孤独への恐怖に気づいた夜
こんばんは
ハンサです
夜のお風呂タイムから髪を乾かすまでの過程で気づきや閃きがやってくることが多々あるのですが、みなさんはいかがですか?
わたしの場合
自分の内面について考え、物思いに耽るケースがほとんどですが
これから書くことも、昨夜ふと感じたことです。
こちらの記事で書いたように↓
noteとは別に
Amebaでもブログを書いています(こちらは実名・顔出し)
先日髪を切ったことを前回の記事で書きましたが
その件について、新たな気づきも含めた内容でアメブロ にも書いてみたのです
↑
この記事をFacebookにシェアしたところ
多くの人からコメントをいただいたのですが
なんというか、、、
わたしが本当に伝えたい真意は他の人にあまり伝わってない、と感じてしまうようなコメントが多くて
どう返信したらよいかを考えあぐねてしまい
いっそのことしばらく放っておくか、という感じ(^^;;
今はただ自分の感情と向き合っているところなのです。
以前のわたしなら
自分の気持ちをわかってくれないことへの怒りだとか、悲しみだとか
あるいは「分かるやつだけ分かればいい」というような上から目線的な諦めに似た感情といったものがやってきた
いや、今でも
「分かるやつだけ分かればいい」の気持ちはあるな!笑笑
あるけど、それほど強い感情でもない
その一方で
「こちらがもっと分かりやすい言葉で伝える必要があったかな」と思わないでもない…
そんなモヤモヤを感じた1日の終わり、湯船に浸かりながらいつものように自分と向き合っていた
気づいたのは
結局どうしてもわたしは
独りになるのが怖くて敏感になりすぎる
ということ
「こんなことを言って変に思われたらどうしよう」とか
「こんなことをして嫌われたらどうしよう」とか
「それで周りに誰もいなくなったらどうしよう」とか
多分、小学生になったあたりから
わたしの頭の中はいつもこんなふうで
独りになることに対する恐怖で
周囲の反応をバレーボールのレシーブの如く拾いまくることを覚えてしまったように思う
このnote以外の場でサニアスネーム「ハンサ」をいまだに名乗っていないことも、そこが理由だと自覚している
わたしが大学生の頃からオウム真理教が話題に上がるようになり(実際に事件が明るみになったのは社会人になってから)
あの一連の事件以降、当時を知る人なら誰もが宗教に対する負のイメージが大きくなったのではないだろうか。
OSHOはそういった類のものと全く違うし、そもそも宗教でもなく、ましてや教祖でもない
(ちなみに、サニアスネームをいただいたからといって請求書も何も来ないし、行動を制限されてもいない)
10年以上前にヨガインストラクターコースに通っていた時
“ヨガは宗教ではなく、宗教心を涵養するものだ”
と習ったけれど
OSHOもそれと同様なんだろう、と感覚的に理解しているつもりだ
(涵養=水が染み込むようにゆっくりと養い育てること)
そのようなことを理解できる人たちはともかく
精神世界に無関心な人たちからは例の団体と一緒に思われてしまうんじゃないか、と思ったり
今まで仲良くしていた人から避けられるんじゃないか、と思ったり
わたしは
自分の身に起きていないことを先回りしすぎて、ひたすら空気を読みすぎて
頭の中では饒舌なのに
現実にはどんな言葉で説明したらいいのか、と戸惑ってしまう
おそらく
「自分のことを理解してほしい」という気持ちが強すぎるのだ
ここまで書いてみて
自分のことをめんどくさい奴だなぁ、と思う(^^;;
でも、そんな自分に気づいたら
蓋をすることなく
スルーすることなく
自分を認めて
自分を許して
自分を愛して
それ以外の道はないのだ
Amebaの方でも
「怖さ」の続きをゆっくり綴っていこうと思う。
(半分以上のことは既にここで書いてしまったけれど)
テイクサニアスの話も避けて通れないし
これについても近いうちに書くことになるだろう
“存在”に見守られている自分をイメージしながら
“存在”に愛されている自分をイメージしながら
一歩、前へ
一歩、先へ
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