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地獄に踏み入ったその先に/文筆家としての星野源

この1週間でもっとも世間の注目を集めたニュースといえば、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』の主演ペア、星野源と新垣結衣の結婚発表(正式な入籍はこれからとのこと)だろう。情報番組などでも大きく取り上げられ、街頭インタビューでは祝福の声にまじってロスを嘆く双方のファンの声も聞こえてきた。先の見えないコロナ禍で暗い雰囲気が漂いがちななか、久しぶりに明るいニュースを聞いた気がして、ささやかに祝福ムードのご相伴に預からせてもらった。

ニュースの主役の1人である星野源は、ミュージシャンや俳優など様々な分野で才能を発揮しており、そのうちのひとつに文筆家としての顔がある。エッセイストとして数冊の著書があり、自身のルーツや音楽活動、俳優としての活動、周囲の人々などの話題について語っている。

『蘇える変態』

なかでも2014年にソフトカバーの初版が刊行された『蘇える変態』は大変な名著だ。星野源(なぜかフルネームで書いてしまいがち)のキャリアのなかでも、おそらくトップクラスに忙しかったはずの2011~2013年に執筆された雑誌連載がベースになっている。

楽曲制作にフェス・ライブ・音楽番組等への出演、ドラマや映画の撮影……本人が「ものづくり地獄」と表現する仕事の充実ぶりと生みの苦しみが披露される一方で、文章の端々から明らかにオーバーワークの気配が感じられる。ドラマ撮影の傍ら睡眠時間を削って新曲を書く様子や、夏休みも取らずに働き続ける日々、なかなか歌詞が書けない自分自身を追い詰める姿。収録されているコラムのなかには、そのものずばり「疲れた」なんてタイトルもあったりする。文中の星野源の独白は次第に空元気の印象が強くなり、そして限界を迎えたであろう疲労はある日、決壊する。

星野源は2012年末、病に倒れる。病院に搬送され、くも膜下出血の診断を受け、手術を経て闘病生活に入る。本書後半ではこの闘病生活の様子が詳細に描かれているのだが、これがすさまじい。とにかく生々しく、痛々しく、胸に迫る。激痛や苦悩のなかで、それでも生きたいと願う本人の切実な思いが文章にそのまま切り取られている。生と死の実感にあふれた名文だ。

「体が生きようとしている。前からそうじゃないかとは思っていたが、やっぱり当たっていた。死ぬことよりも、生きようとすることの方が圧倒的に苦しいんだ。生きるということ自体が、苦痛と苦悩にまみれたけもの道を、強制的に歩く行為なのだ。(中略)
暗闇の中、喉から出てきた『地獄だこれ』というかすかなつぶやきが酸素マスクに充満する。地獄は死んだ後に訪れるわけじゃない。甘美な誘惑、綺麗ごと、そういったものにカモフラージュされて気付かないが、ここが、この世が既に地獄なのだ。私たちは既に地獄をガシガシ踏みしめながら、毎日を生きているのだ」(『蘇える変態』p134‐135)

『蘇える変態』の前半に詰め込まれた「ものづくり地獄」では、忙しく過ごしたくさんの人と関わりながらも、星野源が音楽や芝居に向き合う姿勢には孤独が感じられる。何かを生み出そうとするそのギリギリの局面では、やはり結局最後は1人きりだという諦念のような気配があった。

後半に置かれた闘病記で星野は、生きたまま踏み込んだ地獄で生と死に向き合い続けた。いち読者の勝手な印象かもしれないが、文章のタッチも前半とはやや変化があるように思う。星野はいちど退院した後、病気の再発が発覚し、再び闘病生活に入る。再入院後、2度目の手術を前にした心境として以下のように述べている。

「K先生の診察を終えたとき、『この人になら殺されてもいいな』と思った。もちろん、それは冗談ではなく、死というものを猛烈に身近に感じている状況での、真剣な想いだ。この先生ならどんな結果になっても後悔しないだろう、そしてたくさん笑わせてくれて、真っすぐ目を見て、『治す』と言ってくれた人を信じないで誰を信じるのか。心狭き自分は昔から、本当に信じられる人間などこの世にはいないと思っていたが、人を心から信じるということは、その相手の失敗をも受け入れられれば可能なのだ」(『蘇える変態』p156)

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『いのちの車窓から』

2017年に出版された星野源のエッセイに『いのちの車窓から』という本がある。病から復帰後の2014年から2017年にかけて、本の雑誌『ダ・ヴィンチ』に連載された文章を収録したものだ。この本でも音楽や俳優活動などについて述べられているのだが、『蘇える変態』とはまた違った印象を受ける。

パラパラ本をめくりながらその理由を考えると、ひとつ思い当たることがあった。『いのちの車窓から』には、星野源自身が魅力的だと感じた人々や、尊敬する先輩たちについてのコラムが『蘇える―』よりも多く収録されており、かつその語り口がそれまで以上に軽やかで柔らかいからではないか。

ともにバンドを組むベーシストのハマ・オカモト、尊敬する音楽家の細野晴臣、親交のある笑福亭鶴瓶、ドラマで共演した大泉洋や吉田羊。これらの人々の人物像が生き生きと描写されている。そして星野自身と彼らがどんなやり取りをし、星野にとって彼らのどんな点が魅力的なのかも説明されている。近い趣旨のコラムは『蘇える―』にもあったが、『いのちの車窓から』では、より肯定的に、より真っすぐに書かれているような印象を受ける。大病を経て地獄を見た星野が病からの回復後、周囲の人々に対してよりポジティブになったのではないか―と想像するのはうがちすぎだろうか。

ちなみに『いのちの車窓から』には、『逃げ恥』共演時の新垣結衣の魅力を語ったコラムも収められており(どストレートに「新垣結衣という人」というタイトル)、星野源は新垣の「普通さ」を絶賛していたりする。私自身は新垣結衣の大ファンというわけではないため、ロス状態には陥っていないが、1人の独身者として「結婚いいなあ」という素朴な羨望は感じる。

病に臥せり「この世が既に地獄なのだ」との境地に踏み入った星野源が、そこからの回復を経てますます活躍し、私生活のパートナーを得た。公式の結婚発表の声明に収まらなかった心情などを、ぜひいつか文章にしてほしい(野暮かもしれないが)。死の淵で実感した「この世は地獄」との思いは変わったのか、あるいは変わらずなのか。地獄を進み続けることで何か見えてきたものはあるのだろうか。

これから先、既婚者となった星野源が世の中に何を送り出すのか。それが歌なのか文章なのか、あるいはもっと別の何かなのかはわからない。ただなんとなく、これまでよりもさらに「いい」ものを世間に差し出してきそうな気がしている。そしてそのとき、自分はいまよりずっと「結婚いいなあ」としみじみ思ってしまいそうな予感がする。何はともあれ、ご結婚おめでとうございます!

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