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奇跡を合理的に説明できる時代に信仰心は育つのか?『ミラクルマン』/私は神さま⑥

この年末年始はドラクエウォークの麻雀を楽しんだ。もともと麻雀は大好きで、小5の時、家族麻雀でルールを覚えてからは、学生時代~就職後も、何かと卓を囲んでいた。

ネットでの麻雀はほとんどしたことがなかったのだが、ドラクエウォークに実装されたので、ではやってみようということになったのである。

で、麻雀をやっているといつも思うのは、「流れ」というものが確実にあるということである。

麻雀は技術や経験も重要なのだが、対局の中には自分自身ではどうしようもない「流れ」があって、自分に波が来たときは、恐ろしいほどに手が進み、しかも高い役を作ることができる。

その逆に、波が引いてしまうと、やることなすことが裏目に出る。確率の高い手を打っても、その逆の結果になったりする。しかも、流れが一度悪くなると、その流れは容易に変えることができない。


麻雀だけではなく、人生においても「流れ」は存在する。やることなすことが当たることもある。難しい選択もうまく行く方を自然と選ぶことができる。

「神懸っている」という言葉があるが、自分の努力や才能とはほぼ関係なく「流れ」を掴んだ者が、突如大きな成果を出すことがあるのである。


藤子F先生は、パートナーの安孫子先生と違って、麻雀をしていたというエピソードはほとんど聞かない。けれど、人生における「運」「流れ」については、良く熟知していたものと思われる。

禍福は糾える縄の如し。ついている時もあれば、どうにもうまくいかないこと時もある。こうした人生の運・不運については、藤子作品において当然重要なテーマの一つとなる。


昨年「私は神さま」というシリーズ記事を5本ほど書いた。藤子作品では、主人公が神さまになって、奇跡を起こす力を得るという話が、非常に多く存在しているので、それを取り上げた次第である。

これまでの「私は神さま」シリーズ記事はこちら。

特にSF短編において、「神さま」「奇跡」といったテーマの傑作が描かれているが、大体の場合において、人間は神の力を持っても、それを十分に使いこなすことはできない。それどころか、力を持て余し、破滅に向かってしまう。

力を持たない者の悲劇ではなく、力を持ったが故の悲劇に、藤子先生の興味関心が向いているような気がする。


で、実は「私は神さま」として紹介しなくてはならない作品が、まだまだ存在する。そこで、シリーズ第二期として、あと3作品を紹介していきたい。どうぞお付きあいのお願いします。


『ミラクルマン』
「ビックコミック」1973年11月25日号/異色短編1巻

奇跡としか呼べない事象が目の前に発生した時、たいていそれは単なる偶然だと片付けてしまう。もしくは科学的に説明できることだと納得してしまう。ところがそうした奇跡が、人生において連続していたとしたら、それを偶然と言い切れるのだろうか・・・?


主人公の木関(きせき)は一介のサラリーマンだが、奇跡としか呼べない体験をずっとしている人間である。一方、木関の同僚、郷里(ごうり)は、そんな奇跡を全て合理的に説明できると豪語する男。

本作は、木関の起こした奇跡が語られ、その事象について郷里が合理的な説明をしていくという会話劇がメインとなっている。やりとりを終えた後、二人の認識が変化する点が見所の一つとなっており、さらにラストでは意外な事実も明らかとなる。

じっくりと内容を見ていこう。


郷里が電車に乗って向かう先、それは同僚で友人の木関の自宅である。一年前には野原だった地域だが、今は団地が何棟も建って、電車はすし詰め満員である。

郷里を迎えてくれるのは、木関の奥さん。かなりの美人さんである。今日は、彼女の招きで木関の家にやってきたのだ。呼ばれた理由は、木関が神がかりになって部屋に籠ってしまったので、話し相手になって欲しいというもの。木関は3日間会社を休んでいるのだ。

3日前と言えば、木関と郷里らの課長が死んで、郷里曰く「盛大な」葬式をした日である。なぜ郷里が「盛大」という表現を使ったかというと、課長は上司としても人間としても酷い性格の男で、部下たちは死んで晴れ晴れした気持ちになったからだ。


すると木関が意外なことを言い出す。「自分が課長を殺したのだ」と。「そんなバカな」と郷里。木関は、課長にねちっこく一時間いびられた後、心の中で「クソ課長くたばれくばれ」と呪っていたという。すると、その矢先に課長は東名高速で事故死したのだ。

木関は自分の力が空恐ろしくなり、家から出られなくなったようなのだ。さらに木関は、意を決したように口を開く。「俺にはずっと前から奇跡を起こす力がある、ミラクルマンなのだ」と。


木関のミラクルマン宣言は、幾度となく奥さんは聞いていたようで、「お願い!そんな夢みたいなこと」と言って、木関をたしなめようとする。

しかし郷里は、「面白そうなので詳しく聞かせてくれないか」と言って上着を脱ぐ。郷里は、木関のミラクルを全て合理的に説明できると考えているのである。


さて、腰を落ち着け、ビールを飲みながら、木関はこれまで自分が体験した奇跡を語り出す。先に書いてしまうと、それはほとんどが、奥さんとの馴れ初めに関することである。木関にとっての最大の奇跡は美人の奥さんをゲットしたことなのだ。


まずは奥さん、結婚前の名前は富士タカネ、と初めて出会った日のことから。タカネは、おそらく高嶺の花から取られてた名だろう。

その日、秘書課のタカネはひどい頭痛に悩まされていた。タカネの同僚が木関のところへ連れて行き、木関がタカネの額に手を当てると、ウソのように頭痛は消える。木関は既に新興宗教を開けと言われるほどに、人の不調を直すことができると評判であった。

木関はタカネに一目惚れして、その後触れた手を一週間洗わなかったという。木関はタカネに近づくために、平凡ながらプレゼント作戦を思いつく。人事課の友人を巻き込んで履歴書を盗み見て、誕生日などをメモる。そして、軍資金を稼ぎ始める。


ここからが二つ目の奇跡。

木関は、お金を稼ぐために麻雀をする。カモは郷里たち同僚である。木関はその気になれば間違いなく欲しいパイが来た。郷里がまさか当たらないだろうと振りだした捨て配は、見事に大当たり。なんと九連宝燈(チューレンポートウ)である。


次に三つ目の奇跡。なんと空中を歩いたという。

麻雀で稼いだ軍資金でダイヤを買う。タカネの誕生日を狙って渡そうとするが、彼女の指には何カラットか見当もつかないようなダイヤが光り輝いている。木関は、自分の小さなダイヤが手渡せず、タカネを遠い存在に感じてしまう。

悔しくて、木関は歩いて歩いて、そして走った。無我夢中で駆けていき、ハッと気がついた時、崖から飛び出して、空中に浮いていたという。


ここまでの木関の奇跡を聞いたところで、郷里が割って入る。木関の言っていることは嘘ではないが、全て合理的に説明できることだという。その内容とは・・・

・イワシの頭も信心から(偽薬効・ブラシーボ)
信じて飲めばイワシの頭も薬になる。心因性の病気は強力な暗示だけで治ることが多い。加持祈祷は全てこの類い

・パノラマ視現象
高いところから落ちた人がわずか数秒間で信じられない程多くのイメージを思い浮かべる。木関はガケから落ちながらユメを見たのだ

・勝負強い人はいる


郷里の合理的説明を聞いても、木関はあまり納得できない。そして、「最大の奇跡を聞かせよう」と言って、タカネと結ばれた日のことを語り出す。

どうしてもタカネを諦めきれない木関は、ある日突然「手に入れる!!」と決心する。そして強引に自分のものにするつもりで、タカネのもとへ向かう。歩いているタカネの前に飛び出し、結婚を切りだそうとするが、しどろもどろになって言葉が出てこない。

すると、何も言う前に、タカネは木関の胸に飛び込んでくる。そして木関のアパートの部屋までついてくる。部屋に入ると、タカネは服を脱ぎだし、そのままベッドイン。(布団だが)

木関にとっての最大の奇跡とは、タカネが自ら抱かれにきたことだった。これを合理的に説明できるかと、郷里に詰め寄る木関。やっぱり自分が課長を殺したミラクルマンだと、顔を真っ赤にして叫ぶ。


ところが、その種明かしは、意外な人の口から語られる。今は木関の妻となったタカネが部屋に戻ってきて、その日のことを回想する。・・・その日は、課長に捨てられて、自棄になっていたのだ。後から思えば、課長に騙されていたことであった。

タカネの告白に、木関は怒りを爆発させる。そして、「くたばれ、課長!!」と大声を出す。「もう課長はくたばったじゃないか」と慰める郷里。課長は手癖が悪いことでも有名だったのだ。


タカネは泣き出して、いつの間にか嵐となっている中、家の外へと走り出る。追っていく木関。二人は大雨に打たれながらもみ合い、木関がタカネを引っぱたく。そして泣きながら木関はタカネを引き寄せ、二人は抱き合ってキスをする。

その様子を見ていた郷里は、「一応収まったらしい」と呟き、自分の役目が終わったということで、その場を離れることにする。


雨の中、駅へと走る郷里を、傘を持って木関が追ってくる。そして郷里に感謝の意を伝える。長い間の妄想からやっと解放されたという木関の表情は明るい。

二人は談笑しながら駅へと歩いて行く。最近電車が込むようになったという話題となる。複々線にするなどして増発しないと今のラッシュは解消しないが、それには土地買収問題が立ち塞がっている。

木関は、時々、自分の奇跡の力で自宅から会社までトンネルを掘って、電鉄会社に寄付してやろうと考えるという。はたまた、私鉄を自分で経営するのも面白いなどと。

そんな夢みたいな話をしていると、道路の脇の切り立った崖に、人が入れるくらいの穴が開いているのに気がつく木関。何だろうと中を覗いてみると、なんとその奥には巨大な空間が広がっている。それはどこまでも延々と続く、まるで地下鉄のトンネルのような地下空間であった。


翌日、会社の屋上。郷里は、木関が本当にミラクルマンだったのではないかと思うようになる。合理的に考えても、彼が奇跡を起こしたとしか思えないのである。

木関が自分たちが出ていると言って、新聞を持ってくる。木関が見つけたトンネルは、先史時代の巨大な遺跡であった。洪積世末リス・ヴェルム間氷期のものと推定されるという。

なお、洪積世末リス・ヴェルム間氷期は、武蔵野ローム層を形成した時代と言われており、何気に意味のある時代を持ち出している点にもご留意いただきたい。


郷里は、「あの遺跡は木関が作ったのではないか」と切り出すと、木関は「もう妄想からは解放された」と言って、聞く耳を持とうとしない。木関は晴れ晴れと語る。

「今最高にいい気分なんだ。いいなあ、普通の人間っていいなあ。常識の世界に安住できるのは素晴らしいなあ」

自分が奇跡を起こすミラクルマンだったと考えている時には、深く気落ちしていた木関だったが、そうではないと知ると、途端に肩の荷が降りて晴れやかな気持ちとなる。

単発のミラクルは嬉しいが、それが永続すると大いなるストレスとなるという皮肉・・。


さて、そんな木関の重責が解かれた姿を、天高い世界から見ている人たちがいる。神さまである。

「久しぶりの試みだったが・・・。奇跡の通じぬ世の中になったか」

神の嘆きである。「久しぶりの試み」とは、イエス・キリストなどを念頭に置いた発言であろう。かつて奇跡の人を人間界に送り込んだときとは異なり、現世では奇跡を間近にした人々も、奇跡を起こした当人さえもそれを信じなくなっているというのだ。

ここでさらにオマケ。神さまの愚痴を聞いた天使が言う。「神が選んだ相手が悪かった、信仰深い聖職者などを選ぶべきだった」と。

もう一人の天使が、その発言を注意する。「神の御業をあげつらってはならぬ」と。

神さまは言う。神も気まぐれを起こすものだと。そして、天使たちに向かって「信仰うすき者どもよ」と、天上界も信仰が薄くなってきたことを嘆くのであった。


木関と郷里。奇跡と合理。

奇跡のような信じられない出来事は、理屈で説明することができるのか、そうではないのか。そうした問いかけと共に、身に起こる奇跡を受け止め切れない人間の可笑しさを描く作品ではないかと思う。


世の中は不思議に満ちていたが、それは次々と科学的な理論が当てはめられ、謎は解明されていった。奇跡と呼ばれる事象も、全て合理的に説明されてしまう時代となった。

それに従って、奇跡を目の当たりにすることで生まれた信仰心も、人間から失われてしまっている。その余波は、天上界までも・・・。

謎が科学で解明されていくことにはワクワクを覚えるが、謎が残っている世の中もドキドキする。そんな風な藤子先生のメッセージを受け取れる名作である。



「SF短編」解説中。


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