セレンディピティ

セレンディピティっぽい。文章においてそのように感じてもらえるようになるとnoteを始め…

セレンディピティ

セレンディピティっぽい。文章においてそのように感じてもらえるようになるとnoteを始めた意味がはっきりとしてくるのかなと思います。一応ノーコンテンツというジャンルであると認識していただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

最近の記事

おだやかに、皐月

 特に尖りたいという欲が強い方ではないと僕自身は思っているのだけれど、結果的に大いに他人と違うことをしていたり、それも自覚しているのだからよくわからない。  この書き出しの説明が必要な気がするのでそこから始めよう。  今月の振り返りをしようとPCを立ち上げながら、先月に一か月を振り返る記事を書いてからもう一月経ったんだなあと感じたのがあまりにも月並みな感じがしたので恥ずかしさすら覚えたという次第なのである。  だからと言って他人からありきたりだと揶揄されることにそれほど抵抗

    • バランス

       思考の癖のことを考えることが割とよくある。  思考の癖というものには、思考の傾向とか好き嫌いなども大いに含まれると思う。  僕が何かについて考えるときには、特に、バランス、ということに配慮する癖があるようだ。何年か前に、あなたはしきりにバランスバランスというよね、と指摘されたことがある。  指摘とは言ってもそんなにネガティブなものではなくて、僕の癖を教えてもらったというようなニュアンスだった。  ああ、そういえばそうかもな。うん、おそらくそうだろうな。とかなり素直に納得

      • 昨日の僕、今日の僕、明日の僕

         形から入るタイプ、というそこそこありがちであろうと思われるタイプにご多分に漏れず小さい頃から僕も属していると思っている。  このタイプに属する者にとって、なりたい自分についてのイメージは随分偏りがちになるのではないだろうか。  なりたい自分の輪郭がはっきりしすぎるきらいがあるのではないかと思う。  僕は稼業の跡取りとしての将来が決まっていたし、今に至るまでそのことに疑問も不満も持ったことがない。  言いようによっては、敷かれたレール、や、他人に決められた人生のように揶揄さ

        • 予定変更の極意のさわりの部分

           それなりに歳を重ねると思い通りにいかないことなんて山ほどあることを体が覚える。などと何か達観したようなことを書いてみるが、そんな風に思えるようになったのはつい最近のように思う。    思い通りにいかない、というよりも上手に予防線を張ることを無意識にやっているのかもしれない。  期待しない、と言い換えることもできるだろうか。  若い頃には、期待しない、という言葉はどこか諦めたような腐ったような考えに感じただろう。でもそうではないのだということにもいつしか気付けている。  ある

        おだやかに、皐月

          今日は何を書こっかなあ

           何やら気まぐれで適当なハッシュタグを選んで、今こんな気分、てなことを書きだそうとしているのだけれど、実にどんな気分でもない。  厳密にいえばどんな気分でもない、というような気分なのであって、おそらく本当の意味での「どんな気分でもない」などというようなことにはなりようがないのではないかと推測する。  今日も今日とて狂おしいほどの屁理屈っぷりであると思うのだが、屁理屈も立派な理屈であると僕は割と常々思っている。  屁理屈に「立派」という評価をするあたりは実に何かに対してすれすれ

          今日は何を書こっかなあ

          風呂上がりの汗ばんだ時間に

           極力何も起こらない。なるべく少ない変化であってほしい。  無意識にそんな風に考えていることが多いように思う。    表現が極端になったせいで誤解を招くのは良くないから付け加えると、急激な変化の中に野蛮味を感じることが多くあるのだ。  もちろん何も起こらない人生など面白くもないものだろうという程度の感覚は存分に持ち合わせている。けれど変化に伴って生じる摩擦のようなものに少しだけ胸が騒いでしまうのである。  思考を文字に起こすという作業は、その輪郭がはっきりとしてくるという利

          風呂上がりの汗ばんだ時間に

          自動車と自転車と映画館

           今日という日は愛車の初めての車検である。愛車、という呼び方はいささか大層な気がするが、気に入って乗っているし、広い意味でなら愛着もあるし、もちろん粗末に扱う気持ちは微塵もないので、やはり愛車なのだろう。    あらかじめマップアプリでディーラーまでの距離を測ってみると6.3㎞ということだったので代車の手配を断りもう一つの愛車である折り畳み自転車を自動車に積んで現地へ向かった。自転車に対する愛車呼びっぷりも自動車のそれとまあ似たようなことである。  朝10時に車を預け、出来

          自動車と自転車と映画館

          科学的な非科学的なものたち

           お化けだとか幽霊だとか前世だとか、現在の科学と照らし合わせるとおよそ非科学的と呼ばれる類のものを信じるか信じないか論争の中に身を置くことを僕は好まない。  また、この手の話をするときには僕があまり好きではない表現を用いることが皮肉なほどに便利であったりする。  例えばこのような論争は「生産的ではない」、「建設的ではない」みたいなことである。特にどうという理由があるわけではないけれど、何か血の通わない表現だなあと常々感じているのだ。  霊が見えるという人がいるなら、そして

          科学的な非科学的なものたち

          僕の休日

           旬というものは割と大切な考え方であると思っている僕である。  全国民にとってゴールデンなわけではないのだろうけれど、それでも何となく今年はそのゴールデンに乗っかれたような気がしている。  そんな旬な話をつづろうとキーを叩いているわけである。  今年の3月くらいを境に僕の生活は一変と言っていいほどがらりと変わった。家庭の事情で、という何とも含みを持たせた言い方になるが、それほど何も含んでいない所謂家庭の事情で春までは心も体も忙しい状態が数年続いていたのだけれど、そのことから

          たようせいのひつようせい

           カテゴライズということにとても無機質で寂しい印象を受けるときがある。  また一方でカテゴライズすることの便利さとパズルのピースがうまくはまった時のような気持ちよさを感じることもある。    多様性について考えるとき、差別や区別の前に必ずカテゴライズの作業が意識的、無意識的に行われている。改めてそのことを認識するのは一つとても大切なことであると僕は思っている。  そこには、異なるもの、という考え方が存在している。女性でいることというのは男性とは異なるものであること、のような

          たようせいのひつようせい

          折衷の可能性

           昨今ハイブリッドという発想が便利に使われているように感じる。  ハイブリッド自動車の出現でそのイメージに引っ張られているところも大いにあると思うのだが、ハイブリッドという言葉から僕は近未来に追いついたようなSF的イメージを受けている。  似たような意味の言葉でも、横文字と従来の日本語では随分と印象が違うことがある。ハイブリッドは折衷という日本語にしてしまって差支えのない場合が多いのではないか。  僕は、もちろんと言っていいほどの当然さで、折衷、と表現される方がなじみがあり

          吹奏楽部

           高校時代の思い出、という言葉の塊は僕にとってイコール部活動であった。比喩でも誇張でもなく部活以外の思い出は殆ど思い出せない。    吹奏楽部。いろいろなクラブ活動がある中で文科系のクラブではこれに所属していたという人口はそこそこ多いのではないかと思うが、それでも厚かましく吹奏楽は僕のアイデンティティだと言っていいほどの割合を占めていた。  僕の高校は、吹奏楽部としては弱小高校と呼ばれるようなものであったけれど、その中で自分なりに目標というか守るべき自尊心というか、いわゆる

          始まりを終えて

           今月の振り返りを書き始めている今は4月30日の午後7時半である。この記事を投稿するタイミングが5月に突入していようとも、今この瞬間の日時がこの記事において有効となるのである。僕はついに時間をも超越してしまった。    はい、文字数を稼ぐ大作戦でございました。  毎月、特別に一か月を振り返ろうという発想はないのだけれど、今年僕を取り巻く環境は、4月のとても4月らしいところを感じるような4月であった。  僕は、ではなく僕を取り巻く環境は、としたのはその言葉通りの意味で、僕自

          好きとか嫌いとか学びとか

           大きな変化がある時期というのは、一つの時間の中に色々なことが凝縮されている可能性が高いわけで、何かを学ぼうとする姿勢でいるものにとってはその材料に満ち溢れているのかもしれない。    このように無責任に、いつものごとく取り留めもないようなリズムで考えとも呼べないようなものを頭の中に走らせてはみたものの、なかなかそのことを検証しようという気すら起きない。  なぜそう無責任でいるかといえば、果たしてそうだろうか、な部分が多すぎるわけである。  つまり、特に凝縮された時間を感じ

          好きとか嫌いとか学びとか

          ふつう

           これまで僕が他の媒体で発信するときや誰かと話すときに、極力自分の嫌いな物、人、の話は避けるようにしてきた。  嫌いなことを伝えることは特にダメなことだとは思っていないのだけれど、何かを否定するということには強い違和感を持っていて、その「否定」と「嫌い」が受け取り手の中でごちゃまぜになってしまうことを懸念するあまりのことである。  そのような前置きをして今回書きたいことというのは、普通、ということについてである。  特に人物評においての普通という表現にこだわる感じが僕は嫌い

          こーしーの話

           大学生の頃、コーヒーに凝った時期がある。  以前別の記事でも少し触れたような気がするが、道具にこだわり、豆にこだわり、挙句の果てには生豆を焙煎しようというところまで挑戦した。  なかなかに自己満足の世界を展開していたように思う。  そしてその自己満足はとても拙い世界ではあったが、振り返って恥ずかしく頬を赤らめなければならないようなものではない。  僕が思う大学生なりの粋なままごとを楽しんでいたような感覚がある。  今はあのころとは全く違った形で、それでもコーヒーは僕にとっ