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海外でバリバリ仕事するのが生きがいだった私が「これからは2回に1回しか飛ばない」と決めた理由。①

(この記事は①と②の2回にわけて掲載します)

飛ぶことが目的になっていた

「現代サーカス」という単語すら、まだふわふわとして有るのか無いのかわからない日本で(2000年代は確実に無かったけど!)、安定した会社を辞めて「サーカスの専門家になる!」と決めてしまった2007年から、とにかく本場の海外で学ばなくては!と飛びまくってきた十数年。

会社の看板を背負いながら大きな予算で海外カンパニーを招聘できた時代が終わり、まっさらで収入もない、後ろ盾もない自分になったのが38歳で、そもそも運命の仕事に出会うのが、一般的には遅かった、といえるでしょう。

遅いか早いかは個人差もあるけど、なにより宿命というか、出会ったこと自体がものすごい贈り物だと思っているので、それについては文句はありません(笑)。

ただ、ヨーロッパの現代サーカス市場(なかなか巨大です)に足を踏み入れると、自分がどれほど遅れをとっているか、日々叩きのめされていて。

年齢もそこそこ、個人としての実績ゼロ(現代サーカスの専門書を出版するという企画書だけを携えて)、フランスについて見よう見まねで名刺をつくり、現代サーカスがそのような仕組みでつくられ、発表され、アーティストやスタッフは生きているのか?

「生」であることの重要性を標榜する文化でもあり、当時はまだインターネット上の情報など今の100万分の1くらいで、現代サーカスを取り巻く社会システム全体を理解するのには、草の根で人に出会い、キーマンを紹介してもらい、出会い、紹介してもらい…を繰り返すしかありませんでした。

なので、2009年に現代サーカス専門書を出版してからもしばらく、「学ばせてもらう」「参加させてもらう」という意識は抜けず。また、成熟した市場に刺さり込むには、1つの機会も逃しちゃいけない!と、たとえ旅費が十分に出なくても、もちろんギャラが出なくても、参加して存在を知ってもらうことだけで大きな意味があると思っていました。

コロナ禍が訪れて、引きでみたとき、自分の会議参加は準備不足で、クオリティも下がっていた。

2004年に現代サーカスの仕事を始めて以来の15年以上で、アジアの中の地勢図も大きく変わりました。

2012年くらいまでは「アジアというエキゾチックな地域で孤軍奮闘する日本人」として、ヨーロッパの国際会議に呼ばれていくと、何を語っても、皆が大きな目を見開いて感心して「勇気あるチャレンジにブラボー!」と拍手をされました。

そのうちアジアにも、現代サーカスに首都や国が大規模な予算を計上して取り組む国が現れ始め(台湾や韓国など)、そうしたプロジェクトの前には、途中から法人化したとはいえ、個人で始めた自分の活動はカタツムリのように小さくのろのろしているように感じました。

だからこそ、足繁く国際会議に通い、存在感と活動をアピールしなければならないと必死になっていたのです。

文化公共機関の人たちのようにお給料で生活が保証されているわけでもないのに、活動について語って欲しいと言われれば、たとえ1ヶ月後に10000キロの旅でもいとわず旅立つ。もちろん、その間は、補助があったとしても経済的には大きな赤字。

何よりも、バタバタの中で準備も足りていないなか旅立つから、プレゼンやミーティングでの発表や発言の質は下がる。いや、正確にいえば下がっているわけではないのだが、周囲のアジアのプロたちが皆優秀で活動の規模、質ともに素晴らしいので、もっともっと努力しなければならないのに、焦るあまりに「そこに出席していること」に必死になっていたのです。

コロナ禍で地球上あまねく人間が動けなくなり、立ち止まったときに、ようやくそのことに気づきました。

(②につづく)

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