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自由を得たらなら同時に責任を持て。

さ、この2日ほどイマイチな精神状況でした。
なかなかショッキングなニュースでしたからね。
決して許されるものではありませんが、
だからといってイマイチな精神状況のままに
過ごすわけには行きません。

今回の痛ましい事件から考える
自由について書いてみようと思います。
タイトルのままなのですが。。。

少し僕の話をしますと、
僕が通っていた高校には制服がありませんでした。
制服がない=自由であるかわりに、
自分の服装に責任を持てということでした。
服装に責任?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、
簡単にいうと、「ダサく思われてもお前のせいだ」です。
それが嫌なら、基準服を来てこいという話。

制服ではないが基準服としていわゆる制服(学ラン)はありました。

すごく半径の狭い場所ではあるのですが、
僕はこの時に、なんとなく自由と責任の関係について
学んだ感じを持っています。

自由にできるということはすべての行動や言動に
責任を持たなければならないということを
服装という小さなところから学んだ気がします。

これは、責任を取るのではなく、責任を持つということです。

どこかこれが混同しているようにも思いますので、
もう一度改めて言いますが、
自由を得るということは責任を持つということです。

さて、今回痛ましい事件が起きました。
各所メディアやSNSやらでは、いろんな発言が発生しています。
そこには、「言論の自由」という
大義名分による行動が行われています。

ただ、少し気になるのは、
「言論の自由」と銘打っておきながら
「そこに責任はあるのか?」という部分です。

先ほどから言うように、
自由には責任がついて回ります。

言論の自由ということは
言論に責任を持てるのか?というところを追求しないといけません。

ここでもう一度責任を持つと責任を取るの違いを
意識しないといけません。

責任を取ると言うのは、
過去のもの、過去に起こった事象に対して
行われるものです。

責任を持つと言うのは、
現在進行形、もしくはその瞬間のものに対してです。

今、「言論の自由」という名の下ではあるが
責任を持つという意識が薄れているようにも感じます。

責任の持てない自由は、
ただのわがままです。

いい大人のわがままほど厄介なものはありません。
今日は選挙が行われており、
さまざまなメディアで、先生と言われる方々が
そしてさまざまなメディアが、「言論の自由」の名の下に
多くの発言をされますが、
果たして、責任を持った発言がされているのか。。。
気になるところです。

そして、子供たちがそんな大人をみています。
そう大人の僕らはある意味子供たちに監視されているのです。
みられているのです。

自由と責任をきちんと教えることができる
見せることができる大人でいたいものだと思います。


もっと言えば、
責任を持てないメディアだから、
何かに管理されているのではないか?とも思うわけです。

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