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【ネタバレ有】映画ドラえもん「のび太の地球交響楽」大感想戦

まず大前提として、ドラえもんの映画については、いつもいつも絶賛というスタンスではない。特に藤子F先生が亡くなられた後に制作された作品については、オリジナル/リメイクに関係なく、不満を覚えることもある。

ただ、藤子作品を応援していく僕の立場からすると、自分の好みに合わないからと言って、それを安易に批判するのは止めようと決めている。

よって、自分が推せない映画が出てくれば、僕としてはそれを華麗にスルーしたいと考えている。

ただ、運がいいことに、藤子Fノートを始めてからの「映画ドラえもん」は、毎作傑作ばかりで、心の底から応援したくなる作品ばかりである。

先日公開となった「のび太の地球交響楽」についても、満足度は極めて高い。よくぞ作ってくれましたと、心から賛辞を贈りたい作品であった。まずは本作の制作に関わった関係者に一藤子ファンとして御礼を申し上げたいと思います。


先日、見た直後にネタバレなしの感想を書いております。ご参考まで。


本稿では、ネタバレ全開で解説・考察を行っていきます!



◆本作のテーマについて

本作のテーマは「音楽」だが、まずこのテーマ選択が素晴らしいと思う。なぜかと言えば、藤子F先生がおそらく描かなかったテーマだからである。

まずはこの点について語りたい。

藤子F先生が作り上げた「大長編ドラえもん」は、毎回先生が好きだったテーマ・モチーフを盛り込んでいるのはご存じの通り。

具体的には、「恐竜」「西部劇+宇宙」「アフリカの秘境」「海底とアトランティス」「小さい世界」「地下空間」「ロボット」・・・などである。

先生がお亡くなりになったあと、「映画ドラえもん」シリーズを継続させるにあたり、テーマ選択について、スタッフや関係者の苦労は大きかったと思う。

先生が描きたかったテーマは、ほとんど使い尽くされているように思えるからである。誤解を恐れずに言えば、劇場版はネタ切れ状態だったはずなのだ。

そのため、最初は既存の「ドラえもん」の中編を引き延ばしたような話も多かったが、徐々にスタッフたちの思考錯誤が実って、魅力的なオリジナルな作品も出現してくる。

例えば、ひみつ道具に着目した「のび太のひみつ道具博物館」、南極を舞台とした「のび太の南極カチコチ大冒険」、月と異説クラブメンバーズバッジを組み合わせた「のび太の月面探査記」などは、素晴らしいアイディアだった。

そのどれもが、藤子先生が「描かなかったが、描いてもおかしくない」というテーマ設定だったと思う。藤子先生の正当な後継作品と言って良いだろう。


ところが本作の「音楽」はどうだろうか。藤子先生が描こうとしたテーマだろうか。「音のない世界」というもしもボックス的なSFはありだが、音楽の力で世界を救うというテーマで大長編を描くとは思えないのである。

その理由として、まず、音楽では冒険を作ることが難しい。本作で言えば「ファーレの殿堂」という舞台を用意したが、ここに辿り着くための冒険はない。のび太たちをどこか異界への冒険に連れ出そうという藤子先生の従来の発想には当てはまらないものとなっている。

次に、悪役の設定が難しい。音楽が必要のない、音楽が邪魔だと考えるキャラクターが想定できないからである。本作では音楽を聞くと消滅する巨大生命体のノイズという敵キャラを作ったが、訳の分からない生命体という悪役の設定は、おそらく藤子先生では選択しなかっただろう。

また、藤子先生の全キャリアを眺めていった時に、音楽自体をテーマにした作品は極端に少ない。ジャイアンリサイタルや、バイオリンの下手くそなしずちゃんくらいなものである。

以上の点から、少なくとも積極的に大長編のテーマとして選ばなかった題材だと思えるのだ。


ただ、本作のテーマに関わる作品が全くないわけではない。例えば、藤子不二雄コンビの最初の単行本『UTOPIA 最後の世界大戦』では、凍っていた音楽が流れて支配者のロボットたちが機能を停止するという描写がある。

この作品の本質は、文化・芸術の力こそが人間の力なのだという、太平洋戦争下の反思想統制への反発であった。今回の映画の着地点である「音楽の力が世界を繋ぐ」という考えとは少し異なるのかもしれない。


本作は藤子先生がおそらく選ばなかった「音楽」というテーマを設定したことで、思想を持つ敵キャラの登場や、異界への冒険という、大長編ドラのお約束を踏襲していない。

しかし、それでも本作は、共感できるキャラクター、物語、メッセージが込められているし、お涙頂戴ではない形での、自然と感情が昂る感動も用意されている。

そして何よりも、いかにも「ドラえもん」というセンスオブワンダーに満ち溢れているのである。

藤子先生が敷いた従来の路線とは異なるアプローチによって、新機軸の「大長編ドラえもん」を作り上げたという点で、本作は相当に評価されるべきと思うのだ。


◆キャラクターについて

主に映画オリジナルのキャラクターの命名について見ていこう。

まず、ムシーカ星の生き残りとなるミッカ。ムシーカはMUSIC(音楽)の派生から生まれた言葉で、ミッカ(MIC)も同じだろう。つまり「音楽星の音楽」という音楽尽くしのキャラクターである。

ミッカを支える作曲家志望のロボットがチャペック。このネーミングの元ネタが今一つわからないが、「チャペル」から取られた名前で、ファーレの「殿堂」と対応しているのかもしれない。

ファーレのロボットたちは、音楽室に飾られている作曲家をキャラクター化させている。
・ヴェントー → ベートーベン
・ワークナー → ワーグナー
・バッチ → バッハ
・モーツェル → モーツァルト
・タキレン → 滝廉太郎
タキレンが登場した時、劇場内が沸いたことが印象深い。

キャラクターではないが、ムシーカ星の「音楽」を意味する「ファーレ」は、ファンファーレから取られている。ファンファーレの語源はアラビア語のトランペットだという。

星を喰らう巨大生命体の「ノイズ」は、作中でも語られているように、騒音を意味する言葉で、美しい音楽に対するアンチテーゼとしての意味が込められている。


◆ストーリーについて

大長編どらえもんは「のび太たちが預かり知らぬところで何かが起きている」というシーンから始まるのが定番。本作では石器時代の住人と思しき男の子が、隕石の落下を目撃する場面が描かれる。

最近「ゴールデン・カムイ」を見たばかりだったので、最初はアイヌ人の設定かと思ったが、どちらかと言うと「のび太の日本誕生」などを参考にしたアバンタイトルであった。

落下した隕石の中には、謎の赤ちゃんと不思議な形のたて笛が置かれている。この赤ちゃんが成長してのび太と出会うことになるのかと思いつつ、時代が違い過ぎるので、この時点では判然としない。

その後オープニングシーンが流れるが、ここで古代から出発した音楽の歴史がザザッと絵物語のように紹介される。音楽がテーマなので、このような演出なのかなと思うところ。

ただ、最後まで見ると、ムシーカ人が持ち込んだ笛がきっかけで音楽が奏でられて、現代に至っているのだという本作のテーマを描いたシーンだったことがわかる。


続けてのび太たちの日常が描かれていく。

のび太たちは、まもなく夏休みを迎えるが、秋の音楽会に向けてクラスのみんなでリコーダーの練習をしている。しかし何をやらせても下手くそなのび太は、指使いの難しいリコーダーの高い音が上手く吹けない。

ピュ~という笑えるような、イライラするような音を出してしまうので、ジャイアンやスネ夫にバカにされてしまう。

ここでスネ夫は「ドレミファソラシド」の音階から外れたのび太の吹く音を「ノ」の音だと言って笑うのだが、この通常使われない音がクライマックで役立つという伏線にもなっている。

音楽の先生は世界で最初の楽器は何かとみんなに問う。答えは「笛」で、上野の博物館で石器時代の笛の現物を見ることができるという。ここも何気ないセリフだが、後ほどこの笛が必要となる場面が来る。そのための伏線なのである。


散々バカにされたのび太は、明日からのリコーダーの練習が嫌で仕方がない。そんな折、家に帰るとドラえもんがどら焼きをたくさん食べている。「あらかじめ日記」を使って、どら焼きを入手したのである。

「あらかじめ日記」は、ドラえもん史上最強と言われている道具で、この日記に書いたことは何でも本当になってしまう。この日記の特徴は、「もしもボックス」とは違って、あくまで現実的に非現実的な出来事を起こすという点。

例えば「空からアメが降ってくる」と書くと、上空を飛んでいる飛行機がアメを大量に降らせてしまった、という出来事が発生する。

のび太はこの日記に「音楽がなかった」と書くのだが、「もしもボックス」の『音のない世界』のようにパラレルワールド的に音がない世界になるのではなく、あくまで現実的な理由で音楽が失われてしまうことになる。

具体的には、いつも演歌を聞いて元気を出しているおじいちゃんの家では、ラジカセが不調となってしまう。ピアノの演奏をしている幼稚園では、ピアノが壊れてしまう。

唄う人の声はガラガラとなり、信号機も壊れてしまって無音のまま。都心の大型ビジョンも故障してしまうし、しずちゃんのピアノの先生は海外旅行に出掛けてしまう。路上ライブのバンドマンたちも、アンプが不調で、それがきっかけで解散の危機に陥ってしまう。

このように、多少強引ながらも、「自然に」音楽が世界から失われてしまうのである。

「あらかじめ日記」によって音楽が無くなってしまったことを知ったドラえもんは、日記のページを破って無効にする。短編『あらかじめ日記はおそろしい』では、ライオンに食べられると書かれてしまったのび太が絶体絶命のピンチに陥るが、この時は日記を燃やすことで事態を回避していた。


ここでお話を先取りしてしまうが、のび太は「あらかじめ日記」に「今日は音楽がなかった。楽しかった」と書いているのだが、ラストでの夏休みの日記では、「みんなで音楽をやった。楽しかった」と書いている。

本作は、のび太が音楽の楽しさを覚えるまでの、ある種の成長譚となっているのである。この成長を見える形で分かり易く示したのが、後述する「音楽家ライセンス」という道具となる。


結局練習するしかないということで、のび太は一人河原でリコーダーの練習をする。ここでのび太はミッカと初めて出会う。冒頭で隕石に乗ってきた赤ちゃんが大きくなったような姿なので、ここで観客は混乱するところ。

翌日は、ジャイアン・スネ夫・しずちゃんと合同でリコーダーの練習をすることになる。のび太がいつまでも上達しないので、険悪な空気が充満するのだが、ここでリッカと再会し、みんなで楽しく演奏するシーンが描かれる。

アニメーションで楽器の演奏を描くのは難しいとされていているが、本作では果敢に長尺の演奏シーンに挑戦している。音楽なんてつまらないと思っているのび太が、音楽って楽しいかも、と思い始める重要なシーンだが、その目的は十分に達せられる素晴らしい場面だった。

ドラえもんは「ロボッター」を使って、みんなが持っているおもちゃを動かしたり、「ムードもりあげ楽団」を使って場を盛り上げる。本作ではドラえもんが演奏することはなく、あくまでみんなのサポート役に徹している。


のび太の家に、今晩音楽室に来るようにという謎のメッセージカードが届く。夜中の音楽室と言えば、学校の七不思議でお馴染みの、ベートーベンの肖像が笑う、という都市伝説がある。このナナフシを利用したちょっとしたホラー演出がある。

音楽室ではなく、音楽準備室が異界への入り口となっている。これは理科準備室から時間を遡った「時をかける少女」のパロディではないかと思うのだがどうだろうか。

不思議な光に包まれて、上空へと猛スピードで上昇していく。宇宙空間に飛び出して、巨大な宇宙ステーションのような建造物へと吸い込まれる。ここが「ファーレの殿堂」である。

本作は異界への冒険するシーンは全くなく、基本的に「ファーレの殿堂」だけがメインの舞台となる。もちろん、観客を飽きさせないために、音楽の力によって、少しづつ機能を停止していたエリアが復活するという設定にして、舞台に広がりを持たせている。

「ファーレの殿堂」は、映画の前作の「のび太と空の理想郷」のパラダピアと規模感の面で似ている印象を持つ。これは「ひみつ道具博物館」にも共通している。藤子プロの流行形なのだろうか。


のび太たちを出迎えてくれたのは、ミッカとミッカを支えるロボットのチャペックだった。河原で音楽で盛り上がった様子を見て、のび太たちをファーレを救ってくれる「ヴィルトゥオーゾ」だと考えて、招いたのである。

ヴィルトゥオーゾ(もしくはヴィルトゥオーソ/virtuoso)とは、音楽演奏の達人を意味するが、自分はこの言葉を知らなかったので、本編中に正確に聞き取ることができなかった。

おそらく子供たちにも分からなかっただろうから、この部分には代案があっても良かったように思う。


「ファーレの殿堂」では、先述した音楽家をモチーフにしたオリジナルキャラクターや、個性的なエリアが続々登場する。この中で異色なのは、タキレンが守る墓地で、ここではムシーカ人は既に大勢亡くなってしまっていることが明らかとなる。

また、ムシーカ星が滅んだ原因は、巨大生命体のノイズのしわざであることも判明。ノイズはファーレ(音楽)が弱点だが、逆に音楽が失われた世界を狙ってくるという特色を持つ。

ノイズは全宇宙に胞子を飛ばして、捕食可能な星を物色しているらしいが、地球にもとっくに辿り着いているようである。地球は音楽に包まれた星なので、普通にしていればノイズの胞子の活動はストップしたままであった。

ところがのび太が「あらかじめ日記」で半日音楽を消してしまったので、ノイズの付け入る隙を与えてしまったのだ。つまり、今回の世界滅亡の危機は、のび太が引き起こしたことになる。

さらに言えば、ドラえもんが私利私欲(=どら焼き)のために「あらかじめ日記」を最初に使っており、ドラえもんの罪も軽くないような気がする・・・。


さて本作で最も個性的なひみつ道具は「音楽家ライセンス」であろう。「運命の赤い糸」で結ばれた楽器を選び、その楽器と共に演奏を練習すれば、演奏者のレベルが上がっていくというものである。

この道具もおそらく藤子先生では思いつかなかったアイディアではないかと思う。ライセンスは、最初はビギナーから始まり、アマチュア、プロフェッショナル、そしてヴィルトゥオーゾへと成長していく。

のび太は一人ビギナーで取り残されてしまうわけだが、音楽を好きになって、もっとうまく演奏したいと心から願ったことで、アマチュアへと昇格する。この「好きこそものの上手なれ」というシーンがとても感動的であった。

なお、運命の赤い糸で結ばれたそれぞれの楽器についてだが、のび太のリコーダーはお約束で、スネ夫のバイオリンはイメージに合うが、しずちゃんの打楽器(ボンゴ)は意外だった。普段ピアノを弾いているので、リズム隊としての能力が買われたのだろうか。

またジャイアンがチューバというのも良い選択に思える。肺活量が凄いと劇中でもその理由が語られていたが、体が大きいので大きい楽器との相性も良かったようだ。

なお、ジャイアンと音楽というと、その悪声が響き渡りそうなものだが、劇中ではジャイアンが歌おうとする度に、邪魔が入ったり、皆が止めたりして、ついぞ最後まで歌うことはできなかった。(相棒のチューバまでも止めていた)


ファーレの殿堂があらかた復活し、登場人物とノイズの存在などが出揃ったところから、今度はそれまで積み上げてきた伏線がガシガシと回収されていく。

殿堂の完全復活には、太古のムシーカ人が地球に持ち込んだたて笛が必要ということになり、たて笛を求めて上野の博物館へと向かう。ここは冒頭の音楽の先生のセリフが伏線である。

たて笛に「オモイデコロン」を振りかけて、太古の記憶を呼び覚ます。「オモイデコロン」は、短編の『ココロコロン』に登場する道具で、大長編には初登場となる。

笛の思い出が蘇り、かつて石器時代にムシーカ人がやってきたこと、ミッカの双子の妹が一足先に地球に降り立っていたことなどが明らかとなる。観客もここでようやく、アバンタイトルのシーンの意味が理解できる。

そして本作の冒頭からチラホラ名前が出ていた外国人歌手のミーナの存在にスポットライトが当たる。作品だけ見ていると、上手いこと重要度の高いキャラクターとして注目させないような構成にしている。

しかしながら、ゲスト声優の目玉である芳根京子さんがミーナ役だと大っぴらに宣伝していたので、最初から重要なキャラだと認識できてしまう。よって、意外な重要キャラの登場!というような脚本上の驚きは失われてしまっている。

ミーナがミッカの妹の子孫であることがわかり、彼女に会いに行くと案の定ムシーカ人の笛を持っている。ドイツのおばあちゃんから貰ったのだという。

この笛が人間社会に音楽をもたらした超重要アイテムであるが、このようにうまいこと代々と受け継がれることができるものだろうか? ちょっとでき過ぎの感じも受けた。


最後の戦いにおいて、「時空間チェンジャー」が重要な働きを見せる。

この道具は、途中でどこでもドアを取りに行くために使われたが、その後にのび太がたて笛を風呂場に探しにいくシーンにも利用され、その時点で伏線を回収したと思わせる。

ところが、最終バトルにおいて、無音の宇宙空間においてのび太たちの音楽が響き渡ったのは、「時空間チェンジャー」を通じて、のび太の風呂場と繋がっていたからだという二度目の伏線回収が行われている。ここは素直にうまいなと思った。


◆総括

繰り返しになるが、「音楽」というテーマの下に、これまでの大長編ドラえもんの伝統的なストーリーテリングとは異なるアプローチで本作は作られている。異世界までの冒険を排し、何か哲学を持った悪役を設定していないのだ。

また、ここまで多くの映画オリジナルキャラクターを出したことも無かったように思う。新キャラの渋滞が起きているのだが、それぞれに十分な個性と、活躍の場が与えられている。特に、歌うようにしゃべる石丸・ワーグナー・幹二は、出演シーンは案外少ないが、インパクトは大だった。

音楽嫌いののび太が地球滅亡の危機を呼び寄せたわけだが、逆にのび太が音楽を好きになることで、強敵ノイズを倒すことが可能となった。「日記」と「音楽家ライセンス」を使って、のび太の成長を分かり易く示していた。

本作ではドラえもんが故障するという大長編ドラの一つの定番が描かれた。ここは面白かったが、全体的にドラえもんの印象が薄い作品にはなっている。

のび太たちはそれぞれ楽器が用意され、演奏することでノイズと戦うことができた。つまり分かり易い見せ場があるのだ。一方のドラえもんは、楽器を持たず、「マエストロハットとなりきり指揮棒」を使って、みんなを支える指揮者役となる。

ところが、ラストバトルでは、作曲家として成長を遂げるロボット・チャペックに指揮者の座を明け渡すこととなり、ドラえもんの活躍の場は失われてしまう。ドラえもんの扱いには少々手を焼いた作品なのかもしれない。

伏線やキャラクター、音楽の喜びなどをギュッと詰め込んだ結果、かなりの長さとなってしまった作品だが、最後まで飽きさせない力を持っていると思う。

それは説得力のある音楽を用意できたこと、そして音楽とシンクロする楽器演奏シーンが緻密だったこと、次から次へと楽しいひみつ道具や新キャラクターを配置できたことなどが、成功の要因となっている。


◆おまけ・・・来年の予告

ドラえもん映画の最後のお楽しみは、ポストクレジットシーンである。前作の「のび太と空の理想郷」では次作が音楽がテーマであることを明確に打ち出していた。

本作では、ヨーロッパのどこかと思われる城のような建物が映し出される。ドラえもんの格好も少し古めかしい洋風の装いで、どこか魔法使い風にも見える。

正直次回どんな話になるのか見当もつかないのだが、敢えて申せば「ゆうれい城へ引っこし」をベースとした、中世ヨーロッパが舞台となる可能性がある。

それはつまり・・・、この記事の予言が的中したのかも知れない??




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