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MONO NO AWAREはなぜメシを食うアルバムを作ったのか/『ザ・ビュッフェ』【ディスクレビュー】

メシを食う。何をするにしても、生命はその行為から逃れられない。根本的には生命維持の役割を持ちながら、五感を充足させる快楽物としての役割も果たす。そんな個人としての本能を満たすものでありつつ、時には食を共にする人との絆を確かめるような役割も果たすし、宴や儀式のようにより大きな存在へ捧げられる役割も果たす。

上の記事に書いたように、種々の表現やスタンスの表明としても食事は機能する。しかし食事はこうしたポジティブな事象だけを連想させるものではない。例えば摂食障害の人は食卓で“食べない”姿を見せることで隠したSOSを家族に知らせるし、度を越した量を押し込めるように食べることで抱えた気持ちを抑圧する”過食“だってある。

幸福を求めて集まっているけど、実際それが最高なのかよくわからない。それでいて何でも好きなものを食べれますっていう入口じゃないですか。(中略)でも入ってみたら結局環境に左右された選択しかできないっていうことを理解していく。

Mikiki インタビュー

ビュッフェってどうしようもないじゃないですか。供給側が用意したものからしか選べないし、知らない人と一緒のテーブルで食べなきゃいけない。でも楽しい。幸福で、ダサい。世界のありようのメタファーとして成立しているように感じました

オフィシャルインタビュー

MONO NO AWAREの5thアルバム『ザ・ビュッフェ』。そのタイトルについてソングライターの玉置周啓(Vo/Gt)は上のように語る。“食べ放題のようの多彩な音楽を揃えました”という安直なニュアンスに留まることなく、生きることの光も影も映し出す食事を通して人生と世界を描いた本作。以下、思いっきり平らげた後に記した覚書。


食べ営むこと

曲目からも分かる通り、本作には"食事"をテーマにした楽曲が多く収録されている。食事する行為、食事する場面を通し、その生き様や人生の輪郭がじんわりと浮かび上がってくるようなこれらの楽曲には本作の主題が仄めかされている。

アフリカンビートが小躍りを誘う「野菜もどうぞ」は題通り、野菜を勧める楽曲なのだがその理由は健康に良いからだの、ヴィーガンであれ、ということではなく《野菜は美味しいから食う》のであり、そこから《本は面白いから読む/眠たいから今は寝る》と続き、シンプルな喜びへ導くコミュニケーションの歌であることが分かる。

ピアノの音色が煌めく「88」には《トーストちょっと残してる/ここ数日どうしてか心がふたつ》というフレーズがある。残す、という行為が伝える内側の苦しさ。食卓に置かれているからこそ見えてくる痛み。家族の歌に留まらない、誰かと共に居られることの優しさへと繋がっていくこの描写もまた食事と人生を繋げるのだ。

「シナぷしゅ」の歌として春先に乳幼児を夢中にさせた「もうけもん」はミルクを吐き戻す赤ん坊の眼差しから幕を開ける。赤ちゃんの生命を維持する唯一のメシであるミルクを子が飲んでくれない親の焦り、その後も途切れることのない愛情と心配の日々を明るく包み込むようなこの楽曲は食べ営むことの光の側面を象徴している。


サイケデリックな「お察し身」は"宴"をテーマにした楽曲だがパーティ性は薄く、影がある。こんこんと酔いが巡り、心のタガが外れるような不穏さも同時に表現されている。察する、というコミュニケーションの高等技術を連想させるタイトルには、飲みの場だからこそ破綻してしまう関係性があることを暗に示しているようだ。

あたりまえ」で淡々と描かれるのはうまくいかないことや元に戻れないことも、悲しみも喜びも気まずさも可笑しさも"あたりまえ"と等価に受容するその姿だ。《あらゆる獲物は分け合いましょうか》と締め括られることでようやく見えてくる原始の時代より続く食事という行為の決死さと、分け合える温かみは人の根源に訴えかける。


食が映し出す人生。このテーマはアルバムの1曲目「同釜」が最も象徴的に示している。荘厳なコーラスを皮切りに、独特の節回しで押韻され続ける長文のリリック、そしてノイジーなドロップへ連なるというプログレッシブな構成で綴られるのは、まるで連想ゲームのように広がる食事と人生と世界 にまつわる一大絵巻である。

そしてシェフが俺たちの腹わたを捌く
お仲間はお腹周りで繋がると勘づく
チェーン店が破竹の勢いで広がると聞く
松屋あの世店でやっと会えた君と飯を食う

MONO NO AWARE「同釜」より

家族、友達、他人、仲間。飯と共に在る関係性をずらりと網羅しながら、宇宙空間や情報空間までも巻き込んでいく"食"の存在感を、最後に"松屋あの世店"なるキラーワードで鮮やかに別次元へと移行させてしまう。死してなお、飯を食うことで""との再会を祝おうとする宿命。あの世でも食券制だろうか、なんてことを考えてしまう。


どちらでもある場所

光と影、あの世とこの世。『ザ・ビュッフェ』において"食"が描き出すのは表と裏のどちらでもある。この両面性は、サウンド面を通しても表現されている。どんなにセンチメンタルな曲にもハッとするような変な箇所があるし、どんなに奇妙な曲にも沁みる部分がある。この"どちらでもある"という思考も本作を味わうスパイスになる。

玉置:寛容かつ不干渉な世界みたいな……結構書いたつもりだったんですけど全然社会に反映されている気がしないので、まだしばらくそれについて書くことになりそうだなって思います。

ぴあ「味見」インタビューより

本作で最古のシングル曲「味見」は食のメタファーを通して、種々の価値観と向き合いながら題通り味見していく姿勢を描く。自分にとって相容れないような考え方や、忌避したいことについても、最終的には《それもいいか》という言葉でそっと置いておく。寛容であり不干渉という距離感がどちらも存在している状態を保つのだ。

また昨年のシングル「風の向きが変わって」にもその意志は継承される。アルバムのリリース特番で語っていた"多様性はある、それは分かったからお前はどうする"というテーマを自らに向けて放ち生まれたようなこの楽曲においても主題となる"自転車"を《漕ぐも漕がぬも自由さ》というどちらでもある開かれた場所に置いてみせるのだ。


"どちらでもある場所"は時に人間関係においても開かれる。映画『パストライブス』に影響されたという「イニョン」は、縁という題材を基に《あんたとはまたどっかで会うわ》と開かれた可能性を示す。もしかするとそうだったかもしれない、というifの世界を見つめながら現在と共に在ることを肯定する成熟した思考と言えるだろう。

また制作スタイルそのものにも"どちらでもある"はある。「うれいらずたのぼー」は本作で唯一、ほぼセッションで出来上がった楽曲である。しかし、タイトルに漫画「ザ・キンクス」の第1話サブタイトルを引用することで、物憂げな情景描写からその先に待つカタルシスまでも表現。即興性と構築美、そのどちらもある楽曲なのだ。

ありのまま全てを懐かしがるうちに
宝物みたいな思い出ひとつずつ

忘れる

MONO NO AWARE「忘れる」より

アルバムも佳境。本作で随一のストレートさを持つ「忘れる」は、年を重ねる度に零れて落ちる記憶にまつわる歌だがその響きは晴れやかだ。忘れたとしても残り続けるニュアンスや、ありのままであることの難しさが、忘れたと思っていても忘れていない、忘れないと誓っていても忘れる、というどちらだってあり得ることを伝えるのだ。

そして最終曲「アングル」では世界の見え方、人生の在り方を自分の視座次第で如何様にも変えられることをそっと歌う。色んな考えを抱きしめては手放し、色んな人と出会い別れ、色んなことを覚えては忘れる。そんな何もかもがどちらでもある場所で“お前はどうする"というテーマを穏やかに問い直され、アルバムは幕を閉じるのだ。

食べてもいい。残してもいい。味を変えても変えなくてもいい。マナーはあるようで無い。何を同じ皿に乗せてもいい。有数の選択の中から掴み取ったそれは美味いのか、美味くできるのか、食べ尽くせるのか、食べ切れないのか。メシにも人生にも世界にも渦巻く”お前はどうする“という問いに向き合うヒントを共有するために、MONO NO AWAREはメシを食うアルバムを作ったのだろう。

と、ここまであれこれと述べては来たがこのアルバムはシンプルにゆらゆら揺れる心地よいグルーヴの音楽を趣向していることが重要だ。しかしこのようにあれこれ述べてしまう自分のことも見放しはしない。楽しくメシを食ってる最中につい何か考えこんでも、気持ち良く踊っている最中に涙が湧いてきても何ら問題はないと歌う。揺れる体、揺れる心とともに味わい尽くしたい傑作だ。


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