こーしーの話

 大学生の頃、コーヒーに凝った時期がある。
 以前別の記事でも少し触れたような気がするが、道具にこだわり、豆にこだわり、挙句の果てには生豆を焙煎しようというところまで挑戦した。
 なかなかに自己満足の世界を展開していたように思う。
 そしてその自己満足はとても拙い世界ではあったが、振り返って恥ずかしく頬を赤らめなければならないようなものではない。
 僕が思う大学生なりの粋なままごとを楽しんでいたような感覚がある。

 今はあのころとは全く違った形で、それでもコーヒーは僕にとって気持ちの整理のアイテムとして欠かせない存在である。
 このようなテーマで記事を一つ書き上げるようなことでもなければ、わざわざコーヒーと僕との関わりを考えてみるということはなかったのだろうけれど、じっくりとどのような感覚でコーヒーを飲んでいるかと思い返してみても、のどの渇きを癒すためということはないように思う。

 僕は若いときからコーヒーは大抵ブラックで飲んでいた。大人ぶりたいという思いが全くなかったかと言えば自信はないけれど、純粋に好きな飲み方がブラックだっただけなのである。
 僕はコーヒーの香りがとても好きで、それはアロマディフューザーを焚く人の感覚とおそらくはほとんど同じなのだと思っている。
 ミルクを入れたコーヒーでは僕にとってのアロマの役割としてのコーヒーの香りではなくなってしまうのだ。やたらと「の」の多い一文なのは自覚しているが伝わりやすさを優先したためである。と、言い訳をしてしまう僕は未熟であると思いながらもヤメラレナイトマラナイ…。
 
 そしてブラックに砂糖だけを入れる飲み方は単純に好みではない。だからコーヒーはブラックに限るのである。

 実に手軽で確実性のある気分転換の手段、それが僕にとってのコーヒー時間である。リフレッシュである。
 関西ではポーションに入った疑似ミルクのことをフレッシュと呼ぶが、フレッシュを入れないコーヒーこそが僕にとってのリフレッシュだということは実に皮肉である。いや、実に、というほどでもない。少々大袈裟過ぎた。
 人の気分を左右するのに香りの要素は極めて重要な役割を果たしているのだなと感じる。聞くところによると記憶をよみがえらせるためには思い出に残る香りなどがスイッチになることが多いらしい。記憶をつかさどる脳の領域が香りを処理する脳の領域と隣り合ってるためだとかなんとか…。

 僕がコーヒーを飲んで何かを思い出すわけではないけれど、コーヒー片手に読書何kをした時には、これこそがノスタルジィと呼ぶものではないかというような思いにふけるのである。

 


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