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サーカスの「平らな目線」が私を救った理由。(その③)

フランス、マグレブ、そしてサーカスへ。

フランス留学で「人種差別」について深く考えさせられ、…マグレブ諸国(北アフリカ、チュニジア、モロッコなどの国々)からの移民とはどういう人たちかを良く知らないまま、「人種差別を受けているけれど、アジア人のほうが、マグレブの人たちよりはまだ、ヨーロッパで受け入れられている」という、今から思えばわけのわからない「誰々よりはまし」という思考に冒されていた留学時代のあと、
「まてよ、おかしい…」
と、自分自身の思考を激しく疑問視し始める20歳代終盤。

2000年は、自分にとってエポックメイキングだった。
すでに新聞社勤めだったけれど、なにかに急き立てられるように、いろいろとチャレンジをした年。
北海道の「全道フランス語コンクール」への挑戦は、結果、その後の人生を大きく変えることになった。
なにしろそのコンクールは、自分が勤めていた新聞社とフランス大使館共催で、社員であることがばれたら、審査対象になれるかもわからないので、社員である身分を隠して応募。
その後の準備は、北海道大学の大学院にいたモロッコやチュニジアの博士課程の大学院生たちと仲良くなり、彼らがスパルタ式に鍛えてくれた。今思えば頭のおかしい人みたいだけど、カフェで滔々とフランス語で演説を始めたり(スパルタ教育のワンシーン!このカフェで人目を気にせずできたら、コンクールで演説するなんて楽々よ!と博士課程のチュニジア人に言われてやった)、トイレに行くたび、鏡に映った自分に向かって演説したり!

その結果、優勝を果たす。

優勝のご褒美は、パリでの2週間の研修。

この研修で、やることは決めていた。
遡ること5年前の留学時代に、勝手に「その人たちより上」と自分が決めてかかっていた、パリの移民たちの生活圏に入っていくこと。

心は決まっていたので、パリに行くのに、直、マグレブ(モロッコ、チュニジアなど)の人たちの集まる界隈に通う。
その頃から、アラビア語を学び始める。
学生時代にゴシック建築の教授が言った、「チュニジアの『ケロアンのモスク』」に、猛烈に行きたくなる。

かくて、フランス語研修のご褒美は、フランス人に交わることなく、パリの北アフリカの移民地区で過ごすことになる。

チュニジアへ。

そうなると、もう止まらないので、その2年後くらい?には、単独、チュニジアに旅立つ。
憧れの、「ケロアンのモスク」を訪ねるために。
とはいえ、女一人旅でチュニジア、まぁ普通に常識もあるので、実はガタブルである。
ガタブルだけど、どうしても行かねばならなかった。
ひとり、チュニジアの空港に降り立った時には、もう周囲は見えない。
決めた進路、決めた方法だけにまっしぐら。

かくして、ケロアンまでたどり着く。
土と砂、砂漠の薔薇といわれるものー。駱駝のにおい。

首都・チュニスに戻ると、パリ風のカフェが連なっているが、カフェにいるのは男性だけ。
男、男、男、しかいない。
イスラム諸国にあって比較的オープンといわれたチュニスでも、大きなカルチャーショックを覚える。

しかし最もショッキングだったのは、やはりフランスだったのである。
チュニジアから戻り、フランスに再入国というとき、パスポートを取り上げられ、審査の別部屋に連れていかれる。

頭は真っ白。
まわりは、みたところアフリカ系の、合法か非合法の人々で溢れている。
私はその中に連れていかれ、どれだけ待てばその部屋から出られるかも知らされず、
恐怖というのはこういうことだった。
時間にすれば15分にも満たなかったのだろうけれど、終わりがいつかわからないとき、その時間は無限だった。

やっぱり、やっぱり、差別の国だ!…もとのもくあみ。

その時の心理はやっぱり、こうなってしまった。
わざわざ、チュニジアに一人でいって、怪しまれて、入国管理局で別の部屋に連れていかれる。
もちろん非合法のことはしていないので、そこに連れていかれる「合法的」理由は何もないはずだけど、とにかく、そういうことになる。

ああ、青い、青い自分よ、今ならそう言えるけど、
人種差別との心の闘いは、自分なりに深かった。
どうしても、乗り越えなきゃいけないのに、さらに溝は深まってしまう。

(④につづく。大丈夫、救いがある。)


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