まらない自身を愛していたのだと思います。(中略)長い暗闇を抜けたあの日、皆んなが拍手とクラッカーで出迎えてくれました。少し照れくさくて、そして幸せでした。ところが翌日、ひとりで外に出て愕然としました。太陽がただ永遠と一本道を照らしていて、私はそれ

地獄に浮かぶ

贖罪では覆いきれない過去、善意と愛想の自己破産。残された日々はせめてもの懺悔です。年々悪くなる運勢も、報いか呪いのせいならば頷ける。夜誰かに会う度、今日の言い訳を逡巡させては嚥下して、結局悲しみも怒りもどっちもどっちだって気づいた。とても都合の悪いことに、この世のすべてはラブストーリーだ。もっと可哀想な人はいくらでもいる。生きようが死のうが救いのない僕は、どこにも当てはまらないようで特別でもない。不幸って、地球が丸いことに似ている。

少年よニヒルを超えろ

「神様の都合のよい夢で、ぼくらみんな痛みを持たされてかわいそう。」目から溢れるそれは海に還りたいと願う証拠なのですが、海も神様が作ったという噂が流れ始めてからというもの、天国など本当は存在しないのではないかと、クラスメイトたちは惑い嘆いている。ぼくは教室の端っこで頬杖をつき、飛び交うアダムとイヴのことはそっちのけに、超現実的宇宙について考えていた。幼稚なきみたちには分かるまい、ぼくの苦しみは悩みとかそういったレベルではないのだ。もはやその涙や討論すら無意味だということは言わな

台本のない脇役のように

ハッピーバースデイとご臨終の真ん中 ただ凡庸に暮らしている 掌にはご先祖様みんながいらっしゃって だらしのない私にひどく怒っている様子 畳の上で仰向けになる 目を閉じて無視を決め込む 安売りの落雁を唾液で溶かして 自分の無欲さに安心する 日が落ちてやっと外に出た 化粧はしない髪もぼさぼさで 近所のおばさんに会ってしまったから 仕方なく愛想の良さをみせつける 生ぬるい風 よその犬を撫でてむなしい このさき華々しいイベントも 事件も衝撃もなくたっていい 順調にスピードを上げ

生欲

ドブネズミが残飯を求め徘徊する街。古いアパートの一室にぽつり、大の大人。まずい牛乳を飲み干す。誰だって今すぐ凶悪犯罪者になれるし、あの世の存在を確かめることだって出来る、平等で不公平な夜。本能で酸素を求め、言葉に嘘を含める、生命は目覚ましい進化を遂げた。そしてより繊細に、面倒臭く、退化した。明日は年一の健康診断。目標もないくせに、早く眠りたい自分に嫌気がさす。

心中教唆

今日も砂漠で心中教唆。あなたは呑気に小鳥と花札。怪しいネオンてらてら輝いて、光と影が交互に落ちる。私、いつか苦しんで死ぬのがこわい。舌先の虚空をお裾分けしても、締まりのない語尾で宥められて終了。ラジオから流れるのはハッピー・ミュージック。Nのギアが壊れちゃったから、時々あなたのことも殺したくなる。血液はそんな思考を無視して颯爽と巡るので、仕方なく死にぎわを抱きかかえて歩く。

飽和

懐かしいあの子とふたり、月明かりの堤防を下る。スニーカーに染みる水は不快ではなくて、空気も吐息も澄んでいる。私たちは少しだけ若さに執着しつつも、諦めることの楽さに気づき始めていた。川藻が排出する二酸化炭素を、38℃に潜って眺めた。跳ねるニジマスや、若葉から滴る雫は輝いていて、その美しさの全てを覚えていたかった。過去の不要な記憶を溶かし、下流へ見送る。塩分の正体は人々の記憶で、溶けきらなかったものは現実へ持ち帰られるという。海に流れ着いたころ、目が覚めた。思い出せない誰かと何故

美人の膝の上で今宵

所詮狂いきれなかった変人だし、このへんで死んでおこうか？いちばんださくて、いちばん幸せなぼくを、柔らかく許容する母性。強い人間でありたかった、いつも誰よりも。慕われることが生き甲斐であり快楽だ。瞬間がよければ何だってよかった。大切にしていたつもりのものが壊れても、水は空洞に流れ込む。今必要のないことは忘れるべきだ。たとえば泣いてみたりもしたかったよ。きみが夢みた土地でひとり、他人の温もりに顔をうずめている。こんなにみっともないぼくのことを、どうか綺麗に忘れていますように。

絶対天国

衣食住の上位互換、それは死。天国。麻痺と重力を味方にしなくちゃ。だるい毎日をパスしてたある日、改札前に■■がいた。人目もはばからずキスをしてみる。朝ごはんにケーキを食べるみたいな、冷蔵庫の冷たさと温かさを知ってるみたいな、そんなかんじだった。癌になる準備はできてないけれど、いつも余命宣告を待って生きている。そんなぼくの耳元に朗報。全員いつかどうせ死ぬ。この上ない当然に打ちのめされて、夜空の星は綺麗で、幸福で、なまぬるい鼻血がとろりと流れた。

妖怪

生まれ変わったら、妖怪になりたい。いまぶつけようのない怒りを、苦しみを、凶器にできるから。物心つくと同時に醜さを受け入れて、諦めの生涯なら楽だろうか。痛覚は鈍いし、自分より恐ろしいものがないので、妖怪はとてもつよい生き物だ。案外、動物と仲良くなれるかもしれない。人間のころ恐ろしかったものが、やさしくてあったかいかもしれない。踏み潰していた幸せを、掬いあげて大切にできるかもしれない。羨み呪って、朽ちていく。同情も欲しない。期待もしない。生まれながらの孤独を手にして。

身支度

別に死んでもいい朝。なのに化粧は手を抜けない。顔見知りの秋は会釈もせず通り過ぎる。あんたってやつはいつも冷たいよね。身体も部屋も清潔で、隠し事ひとつなくて、刺激は瞼の間で消える。今日もなんてない一日を過ごして、それを幸せと呼ばなければならない。たとえばこれからも生きていくとする。私はできるだけ美しくなって、安静に暮らしたい。今日が人生さいごの再会だったんだって、たまに思い出してくれてもいいし、忘れてくれてもいいし。

ヒーロー

痰を撒き散らす汚いジジイから、只管な夏から、隕石の欠片から、ぼくはきっときみを守るよ。いつも安全の外側を歩くし、手を離さないって約束する。おっかない世の中のことや、自殺の方法なんて知る価値もないから、テレビとスマホは捨ててあげる。美しい目が濁らないように、特別な眼鏡をつくってあげる。裏切られて傷つかないように、いい人もわるい人もみんな殺してあげる。少年漫画の主人公になって、ぼくはきっときみをまもるよ。

アイドルちゃん

あたしって超超超超かわいいから、何言われたって痛くないし、うるせーよブス！と思える鋼のメンタルがあるし、とにかく強いの無敵なの。熱烈視線に甘い言葉、絶叫、羨望、蠢く経済。あげたくってもあげられない、あたしだけが持って生まれた富。これから歳とったって使い古されたって、家がなくたって愛がなくたって、あたしの肌はひとりでに艶めき続ける。不幸はアンニュイに、涙は光沢に。そんな人生。かわいいだけのあたし、いま強烈に生きている。

ココア共和国5月号電子版、投稿詩佳作集Ⅲに掲載していただきました。(naraku『新時代仙人』) https://www.youyour.me/cocoa202205

再見

きみの香ばしい背中に顔をうずめて春。ぼくは泣いた、さめざめ泣いた。ひとつ願いが叶うのならば、どうかどこにも行かないでおくれ。誇らしげに風になびく、美しい黄金の毛並みよ。誰にも奪えない強さと愛しさを抱えて、ここに来てくれて本当にありがとうね。健やかな横顔を、もみくちゃな平和を、ぼくは死ぬまで忘れない。しんどい朝のちっちゃい虹、いつもの場所で揺れている。この悲しみを大切にするよ。きみの代わりにずっと。誓って言う。