これが本当の地球最後の日『ある日…』/藤子F・ザ・ムービー④
藤子F作品の中から、「映画」を題材にした作品を検証していくこのシリーズも一応の最終回。(なぜ一応かと言うと、未紹介の作品があまりに多いので)
これまで映画のバックヤードを描いた作品を見てきたが、今回は自主映画の上映会をテーマとしている『ある日…』を見ていきたい。
『ある日……』「マンガ奇想天外」No.10(1982年5月15日発行)
まず掲載誌の「マンガ奇想天外」についてだが、この聞きなれない雑誌は、SF専門誌「奇想天外」の別冊にあたる季刊誌で、もともとは『SFマンガ大全集』という雑誌の後継誌である。本作が掲載された10号を最後に終刊となった。大本の「奇想天外」は1974年1月号で創刊し、その後休刊と版元を変えての復刊を2回繰り返した伝説的なSF雑誌である。
特に「奇想天外」の「第二期」となる1976年~1982年の頃は全盛期で、夢枕獏や新井素子などがデビューしている。藤子F先生は、この第二期の復刊号で『一千年後の再会』を執筆している。こちらはロマン溢れるアイディアSF作品となっており、いずれ紹介したい。
『ある日』は、ある映画サークルの4人が集まって、それぞれが製作した自主映画を上映するというお話。メンバーは上映順に、①土井②立花③会長④佐久間の4人。会長は名前が登場しないが、この上映会は会長の自宅で行われている。
本作は4人が持ち寄った作品を次々上映していく流れだが、合間合間の会話が全くオシャレでなくて、逆に面白いことになっている。サラリーマン的というか、微妙な距離感の中で面白くもないジョークを挟んだような会話で、個人的にはそういう部分が好きな作品となっている。
例えばくじ引きで一番手になった土井が、「では前座を努めます」ときて、会長が「なにをおっしゃる、トップバッターに期待しますよ」と何か空々しい。まるで接待ゴルフのような会話である。そして、一人佐久間だけが、その輪から外れて冷めたように体育座りをしているのも、非常に気に掛かる。
土井の作品は「世界を駆ける男」。ハリウッドの20世紀FOXを彷彿とさせるファンファーレから始まる凝りようである。タイトル後、画面には土井自身が映る。「いよっ、主役登場」といちいちウザい合いの手が入る。
妻子に見送られ走り出した土井は、いつのまにか香港の町をはしり、ハワイのビーチに辿り着き、NY、エジプト、万里の長城などを巡って自宅の妻子の元へと戻ってくる。
これは特撮ではなく、海外への出張のたびにランナーの格好をして走る映像を溜めていたのだという。実に金と時間と根気のいる作品だったのである。
これについて、
「ですから私、すみませんがシャッターを押していただけますか、という言葉を十二か国語でしゃべれます」
とジョークを飛ばし、「こりゃ傑作だ」ゲラゲラゲラと笑いが出る、変な空気なのである。もちろん佐久間は、寡黙に座りっぱなしである。
続けて立花の作品。映像とともに作品内容を語りだす。家から風景にカメラを固定し、町の変化を見ていくという、これまた根気と時間がたっぷりかかった記録映像なのである。
「何があろうと動かしてはならんと家族に厳命しまして、日に3コマずつ撮影したのです」
と気の遠くなるような撮影である。8年を8分で描いて、作品は終了。
三番手はこの映画サークルの会長の作品。8ミリの大作ということで、スクリーンをなんとワイドに張り替えるという凝り方。「アナモの入手に骨折りました」と語っているが、家庭用でワイド用のアナモレンズを一般人が購入するのは、確かに簡単ではない。
こちらも手間と金と根気が掛かってそうなのである。
作品のタイトルは「スターウォーク」。当然スターウォーズのパロディである。冒頭、プラモ狂の息子に作らせたという長大な宇宙船をたっぷりを見せる。こちらも映像を見せながら解説が入っていくのが、少々興ざめるが・・。
続けてアニメーションを使って、ストームトルーパーが艦内を走り回る様子を見せる。ミニチュアとセルアニメを合成した苦心の作であるようだ。主人公は修繕係のトルーパー。アカンベーダー司令を探したり、指示に従ったりを繰り返すが、とにかく広い艦内なので、ひたすら移動させられて嫌になっていく。
「いくら帝国の威信を示すためとはいえ、こうまでばかでっかいシロモノを作らなくても」
と不満は溜まるばかり。疲れ果てた挙句、最後に8キロ掛かって船尾の修理箇所までたどり着くが、ねじ回しを置き忘れてきたことに気付き、修繕係は思いっきり嘆くのであった。
そして、ラスト、歩き疲れた兵士たちの不満が爆発し、反乱が起きた、というオチとなる。
実際のところ、この話はよく出来ている。移動中に喫茶店に入ったりしてるところは笑ってしまう。本作でのスターウォーズのパロディは、藤子先生もノリノリで考えたに違いない。
ちなみにスターウォーズのパロディと言えば「ドラえもん」の『天井うらの宇宙戦争』が思い浮かぶが、この時もアカンベーダーだった。(デザインは少し違うが)
さて、中年3人の上映が好評のうちに終わったが、一人黙っていた佐久間がぼそりと口を開く。「どれもこれもつまらん」と。これに聞き捨てならない3人は「どこがどうつまらないのか」と尋ねると、「作家の主張や問題意識がない。暇人の遊びに過ぎない」と、さらにダメ出しを重ねてくる。
それでは、そこまで言う佐久間の作品はどのようなものなのか。佐久間は語る。
「これは現代の我われが置かれている状況、戦慄すべき状況をズバリ描いた映画です」
タイトルは平凡な「ある日……」。そして内容も平凡そのものだった。通勤風景、公園、買い物する主婦、遊ぶ子供…。そんな生活スケッチのあと、突然プツンと映像が途切れる。
これは一体どういうことなのか。佐久間は再び語る。
「ある日突然・・・核戦争が始まって、一瞬にして小市民の生活が消滅したという結末です」
それに対して、あまりの唐突さと、伏線もない構成に説得力が感じられないと、ダメだしする残りの三人。
佐久間は反論する。世界を焼き尽くすに十分な核兵器は、今この瞬間も発射可能な状態なのだと、と熱弁し。
「ある日」は「唐突」にやってくる。「伏線」など張る暇もなく。「説得力」のある破壊などあるもんか。
まるで呪詛のような言葉が並び立てられる。
そして、「ある日」は今日にもやってくる、と語った瞬間に、この作品もプツンと終了してしまう。突然、世界が滅亡してしまったのだ。
唐突で伏線もほとんどない終わり方ではあるが、マンガとしての説得力には満ちているように思える。
本作は冷戦下の緊迫した状況、例えばキューバ危機の最中にあっても、それを深刻に捉えずに、普段と変らない生活をしている人類を皮肉った作品である。
金とゆとりで撮られた最初の三人の作品は、佐久間の言う通り確かに道楽であることは間違いない。切実な世界滅亡ギリギリの現実を見ていないのだ。しかし、そこに真剣に向き合っている人間がどれほどいただろうか。
これは現代でもその本質は変わらない。環境問題、コロナ、戦争、原発、そうした人類の存続を失う可能性のある切迫した出来事に、私たちはきちんと向かい合っていないのではないだろうか。
軽やかなに読める短編だが、ズシリと奥深い作品であるように思う。
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