ふつう

 これまで僕が他の媒体で発信するときや誰かと話すときに、極力自分の嫌いな物、人、の話は避けるようにしてきた。
 嫌いなことを伝えることは特にダメなことだとは思っていないのだけれど、何かを否定するということには強い違和感を持っていて、その「否定」と「嫌い」が受け取り手の中でごちゃまぜになってしまうことを懸念するあまりのことである。

 そのような前置きをして今回書きたいことというのは、普通、ということについてである。
 特に人物評においての普通という表現にこだわる感じが僕は嫌いなのである。そう、ここで誤解をしてほしくないために、最新の注意で冒頭の前置きが必要だったのだ。
 飽くまでも「嫌い」なだけであり、その在り方を否定する意図は微塵もない。

 ふつう、という響きに敏感になりすぎて「普通って何?」と目くじらを立てる感じが物騒に感じる。
 いや、言いたいことはわかるのだ。わかるのだけれど、その圧必要?
 かといってマジョリティを普通であるという価値観を押し付けようとするわけでもないし、僕自身そう思っているわけでもない。
 ただ、話の流れで、なんとなくわかるよね?わかろうとする努力はできるよね?と思わざるを得ない。
 
 確かにその線引きはとても難しいものではあるかもしれないけれど、お互いに自分の価値観こそが正義であると思うのは危険な気がしてならないのである。
 理屈とは切り離したところで、思いやりとか、血の通ったコミュニケーションを取る努力を最大限怠らないようにすることが肝要ではないのかと常々思うのである。

 僕が普通だと表現するものは僕にとって普通だと感じるものであって、それ以外の意味をほとんど含まないことは共通認識として持っているものだと思うのは僕の自分勝手な理屈なのだろうか。
 
 そのことに異論を唱えてくる人の方が僕には異端な感じがするのだけれど、その価値観を押し付けるのは絶対に違うと思うし僕の主義でもないように思う。
 
 何はともあれ、できるだけ波風を立てないように生きたいと思うからこそ、波風の立ちそうなテーマを取り上げることになっている僕は、世間でいうところの普通なのかどうかはわからない。

 村田沙耶香先生「コンビニ人間」からのインスピレーション。ご一読を。

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