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泣きたいのならば観葉植物を買え

又吉の『東京百景』を読んでいる。

展開で読者を釘付けにする本が好きな私が、初めてこんなにもエッセイ混じりの小話集に夢中になった。

図書館で借りた昨日から、貪るように読んでいる。


そんな本の、後半あたり。とある小話で、泣き出してしまった。嗚呼、今は風船が破れやすいのはわかっていたのに、まったくもう。


メンタルが落ち込んで、自堕落な生活を送って、金がない著者が、そんな日々の中で出会った、カラフルな服を着た好きな女の子との話。

読んでいて、ほろ苦い気持ちになって、泣いてしまった。


そこから、こんなにすぐ泣くのはいつからかと思い返した。たしか、9月か10月ごろ。大して面白くない映画の冒頭の、主人公の回想シーンで親が死ぬところ。旦那に「え?こんな子供騙しのつまんない映画の冒頭10分で泣くの?」とドン引きされそうになった、あのとき。

思えば、あのときあたりから、すでに私はおかしかったのかもしれない、と思った。親が死ぬ描写に、過敏に反応していた。


キャパオーバーは、介護のタスク量からきているとおもってた。

でも、親が弱ること。親との関係性。割り切れるところと割り切れないところ。許せるところと許せないところ。その判断軸。いろんなものが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、私をこんなふうにさせてるのかもしれない。

泣き始めると止まらなくて、「だれか、私はこんなにも繊細なの。こんなにも苦しんでるの。こんなに、すぐに、風船が、割れてしまうの。だれか、聞いて。」と声を殺して泣いた。悲劇の女王だった。

そのあと、旦那への申し訳なさで泣いた。旦那は、私と私の親の負担を考えて、引っ越してくれた。旦那は「私が幸せになることが、幸せだ。なぜなら、引っ越した元が取れるからだ。」と言っていた。優しさの根拠に合理性が垣間見えるところが、旦那らしくて良いと思った。

そんな旦那に、幸せになれなくてごめん、と泣いた。迷惑かけてごめん。旦那の日々の大変な話も起こった出来事も、共有されるキャパがなくてごめん。何も受け止める余裕を持たなくてごめん。


そして、とうとう、自分の中の悲劇が止まらなくなった。自分の中で、アナと雪の女王のエルサが、大声で手を広げてサビを歌い始めた。

声を出して号泣した。


旦那は、どうしたの?と、頭をぽんぽんしてくれた。

いや、だからそれが申し訳ないんだってばー、という、謎の苛立ちすら感じた。


口に出して、説明してみた。
「多分、"そんなこと言うなら泣くなよ、矛盾してるぞ"って思われそうだけど。にゃんに迷惑かけてることが嫌なの。」

言葉になって、それが音として耳に入ると、あまりの矛盾に、さすがに照れ笑いしてしまった。だったら泣かなければいいからだ。

旦那も笑ってしまっていた。「そうなの。」と旦那らしい、肯定でも否定でもない、相槌をしていた。


「こうやって、時間をとってもらうのも、にゃんの時間を取っていて申し訳ないと思うし。にゃんにどれだけ、負担をかけてるかは知らないけど。少なくとも、今までに比べて、にゃんは自分の悩みとか、はなしづらいだろうし。こうやって私が話すことで、また話しづらくなるだろうし。」

「今まで精神的には対等に支えあってきたのに、今、どっと私を支える役になって。それが申し訳ないの。」

「でも、私、こういう気持ち、誰かに話さないと、言葉にして整理しないと、やってられないの。」

「とはいえ、にゃんにずっと私の話を受け止めさせてると、私が介護でしんどくなったように、多分にゃんもしんどくなると思うの。私は、それによって、にゃんに嫌われるのが嫌なの。」

「誰に、こういう心のうち、だらだらと喋れるんだろう。」


そのあとの流れはこうだ。さすが旦那だ。

「お医者さんに話せば?」

「あとは、ココナラとかで1分100円とかでひたすら話聞いてもらうのもあるよ?」

「でもココナラで話すくらいなら、にゃんに3つくらい観葉植物買って。それでにゃんに話して。」


ということで、私たちは明日、観葉植物を買いに行く。にゃんはずっと、私の話を聞かされる。どうもありがとう。


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