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アンティークコインの世界 | シャルル7世のエキュドール金貨


今回は、勝利王の名で知られるシャルル7世のエキュドール金貨と当時の歴史背景について紹介していく。勝利王の渾名を持つシャルル7世はイングランドの占領地を奪還し、百年戦争を終結させた名君として知られる。彼は祖父である賢明王シャルル5世譲りの賢さで、フランスを勝利に導いた。最初こそ燻った日々を送っていたシャルル7世だが、ランスの戴冠式を機に策士として覚醒していく様にはドラマがある。

France Ecu d’or 1422-1461

図柄表:ヴァロワ王家紋章
図柄裏:百合十字紋章
発行地:フランス王国トゥールーズ造幣局
発行年:1422〜1461年
銘文表:KAROLVS X DEI X GRACIA X FRANCORVM X REX
銘文裏:XPC* VIHCIT* XPC* REGNAT* XP’C* INPERAT
額 面:エキュドール
材 質:金.999
直 径:29. 0 mm
重 量:3.84 g
分 類:Fr-306; Dy royales-453; LP- 457
備 考:シャルル7世の治世下発行


フランス王国トゥールーズ造幣局で、シャルル7世の治世(1422〜1461年)に発行されたエキュドール金貨。ジャンヌ・ダルク、ジル・ド・レ、ラ・イール、リッシュモンなど、名だたるフランスの英雄が活躍した時代に発行された百年戦争期の貨幣である。商業取引、軍の給与及び物資調達、イングランドへの身代金支払等に使用された。

ヴァロワ王家2代目の善良王ジャン2世が捕虜となった際、イングランドは法外な身代金を要求した。この負債は息子シャルル5世の時代にまで影響した。幸か不幸か、ジャン2世が囚われの身のまま、敵地ロンドンで病没したため、フランスは身代金を全額払わずには済んだ。それでも、フランスへの経済打撃は大きかった。

というのも、それまでのフランス王は直轄領からの税金が収入源だった。そのため、王家と言えども常備軍を持てるほどの財力はなかった。有事の際に傭兵を徴収する形が採られていたため、これがフランス軍が貧弱だった原因のひとつでもあった。

当時のフランス王は、絶対王政で知られるルイ14世ほどの力はなく、税金を取るには三部会を開いて国民の許可を得る必要があった。唯一例外があり、国王の身代金については議決を通さなくても良いという決まりがあった。

ジャン2世存命中は彼の身代金という体裁で、シャルル5世はそこから少し財源を得ていた。だが、ジャン2世が敵陣で没した後は、財源が減少した。そこでシャルル5世は、フランスの各地方の防衛を理由に徴税を始めた。

当時のフランスの人々には、自分がフランス人という自覚はまだなく、国家のための徴税と言われても、自分には関係ない税という感覚で反発がの念が大きかった。だが、職にありつけず盗賊化した傭兵が各地に大勢おり、彼らが治安を悪くしていた。そうした盗賊を取り締まる名目で、シャルル5世は税の徴収を開始した。実際、盗賊が蔓延り、各地域の人々は困っているのが事実だった。

こうしてフランス軍は常備軍の獲得に成功したが、賢明王シャルル5世亡き後、彼が築いた体制は全て崩れ去った。シャルル6世は最初こそ有能だったものの、ある日突然発狂し、国政を担える状態ではなくなった。統制が取れなくなったフランスは、再びイングランドの侵入を許してしまい、北部のほとんどが占領される状態に至った。そして、シャルル7世の時代には要であるオルレアンが陥落寸前のところまで来ていた。

ヴァロワ王家盾紋章
百合十字紋章と王冠


本貨が発行された治世の王シャルル7世は、シャルル6世と王妃イザボーの11番目の子で、当初は彼に王位が回ってくるなど誰も思わなかった。兄たちが次々に若くして亡くなり、彼に玉座の権利が回ってきたという次第である。

だが、実母イザボーはシャルル7世が不義の子で、シャルル6世の実子ではないと公表した。この時イザボーは、自身の息子よりイングランド王ヘンリー5世をフランス国王の座につけようとしていた。そこで、シャルル7世の妹カトリーヌをヘンリー5世の妃とする計画を立てていたのである。

シャルル6世の死後、王位がイングランド王ヘンリー5世に継承されるようにするため、イザボーはトロワ条約をとりつけた。この条約はシャルル6世の死後、フランス王位がヘンリー5世に自動的に継承されるという内容で、フランスがイングランドのものになることを意味していた。

だが、ヘンリー5世はシャルル6世よりも数ヶ月先に若くして没した。これにより、トロワ条約によるイングランドのフランスの乗っ取り計画は白紙に戻った。これにより、シャルル7世に王位継承の兆しが見え始めた。とはいえ、ヘンリー5世はヘンリー6世という幼子を残しており、まだまだ安心材料とはならなかった。

当時、フランスには3つの大きな勢力が存在した。シャルル7世を筆頭とする中部及び南部を支配するアルマニャック派、フランス東部ブルゴーニュ地方を支配するブルゴーニュ公によるブルゴーニュ派、そして北フランス及び西部のボルドーを支配するイングランド勢力である。

ブルゴーニュ派はイングランドと手を組んでおり、シャルル7世たちアルマニャック派と敵対関係にあった。ジャンヌ・ダルクの登場まで、勢力はイングランド及びブルゴーニュ派が優勢で、アルマニャック派は壊滅寸前の状態にあった。そして、アルマニャック派の支配下にある軍事上重要な拠点オルレアンがイングランド勢力により陥落の一歩手前まで来ていた。

そんな絶対絶命の最中に登場したのがジャンヌ・ダルクだった。彼女の出自についてはよく分かっていない。豪農とする見解もあれば、ごく普通の農家の娘とする説もある。いずれにせよ、フランス北東部のドンレミ村(発音に忠実に書写するならドンルミだが、ここでは慣例に従う)の出身で、親の仕事の手伝いをしながら育った。

父の名はジャック・ダルク、母の名はイザベル・ロメ。ドンレミ村ではジャネットと呼ばれていたが、フランスではジャンヌと呼ばれるようになったと、ジャンヌ自身が処刑裁判で語っている。ドンレミ村が神聖ローマ帝国の領域に近い辺境に位置したため、ドンレミ村の住人はフランス中部一帯をフランスと認識していた。

ともかく、フランスの片田舎で育ったジャンヌは、13歳頃に突然神や天使、聖女の声が聞こえるようになったという。その声は徐々に具体的な内容をジャンヌに伝えるようになった。次第に天からの声が聞こえる回数は増えるようになった。

そしてある日、フランスを救うためにヴォクルールに赴き、そこで守備隊長ロベール・ド・ボードリクール伯に面会し、シノンにいる王太子シャルルと謁見、その後は王太子をランスで戴冠させよとの啓示があった。

1428年、ジャンヌは16歳の時に親族のデュラン・ラソワに頼んでヴォクルールに赴いた。見知らぬ田舎娘の登場にロベール・ド・ボードリクール伯は困惑し、すぐに追い返した。だが、少女が何度も訪れる上、街の民衆の期待感に溢れる声も後押ししてシノン行きを許した。

そうしてジャンヌは馬と護衛を与えられ、王太子シャルルのいるシノンに向かった。シノンに向かうと、ジャンヌは早速、王への謁見を願い出た。だが、王太子はジャンヌを神の遣いなら、と試すことにした。

王太子は身分の低い格好をし、反対に家臣の一人に王の格好をさせた。ジャンヌは神の遣いで神秘的な能力を持つのなら、変装した自分が王であると見抜くことができるだろうと王太子は考えた。

ジャンヌは王太子の仮宮廷に到着すると、王の格好をしたし従者のもとまで案内された。だが、彼女はそれが王ではないことをすぐに見抜いた。そして、宮殿内を周り、変装した王太子の前で止まる。そして、王太子であることを見抜いたという。

あまりにも出来すぎた話であることから、このエピソードはジャンヌを神聖化するための創作だろう。本当だったとしても、おそらくこのエピソードの裏には王太子の義母ヨランド・ダラゴンが関わっている。

実は、ジャンヌとの面会を王太子に強く勧めたのはヨランドだった。神の声を聞いたと自称するジャンヌを利用し、崩壊寸前の王太子政権に何らかのプラスの影響を与えられないか、ヨランドにはそんな思惑があったかもしれない。想像の域を出ないが、ヨランドが何らかの方法でジャンヌに王太子の変装の件を予め伝えていた可能性も考えられる。

その後、ジャンヌは王太子と二人きりで話がしたいと申し出、従者を除いて二人だけの会話した。この会話がどんな内容だったのかはいまだ不明で、内容を明らかにしている資料も存在しない。だが、おそらく誰にも言えない神の啓示を王太子だけの話し、彼の未来を伝えたのかもしれない。

ともかく、ジャンヌは王太子との謁見を果たし、その神聖を認められた。彼女の初任務はジ・ル・ドレ男爵の部隊に加わり、籠城しているオルレアンの救援に向かうことだった。このジル・ド・レという男はジャンヌの戦友としてしばしば美化されがちだが、婚約詐欺を繰り返し財産を不当に奪ってきた小賢しい男で、端的に言えばクズである。それはさりとて、ジャンヌたちはシノンを旅立ち、軍事・経済上、要となるオルレアンの援助に向かった。

ジャンヌ・ダルクがオルレアンに入城した際の戦況図


当時、オルレアンはイングランド軍の砦に囲まれた絶体絶命の状況で、兵糧攻め状態にあった。砦は西側に集中しており、厳重に監視・守備されていた。だが、東側が手薄であり、フランス軍はオルレアンへの物資や兵士の移動が僅かながら行えた。ゆえに、ジャンヌたちも東側からオルレアンに近づき入城した。

フランス勢力は砦に囲まれている状態だが、イングランド軍の兵士がその分、分散してしまっている。その点はイングランド側の弱みで、一応は各砦が相互支援が行えるよう連携が取れる体制にはしていた。とはいえ、砦の各個撃破を行えば、フランス側にも勝機はあった。

実際の戦闘では東側にポツンと位置するサン・ルー砦を最初に攻略し、その後、サン・ジャン・ル・ブラン砦の攻略にフランス軍は向かう。サン・ジャン・ル・ブラン砦のイングランド軍は、フランス軍の唐突な登場に圧倒され、砦を放棄して西側に撤退した。

ジャンヌたちは西に敗走するイングランド軍を追撃し、そのまま撃破。続いてオーガスティン砦に進撃し、大砲を使用してあっという間に攻略。そして、屈強な守りのトゥーレル砦に向かった。城壁に梯子を掛け、内部に侵入しようとするフランス軍。

だが、ここでは苦戦し、戦闘中にジャンヌが肩付近に矢を受けて戦線離脱した。後ろがロワール川で逃げようがないイングランド軍は、必死に抵抗した。イングランドの猛反にフランス軍は一度後退し、昼食を取ることにした。

だが、フランス軍の昼食中、休養していたジャンヌは軍旗が奪われたと勘違いし、トゥーレル砦に単騎で疾走。実際は、味方の他の兵が軍旗を持っていた。ジャンヌが一人で飛び出していったため、昼食中の兵士も彼女を追いかけ、再びトゥーレル砦に突撃。

イングランド側からしてみれば、これは完全なる不意打ちだった。意図的ではなかったにせよ、イングランド軍が準備不足を狙われた形となった。また、矢を受けて死んだと噂されていたジャンヌの復活にイングランド軍は恐れ慄いた。結果、イングランド軍はフランス軍の勢いに圧倒されて敗北。イングランド軍は、トゥーレル砦まで攻略された。

この事態を危惧したイングランド軍は、西側に複数展開している砦の兵士をオルレアン北西の平地に集結させ、野戦に持ち込もうとした。対するフランス軍も連勝による士気の高まりから、この野戦に受けて立つ。

オルレアンからは一般市民の志願兵も加わり、フランスは勢いに乗ってイングランドの戦列に突撃。市民も合わさった大群で押し寄せるフランス勢力に驚いたイングランド軍は、戦わずしてそのまま撤退。オルレアンは、こうしてついに解放されたのだった。

百年戦争の流れ変えたこの勝利を皮切りにジャンヌたちは連戦を重ねた。そして、パテーの戦いで勝利したフランス軍はランスまでの道を切り開き、ついに王太子は戴冠式を行い、シャルル7世として正式に即位した。

だが、ランスでの戴冠式を終えた頃からジャンヌの運命の雲行きが怪しくなり始める。ランスで戴冠式を済ませた後、ジャンヌは首都パリの奪還を目指した。だが、シャルル7世はこれに乗り気でなく、外交での停戦を望んでいた。そのため、ジャンヌは十分な兵士与えられない状態でパリに進撃。パリの防衛は強靭だったこともあり、散々な結果となった。ジャンヌ自身、太腿に矢をくらって負傷した。

パリから撤退したジャンヌは、その後も各地を転戦する。だが、その戦いでも結果を出せず、ついにはフランス北部のコンピエーニュの森付近で敵軍の捕虜なる。敵軍は身代金を要求したが、シャルル7世はこれに応えず、ジャンヌは見捨てられる形となった。その後、フランス司祭コーションに身柄を引き渡された彼女は、異端審問を受ける。そして、異端者として処刑が言い渡され、ルーアンの地で火刑となった。

ジャンヌの死後、シャルル7世は賢明王の渾名で知られる祖父シャルル5世を見習い、勅令隊と呼ばれる常備軍を新設した。また、火砲の開発を進め、城砦突破の効率化を図った。大元帥リッシュモンによる的確な軍事行動、常備軍、火砲の強化によって、フランス軍は大幅に強化され、ついにはイングランド勢力を完全に追い出し、百年戦争を終結させるに至った。この功績からシャルル7世は、勝利王の渾名で親しまれている。

今回紹介したエキュドール金貨は、波乱万丈でドラマ性のある時代に発行されたもので、それだけに大きな魅力を秘めている。もしかしたら、英雄たちの誰かがこの金貨に触れていたのではないか、そんなことに思いを馳せながら眺めている。遠い歴史と自分が繋がる瞬間。そんな奇跡をコイン収集は味わわせてくれる。

【主要参考文献】
レナード・ウルフ、河村欽錠一郎(訳)『青髭ジル・ド・レー』中央公論社、1984
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レジーヌ・ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン、福本直之(訳)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍、1992
ジャン・ファヴィエ、内田日出海(訳)『金と香辛料』春秋社、1997
藤本ひとみ『ジャンヌ・ダルクの生涯』講談社、2001
レジーヌ・ペルヌー、塚本哲也(監)、遠藤ゆかり(訳)『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク』2002
高山一彦『ジャンヌ・ダルク 処刑裁判』白水社、2002
城戸毅『百年戦争 中世末期の英仏関係』刀水書房、2010
エーリック・アールツ、藤井美男(監訳)『中世ヨーロッパの医療と貨幣危機』九州大学出版会、2010
樋口淳『フランスつくった王~シャルル七世年代記~』悠書館、2011
朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史』創元社、2012
竹下節子『戦士ジャンヌ・ダルクの炎上と復活』白水社、2013
堀越孝一『パリ住人の日記 I』八坂書房、2013
コレット・ボーヌ、阿河雄二郎・北原ルミ・嶋中博章・滝澤聡子・頼順子(訳)『幻想のジャンヌ・ダルク 中世の想像力と社会』昭和堂、2014
ジャック・ル=ゴフ、井上櫻子『中世と貨幣』藤原書店、2015
堀越孝一『パリ住人の日記 II』八坂書房、2016
佐々木真『図説 フランスの歴史』河出書房新社、2016
堀越孝一『ジャンヌ=ダルクの百年戦争』清水書院、2017
Guinea, Sovereign, Shillings『ヴァロワ朝百年戦争期における中世フランスおよび諸侯の貨幣収集』2017
Guinea, Sovereign, Shillings『王と乙女の身代金 ~ヴァロワ朝百年戦争期 フランス王家発行貨の通用価値~』2017
福井憲彦『教養としてのフランス史』PHP、2019
堀越孝一『パリ住人の日記 III』八坂書房、2019
竹下節子『超異端の聖女 ジャンヌ・ダルク』講談社学術文庫、2019
ギヨーム・ド・ベルティエ・ド・ソヴィニー、鹿島茂・楠瀬正浩(訳)『フランス史』講談社選書メチエ、2019
浜本隆志『図説ヨーロッパの紋章』河出書房新社、2019
ゲオルク・シャイベルライター、津山拓也『中世紋章史』八坂書房、2019
スティーヴン・スレイター、朝治啓三『紋章学事典』創元社、2019
福井憲彦『一冊でわかるフランス史』河出書房新社、2020
菊池雄太『中世ヨーロッパの商人』河出書房新社、2022
加藤玄『ジャンヌ・ダルクと百年戦争』山川出版、2022
池上俊一『少女は、なぜフランスを救えたのか』NHK出版、2023
André Delmonte, “Le Benelux d'or” Jacques Schulman BV, 1978
Jean Duplessy “Les monnaies françaises royales” Maison Platt, 1999
Arthur L. Friedberg, Ira S. Friedberg, Robert Friedberg, Gold Coins of the World, Coin & Currency Institute, 2017


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