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里子の三日月:ショートショート

 県立S高校の2年生たちは、厳格なヒエラルヒーがあった訳ではないが、里子の美は圧倒的な支持を得ていた。男子からはもちろん、彼女に寄せられる女子たちの好意は、質、量、ともに男子のそれを遥かに凌駕していた。とういよりかは、女子の方が堂々とそうすることができたといった方が正確かもしれない。

 一方、潤太という少年がいた。彼は男子からは好かれていたが、女子からは嫌われていた。最近はめっぽう大人しい彼であるが、1年生のとき、女子の前でちょっとひょうきんを演じてウケを狙おうと思い、コンドームに水を注入して振り回してみたところ、それはそれはもう壮大にスベりこけ、男子たちの笑う声を掻き消すほどに女子たちの悲鳴が校舎に響き渡ったのだった。
 彼は当時F組だったが、たちまちに噂は最も離れた里子のいるA組にまで広がって、彼の高校生活は始まって間もなく終わりを告げることとなった。

 里子がこんなに人気を得られたのは、なにも顔が美しかった事だけに起因しているわけではなかった。顔の造形はさることながら、彼女は心も美しかったのだ。彼女は純真で偏見がなかった。だから例えば男子からろくすっぽ相手にされない哀れな女子たちも、彼女からすればあまり仲良くするメリットはなさそうであるが、人柄さえ良ければ里子は根暗の帰宅部だって受け入れるのだった。
 かくて彼女たちは復讐を果たす。男子たちが恋焦がれ、それでいて大方が近寄れない高嶺の花の周囲を、胡蝶のようにひらひらと舞い、その蜜を味わう、こんなに愉快なことはなかった。

 あるいはまた、彼女に近づきたい男子たちとのパイプライン的な役割を果たすことだって出来た。言い換えれば彼女と仲良くするだけで、男子たちの見る目も変わり、ひょんなことから恋に発展することもままあった。たとえば佑二と英子なんかは、里子目当ての佑二が、彼女の前で英子を良く扱ってみせることでいい人アピールをしているうちに、彼は本当に英子に惚れてしまったのである。

 こうして里子は、平和の象徴となったのだが、現実の俗世に身を置かない訳にはいかないのだから、王家のように誰に対してもただ笑顔を振りまけばいいというものではなかった。
 一般にこの場合を、八方美人と呼ぶ。

 ある女子が「なんで男子たちっていっつもああなのかしら」(《男子たち》という言葉に彼女は無意識に嘲りの意を込めているが、区別の願望がそこにはあって、彼女が良く思っている数少ない男子は男子と呼んではならなかった)——という古今東西お決まりの軽蔑を嘆けば里子は、「ほんとね、やんなっちゃう」と同調したし、そんな男子を彼氏に持つ女子がいれば、「彼、ああだけどこういときはこうでいいよね」とお墨付きを与えてやった。

 しかし2年生の夏休みが終わったころ、この秩序を大いに揺るがす激震が走った・・・

 ちなみにそのころの潤太といえば、本来は明るい笑顔の持ち主であったが、すっかり意気消沈していて、ときおり仲の良い男子たちと談笑して高笑いを上げることはあったものの、彼が笑えば笑うほど、女子たちの癪に障るのだった。多感な年頃の女子が「男子たちって鈍感で羨ましいわ」と思うのに反して意外にも敏感な彼は、笑うたびにその気配を感じ取り、ますます鬱を強めるという悪循環だった。彼のような脱落組は他にも複数人いたが、そんな権力には怖気づかない彼らはたくましくも反発しておちゃらけの度合いを強めるという、たとえば階上から水風船を投じて浴びせるなど・・別のタイプの悪循環があった・・・

 
 蛇足はさておき、それは夏休みのことだった——

 潤太は補習を受けに登校した。それは期末試験で赤点だった古文の補習だったが、平均点が76と激甘のテストだっただけに、補習の対象となったのはわすかに数名だった。しかしこのレベルともなれば、真面目に補習を受ける者は彼くらいだった。

 潤太にもそれはわかりきっていたことで、彼が把握している数名の赤点ファミリーのうち、真面目に出席しそうな奴は1人もいなかった。

 どうせ誰もいないだろう教室が見えてくると、案の定、電気はついていなかった。廊下と隔てるのは半面がガラス窓になっている壁だったから、すぐにそうとわかる。

『おし!一番乗りかな!』

と、順番も何もないと知っていたのに、陽気に空砲を撃ってみた潤太だったが、教室から誰かのすすり泣く声が聞こえるやいなや、身の毛がよだった。

『え、だれかいる?・・・いや気のせいか』
 立ちどまり、耳を澄ませてみた。鋭くなった聴覚が、透き通って美しい誰かのすすり声を、頭のなかだけで響いているかのように錯覚させ、めまいがするようだった。

 一緒くたに混濁する恐怖と好奇心・・・どうしてか恐怖だけが麻痺して、好奇心が水を得た魚のようにいきいきと全面に躍り出てくるのだった。

 それはもう、洗脳といってよかった。

 反響する泣き声に誘われて、教室へ足を踏み入れなければならない、その先に自分がどうなろうと———絶対の正義なるものがあるとしら、この当為に違いなかった。無条件に従わなければならないという感情へ瞬く間に引き込み、どんな秀でた思考力をも押しつぶすブラックホールの凄まじい重力・・・・


 ・・・・声の主は里子だった。

 教室前方、黒板の側のドアから潤太、そして彼女は中央の列、真ん中の席——顔は隠れて見えないが姿勢や鞄のキーホルダー、筆箱などから彼女が里子だと特定できる。

『どうして—?』
と潤太が疑問に思うのは無理もなかった。里子はずば抜けて優秀ではないが、常に平均点は超えてくる人だったからだ。

 無言で立ち尽くしていると、気配に気づいたのか、里子が顔を上げて泣きっ面を見せた。一体こういうときはどう反応してみせるのが正解なのか、ただでさえ分からないのに、いっそう状況を難しくさせているのは、彼女が微動だにしないで、こぼれる涙も拭わずに、じっと見つめてくることだった。

 うろたえるばかりの潤太は、ようやく言葉が口をつく。


 「おう、おはよう」

 そそくさとドア付近の席につき、自分で自分にツッコミを入れた。『なにが《おう》だよ。話したこともないのに・・・』

 無言の沈黙のせいで、半年前にバイト代で買った腕時計が、実は秒針の音を立てることに初めて気が付いた。コクっていないのにフラれたような、余計な事実を知らされ、こんなに苛立ちを覚えることといったらなかった。

 ときどき里子は鼻をすすった。

 だがしばらくして、空耳か、あるいは聞き間違いか、いやこの2つは何が違うのか・・・とにもかくにも、潤太は法則から外れた音を耳にした。

 ぎょっと背筋が伸びる。

 鼻をすするばかりだった里子は、つと、ふふっと小さく笑ったのである。

 『なに!?いまのなに!?怖い、怖すぎる・・・』と、しかし怖いもの見たさから、自分でもそうとわかるぎこちない動きで振り返った。

 里子は泣いていたときと同じように俯きがちになって、だが微かにうかがい知れるその表情には、涙の湿っぽさもなければ、悲し気な色も帯びていなかった。その替わりに見えたのは、彼女の白くて美しい歯並びだった。鬱蒼と茂る雑木林のなかから夜空を見上げ、入り乱れる枝葉の向こうに、凛として三日月が浮かんでいるのを目にしたようだった。

 あまりに繊細な美に、どうすることもできないまま茫然としていた。

 すると、里子が、きりっとまた顔を上げて、こちらを見た。心底楽しそうな笑顔をして。

 「おはよう。よろしくね」

 潤太は頭を上下に高速に振って応答した。

「ふふっ」
と今度はしっかりと笑う里子。

 こんな雰囲気になるとすぐに距離感を見失う潤太は、生来の蛮勇にも押されて、「なんでさ、なんで泣いてたの」なんて訊く始末だった。しかしやはり、里子はやさしかった。

「なんでだろうね。でもね、べつに、理由なんてないの。でも無性に泣きたくなる。そういうときって、男子にはない?」

「うーん・・・ごめん、ちょっとわからないな。でもさ、仮にあるっていったら、けっこうキモくない?」

「ふふっ、たしかにね。あんまり男らしさ押し付けるのは好きじゃないけど、キモいや」

「だろう。キモいものはキモいんだよ。そうかでも、女子は理由もなく泣いたりするんだね」

「おかしいと思う?」

「うーん。べつに嫌いってことはないけど・・・」

言いあぐねているうちに里子が「好きでもない?」と挟む。

「いや、好きかな」
潤太は思わず心にもないことを言うのだった。

「うそ。じゃあ私たち、付き合おうよ」

「は!?え!?なんでそうなるの!?」

「だって好きって言ったじゃない」

「いやいやいやいや・・・ちょっと待ってくれよ」

「軽はずみなこと言うからそうなるのよ」
と言って里子はまたふふっと笑った。

 まるで彼女と付き合うことが罰であるかのような——本来、むしろそれは罪ではないか?というのが常人の理解するところであろうに、異常性癖にも比類するこの訳のわからない倒錯を前に考える術は全く無効となり、置かれている状況を飲み込めないまま潤太は「わかったよ」と首を横に振った。



( ´艸`)🎵🎶🎵<(_ _)>