好きとか嫌いとか学びとか
大きな変化がある時期というのは、一つの時間の中に色々なことが凝縮されている可能性が高いわけで、何かを学ぼうとする姿勢でいるものにとってはその材料に満ち溢れているのかもしれない。
このように無責任に、いつものごとく取り留めもないようなリズムで考えとも呼べないようなものを頭の中に走らせてはみたものの、なかなかそのことを検証しようという気すら起きない。
なぜそう無責任でいるかといえば、果たしてそうだろうか、な部分が多すぎるわけである。
つまり、特に凝縮された時間を感じていなくともその時はその時なりの学びがあるわけで、そしてもっと言えば学ぼうとすらしていない人だからこそタナボタ的に得られる学びも多かれ少なかれあるだろうし、何かを定義づけることを最近はやりのエビデンスとやらをすっ飛ばして容易にするものではないという思いがあるのである。
学び、というのは知識や知恵を得ること、のほかに、得た知識や知恵を実践や実体験によってしっかりと己に染み込ませるという要素がとても肝心だと思っている。
嫌いなことは上達しない。これが最近僕がつくづく感じた学びである。もちろんそんなことは改めて誰に言われることもなく理解していたのだけれども、実際に目の当たりにする、体験する、となると驚くほど顕著にそのことが現れる。
その逆に好きならば必ず上達する、という理屈が成り立つかどうかは別として、嫌々する練習や訓練、学習などに上達は殆ど見込めない。
かといって好きになろうとして好きになれるものでもない。感情のコントロールほど難しいものはそうそうない。
しかし、工夫は有用である。嫌いだからと言っても、しなければならないこと、上達せざるを得ないものというのは存在する。何とも世知辛い。ひょっとして自分はそれのことを嫌いではないのではないかというくらい気持ちを誤魔化せるテクニックを身に付ける努力くらいはしても罰は当たらないのかもしれない。それも大方徒労に終わるわけだけれども、諦めたらそこで試合終了ですよ、とある偉い先生の名言がある。
ただ、嫌いなことというのは、それを克服するとそれまでとは打って変わって、「嫌いではなくなる」を通り越して「好き」に変わることが大いにある。
取っ掛かりの時点で嫌いと突っぱねてしまわないこともその先の人生を生きやすくする技なのかもしれない。
おわり。
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