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仕事の向き不向きって結局なんなの?

この記事は、自分にとって向いている仕事を、具体的かつ分解して考えることで、仕事探しについての余計な消耗を減らす目的で書かれています。

1.働いていると死にたくなる理由

何の仕事をしても組織にいる時点で息が苦しくなるというのが私の現状で、それゆえ、労働が究極に苦痛でストレスな行事となっている。労働に縛られたくないことも子供を持たない大きな理由の一つであり、生活を生贄にとられるような人生が恐ろしく、無理であるという観念が強い。

2.誰からも監視・干渉・支配されたくない

同じく子供がほしくない理由として、子供時代を間接的にもやりなおしたくないというのも前に記事に書いた通り。子供時代を絶対にやり直したくないのも、この時間的物理的束縛から逃れたいことが理由だ。極少数の対人折衝だけで普通に生活することが許されていた大学時代と、自由が許されていた就労以降の一部の時代を除き、基本的には誰かの支配下・監視下で生きなければならなかった。普通の人なら普通に楽しめる学生時代・青春時代が、私にとっては「強いられる時間」だったのである。これは私自身の異常性からきているのであり、だからこそ、私は他人から「異常者」だと揶揄されることに憤りを感じない。

3.生老病死ではなく、生労働死である

「帰りたい」が口癖だったことをふと思い出す。なぜ帰りたいのかというと、自由になりたいからだ。趣味、家事、副業、勉強など、やらされることじゃなくて自分がやりたいことに時間を使いたいからだ。別に目の前のことがサボりたいから帰りたいとか、怠惰な時間を過ごしたいわけではないのだ。その証拠に私はダラダラとテレビやYouTubeを見ることがまったくないし、常にパソコンで何か文字を打ったり動画を編集したりしている。最近はダラダラと酒を飲んでストレス発散!みたいなものもしなくなった。ストレス自体を減らさないと意味がないと思うからだ。

4.やりたい仕事はとても単純だった

だから何なのかという話だが、こういう性格の人間に向いている仕事っていうのは「終われば解放される仕事」なんじゃないのかなということ。私が家事が好きなのは、目的と成果物が果たされればその作業が終わるからだと思う。自由を獲得するというインセンティブが働くから、一生懸命やろうとするし、一生懸命やろうとするから好きになり、洗剤を比較したり、料理のレパートリーが増えていく。「終わりがあるから頑張れる」ことが重要だ。卒業や修了、季節の変わり目が好きなのも、次が待っているという期待以上に、今あるものが「終わり」「完成」「解放」へと収束していくことにあるのだろうと思う。前に進むことに希望を持てる場面、前に進むことに意味がある活動が「私がやりたい仕事」なのだろう。

逆に、私が嫌いなのは、「時間で拘束される活動」のすべてである。予め時間と場所だけ決まっていて、そこにいることや参加することに意味があるとされるものだ。祭りも会議も行事も式典も大嫌いなのはそれである。目的を果たすという明確な時間の役割がないからだ。親しい人と雑談したり会ったりするならともかく、赤の他人、社会関係・利害関係に囚われた関係性でそれに膨大な時間を費やすことが苦手だ。好きになれない。目的がありそれに向かってひたすら夢中になることだけが私の楽しみであり、それ以外のことで他人を採点したり粗を探したり、特定の人間の我儘や満足を叶えるために忖度することが好きではない。立場の強弱で人に気を遣ったり遣われたりすることも、誰かにおもてなしをされることも私は嫌いだ。自分のことは全部自分でやりたいし、他の誰にもその世話をされたくない。自分自身が前に進んでいる感覚を伴わないからだ。

5.ママゴトを続けるために子供を増やすのか

世の中にある仕事は何パターンもあるだろうが、必要に迫られて仕事があるものと、仕事をすることが目的になっているから存在する仕事、この2種類に分類できると思っている。ほとんどの仕事がこれにわけられる。必要や欠乏を満たすことが仕事であり、そうじゃないものはただのママゴトだと思っている。ママゴトに参加するなら死んだほうがマシだし、ママゴトに参加させられるために子供を増やすのだとしたら、私は二度とこの世界に人間として生まれてきたいとは思わない。人間に生まれる意味がないからだ。気分屋の上司や先輩の相手をするのなら、無機質なロボットを相手にしている方が数億倍幸せだし、私自身も能力で選別され、人間として生きる資格を剥奪されるのであれば、潔く死ぬことを選ぶだろうと思う。

6.幸福は、不幸を除去した先にある

それくらい、人間の感情の発散に付き合うこと、それが生活の手段であることが恥ずかしく、生まれてきたことを後悔するに値する。これを死ぬまでに修正し、生まれてきてよかったと、意味がある人生だと心底思えるようになることが、私の余生の課題なのだろうと思う。これを叶える労働が私の望む労働なのだと思う。

私は自分が働いていることが最も恥ずかしい。価値のないもので生計を立てていることが恥ずかしい。生産性がない活動をしているにも関わらず、ただ我慢しているだけで、一般人の称号を与えられて市民権が与えられているかのような立ち位置を得ることが、虚しさの極みである。

7.今から何をすればよいのか

自分で作ったものを誇らしげに、楽しそうに、他人に提供できる商売をする人の表情は眩しかった。雇われや組織人には一生手に入らないだろう本物の人間性を強く感じた。精神が生きているとはまさにこのことなのだろう。この感覚を手に入れることを諦めたくない。不貞腐れて人生を諦めるのは私は嫌なのだ。どうせ生まれてしまったのだから、存分に楽しんで死んでやろうと思っている。

終わることを目的にする仕事は何があるだろう。成果物主義を導入できそうな分野は少なくない。たとえば教育、習得した人間からどんどん卒業させたり飛び級させるようにすれば、短時間でできることに価値が置かれるようになるだろうし、結局は在籍主義、そこに決められた時間コミットすることが重視されるから、どんどん非効率になる。それができる分野はなんだろう。クラウドワークスのような成果物納品主義の仕事だろうか。

8.やりたい仕事は正社員求人にはない

正社員で求人を探していると、苦しむことの対価を貰う仕事しかないし、自分の人生に関係のないどうでもいいことを頑張らないといけない仕事しかないから、私の性格と能力では、どこに行っても苦痛は消えないことになる。タスクをこなすだけのタイプの仕事は正社員求人にはほぼ存在しないし、どんな仕事でも、最後はローカルルールやそこに特有の会社文化、社内政治、人間ママゴトが待っている。

非正規でも生きていけるように、副業をあれこれやったり、子供を持たない選択をしたわけだが、それでも最後は周りの眼という厄介なものがつきまとう。周りの眼を気にするのは自分の責任だが、仮に私が天涯孤独だったら即正社員なんて辞めていることを考えると、会社という安定環境で我慢するのが人生の正解だと捉える人が、身内でさえも多数派なことに気づく。

そうなると、私の苦悩や幸福感など誰にも理解されないことになるわけだ。だから、内面に秘めてコツコツと解放の瞬間に向けて進むしかないことになるのだろうか。間違いなく早期退職できる貯金はしているが、5年後に死ぬかもしれないのに、やりたくないことを人生の大半にすることを何年も続けることに疑問を覚える。

9.まとめ

私がやりたい仕事をパーツに分解するとこうなるのだろう。

  1. 終わらせること、完成させることが目的である仕事

  2. タスク以外のことで束縛されない仕事

  3. 存在する意味があると思える仕事

この分析を未成年の頃にやっておけばよかったという話である。逆にこの仕事に奇跡的に出会うことができれば、労働で精神を消耗することが一切なくなり、究極の幸福に近づくことができるのだろう。どんな贅沢や社会的地位よりも、邪魔が入らないことが私にとって最高の幸福なのだ。他人の承認など一切いらないから、放っておいてくれること、危害を加えられないことだけを望んでいる。欲張りな人間が多い中、たったこれだけを望んでいるだけなのに、なぜ叶わないのか。人生は険しいと感じる。

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