見出し画像

1人の“仏”は、傾く組織を支えられるのか?『酔象の流儀 朝倉盛衰記』感想

大河ドラマ『麒麟がくる』がクライマックスを迎えている。織田信長を下克上によって滅ぼした戦国武将・明智光秀を主役に据えた同ドラマは、残り2話となり本能寺の変に向けていよいよ盛り上がりを見せている。

信長が新たな時代を切り開く英傑と信じて従い続けてきた光秀は、ここにきてその信頼が大きく揺らぎ苦しんでいる。光秀同様に、同盟者である信長への信頼に疑問を抱く徳川家康。暴走する信長への懸念を強める正親町天皇。信長によって京から追放されながらも、その配下である光秀に親愛の情を抱き続ける室町幕府最後の将軍・足利義昭。これら重要人物との関係も絡まり合い、光秀が本能寺の変に至る道は着々と踏み固められているようだ。

主要出演者の突然の降板による撮り直しや、コロナ禍で撮影が中断するなど苦難の連続だった『麒麟がくる』。どのような結末を迎えるのか、とても楽しみだ。

戦国北陸の雄……のはずだが、いまひとつパッとしない朝倉家を描いた珍しい歴史小説

ところでここ最近、『麒麟』の影響で歴史熱が再燃し、歴史小説をいくつか読んだ。そのなかのひとつに『酔象の流儀 朝倉盛衰記』(赤神諒著)がある。サブタイトルにある通り、戦国時代の北陸の雄・越前朝倉家を描いた珍しい小説だ。

なぜ珍しいかというと、戦国時代において朝倉家は正直あまりパッとせず、小説やドラマの題材にはなりにくいためだ。史実通りと言えばそれまでだが、織田信長に敗北する「負け役」であることが多く、最後の当主・朝倉義景も戦国武将としてはいまひとつの人物として描かれがちだ。『麒麟』でもユースケ・サンタマリアがつかみどころのない朝倉義景を好演したものの、武将としての活躍が描かれたシーンは少なめだった。

そんな朝倉家だが、決して弱小勢力だったわけではない。室町幕府の名門の一族であり、本拠地である一乗谷は100年にわたり豊かに栄えた地方都市だった。その体制を盤石にしたのが、朝倉義景の少し前の世代にあたる英雄・朝倉宗滴。しかし圧倒的な軍事力で他国ににらみをきかせていた宗滴の死後、盤石に見えた朝倉家が傾き始める。その理由は家臣団の勢力争いであったり、当主である義景の凡庸さであったり、新たな大名の台頭であったりさまざまだ。

揺らぎ軋みをあげる朝倉家中にあって、唯一ぶれずに屋台骨を支え続けた重臣・山崎吉家がこの物語の主役である。タイトルにある「酔象」とは古い将棋に存在した駒で、成ると「太子」と呼ばれる駒になり、王将がとられても太子が存在する限り対局は続くルールだったという。つまり、トップが倒れても酔象(太子)が盤面にある限り、その陣営は負けていない、ということだ。イメージを重ねられた山崎吉家が、朝倉家においていかに重要人物だったかがわかる。

盤石に見える組織も、崩れるときはガラガラと……。

物語では朝倉宗滴が手ずから育成し、未来の朝倉家を担うと期待されていた「宗滴五将」と呼ばれる幹部たちの動向と内面が描かれる。そのうちの1人は、もちろん主人公である山崎吉家。5人の武将は儒教の五常になぞらえて「仁義礼智信」がそれぞれ割り振られ、吉家は五将の筆頭として「仁の将」と呼ばれる。

吉家以外の4人も、名将・朝倉宗滴の弟子であり未来を託された優秀な武将たちだが、残念ながら一枚岩というわけにもいかず、陰謀により五将同士が戦うことになったり、主家を裏切ったり、という展開が相次ぐ。そして織田信長の台頭を筆頭に他国の戦国武将からの外圧も強まり、朝倉家は徐々に疲弊し力を失っていく。

弱り衰え迷走していく朝倉家のなかにあって、山崎吉家はただ1人、常に朝倉家が生き残る術を模索し続ける。私情や私利私欲を優先して陰謀に走ったり、現実の見えていない主君への失望から離反の道を選ぶ登場人物が多いなか、自らの生き残りではなくあくまで朝倉家の存続を追い求める吉家の愚直さが光を放つ。

吉家がそのような生き方を貫いた理由は、人生の道を示してくれた恩人・宗滴に朝倉家を託されたというその1点のみだ。だからこそ、言われない濡れ衣により親友が追放されても、先を見通せない主君により献策がたびたび却下されても、身内の裏切りにも諦めず、朝倉を延命させるために奔走する。ガラガラと音を立て急速に崩れていく朝倉家を最後の最後まで支え続ける、山崎吉家の生き方は強い印象を残す。

現代社会にも通じる「どんな組織に身を置くか問題」

山崎吉家は軍略に優れた名将であると同時に、多くの人に慕われる人格者として描かれる。作中では「醜悪な人の世に、奥手な仏が間違って生まれ落ちた男」などとも表現されるほどだ。軍略があり、戦乱の世の先を見通す大局観もあり、主家への忠誠心もあり、部下にも慕われる仏のような人格者。そんな吉家が支えていてさえ、結局朝倉家は滅びてしまう。

その一方で、朝倉家を離反して織田家に投降した旧朝倉家臣たちは、身分を保証され生き延びる(生き延びた後に、またいろいろあった人が多いようだけれど……)。このあたりに、現代にも通じるポジション取りの難しさがあるように感じられる。どんなに忠義を尽くそうと、どんなにその個人が素晴らしい人物であろうと、身を置く組織が傾いていけば、最後には組織もろともに滅びてしまうのだ。

吉家が身を置く組織を間違ったとは思わない。同様に、朝倉家を離反した者たちが悪いとも思わない。それぞれの考えがあり、信じるものがあり、事情がある。これは現代の転職活動にも同じことが言えるだろう。所属する組織にどんなに先が見えないと思っても、とどまり支え続ける人が悪い、あるいは愚かだということはない。同時に、転職する人が悪いということにもならない。すべてはそれぞれの考えと、能力と、信条と、事情による。

組織論として『酔象の流儀』をとらえたとき、いちど崩れ始めた組織においては、吉家のような人物がいてもその崩壊を止められないという悲しさがにじむ。どんなに優秀で人格的に優れた人であっても、崩れていく組織に身を置いていた場合、その崩壊を止めることは相当に難しいのだろうと思う。これは現代であっても同じことが言えるだろう。

人格と能力を兼ね備えた名将・『麒麟』の光秀の決断はどうなる?

実は大河ドラマ『麒麟がくる』も、個人的には組織論として捉えてきたところがある。作中の明智十兵衛光秀は、美濃で過ごした青年時代から人格武力軍略を兼ね備え、主君の斎藤道三をはじめその子どもである斎藤高政・帰蝶からも頼りにされる。

誰からも人格と能力を信頼されるからこそ、利害の対立する複数の重要人物の間で板挟みになり、最終的に先が見通しにくい陣営・立場に身を置くということを『麒麟』の光秀は何度かやる。その結果、長くフリーランスのような立場で不遇をかこつこともあった。

自分の信条を曲げても大きな組織に身を置くのが良いのか、先に待つ滅びがわかっていたとしても恩義を胸に元いた組織に残るのが良いのか、それとも信条に従い主君に反旗を翻すのか。『麒麟』は平穏な世を目指す戦国武将たちの物語でありながら、激動の時代における個人と組織の物語でもあるように思う。

「酔象」山崎吉家をもってしても立て直せなかった朝倉家に思いをはせながら、『麒麟』の明智光秀が本能寺の変に至るまでにどのような決断をくだすのか、しっかり見届けたい。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?