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地元から逃げ切るなんて、私にはできなかった。|私が住む町の話。Vol.1

 「万博」という言葉を耳にすると、身体がぴくっと反応してしまう。

 2025年の大阪万博は、USJの先にある人工島「夢洲」で開催されるらしい。だけど、私にとっての大阪万博は、いつまで経っても太陽の塔が寂しそうに立っているあの公園のことなんだと思う。


 電車に揺られて30分。最寄駅の北千里から梅田までは、だいたいそれくらいかかる。直線距離ではそこまで遠くないのに。北千里と梅田をつなぐ阪急千里線には、各駅停車しか走っていない。なにもない。ことを逆手にとって売り出す町もある。羨ましい。私が生まれ育った町は、そんなイジリどころすらない、ほんとうになにもない町だった。

 「千里ニュータウンって、ええ名前やん。」

 と思っていた。ほんと、名前負けってこういうことを言うんだろうな。

 小さい頃は、いくつか遊び場があった。近所の公園はもちろん、少し足を伸ばせば万博記念公園があった。太陽の塔がムスッとした顔で寂しそうに立っている、あのめっちゃ大きい公園。小学校の遠足のうち、2回に1回は万博記念公園だった気がする。池ではザリガニ釣りができたし、ソラード(森の空中観察路)は涼しくて気持ちよかったし、日本庭園はただただ広かったし、太陽の塔はいつだってムスッとした顔をしていた。今では、外から来た友人が太陽の塔をSNSに載せていると、近所のおっちゃんがちやほやされているようで首筋がむずがゆくなる。

 中学生になると、地元での楽しみが減った気がした。万博は、あくまでも大きな公園でしかない。公園で遊ぶ中学生はあんまりいない。かといって、梅田に出るのはちょっとまだ抵抗があった。遠い(気がした)し、なんとなく怖いイメージもあった。たまに用事で行くことはあっても、心細くて早く帰りたいと思うくらい。だけど帰ったら帰ったで、地元とは違う香りを思い出して、憧れたりもした。北千里にもマクドやミスド、31アイスクリームなんかはあった。全て閉店した。楽しみといえば、塾帰りの井戸端会議。送迎バスから降りて、すぐ近くのマンションの下で集まって、ただただ駄弁る。それだけの毎日。それが一番楽しかった。

 高校生になった頃、とにかく地元から出たいという衝動に駆られた。通っていた高校は梅田の近くで、急激に都会との距離が近くなった。私は勉強と部活に専念していて、放課後に梅田で遊んだり、午前授業の日にはUSJに遊びに行っている同級生を羨ましそうに眺めていた。憧れが募っていく日々が続いた。電車で30分かかる地元に帰るのが嫌だった。デイリーヤマザキしかコンビニがない地元に帰るのが嫌だった。マクドもミスドも閉店する地元に帰るのが嫌だった。そんな地元に閉じこもっている小さな自分が嫌だった。私は京都の大学を受験して、卒業後は逃げるように千里ニュータウンを後にした(関西から飛び出すほどの勇気がないのが、なんとも自分らしくて泣けてくる)。

 そこから、6年が経った。私は、社会人2年目の終わりに差し掛かっていた。大学時代を京都で過ごした後、大阪の会社に就職した。地元ではなく、大阪市内で一人暮らしをするようになった。毎日毎日、慣れない仕事に明け暮れていた。いつからか、仕事への愚痴を言う回数が増えていった。「体調、大丈夫?」と聞かれたり、周りに心配されることが増えてきた。「なんでもない。」とだけ返して、何も気づいていないふりをした。

 ある日突然、仕事ができなくなった。

 ベッドから出られず一歩も動けなくなった。お風呂に入ることすらめんどうで、軽食を摂ることすらめんどうで、何もしない日が続いた。仕事は休職するしかなかった。私は逃げるように一人暮らしの部屋を後にして、実家に帰ることにした。

 帰ってきた北千里駅。中身以上に重たいスーツケースを引きずって、実家に向かう。道の途中で上り坂に差し掛かり、何気なく空を見上げてみた。広かった。空が広かった。ただ空が広かった。ただの空なのに、見たことないくらい広かった。空が広いだけなのに、蛇口をひねったかのように涙が溢れてきた。その頃の私は常に何か悩んでいて、家からも出ない日が続いていた。知らず知らずのうちに、視界が狭くなっていたのかもしれない。久々に見上げた空だったからか、それとも北千里の空がほんとうに広いのかはわからないけど、張り詰めていたなにかがスッと緩んだことはわかった。それくらい広くて、優しい空だった。

 優しかったのは空だけじゃない。事情を知った中学の同級生は、すぐに予定を合わせて話を聞いてくれた。あの塾帰りのメンバーだ。地元のレストランで久々に会った友人たちは、「無理に話さなくていいよ」と言って、ひたすらあの頃の話をしてくれた。地元はたいして変わっていなかったし、地元の友人も大して変わっていなかったけど、それでよかった。それがよかった。帰り際、友人に「でも、思ったより大丈夫そうでよかった。中学の頃と全然変わってないし。」と言われた。なんや、私もいっしょやん。

 なにもない地元、千里ニュータウンが嫌いだった。自由を求めて外へ出ていこうと思った。このまま帰らなくてもいいと思っていた。でも、私が地元を出るときに買ったのは、片道切符じゃなくて往復切符だった。捨て去ることなんてできない運命だったんだと思う。今でも地元がいい町なのかはわからない。なにもないのは、ほんまにそうやし。でも私は、この町で育って、この町に思い出があって、この町に住んでいる人を愛していて、この町を愛していて。それだけで、もう、十分だと思えるようになった。


※雑誌『POPEYE』で連載されていた『僕が住む町の話。』のパロディとして、このnoteを書きました。好きな企画が最近更新されていなかったので、僭越ながら続きとして。



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