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カオルの錯誤:ショートショート

 彼はいったい何が楽しくて生きているのだろう。照り付ける日差しに背を焼かれながら、来る日も来る日も穴を掘っては埋め、こんな意味のない退屈な仕事に従事して得られる日銭といえば、ようやく空腹を満たしうる程度の賃金だった。
 正確には、それは賃金ではなかった。労役に対する報酬ではない。では何か。言うところのベーシックインカムであるが、ただでは金をあげたくない陰湿な社会が要求した妥協案だった。
 どんなに仕事のできない不器用な連中でも、このくらいのことはできるだろう、と、しかし問題は忍耐力なのであり、この苦行に寿命を縮めてでも社会貢献をせずに金が欲しいなら、少しは恵んでやろうという魂胆だった。

 2週間に1度、ボーナスが与えられた。昨年、晴彦はこの金を半年に渡って貯蓄し、オーダーメイドのスーツと腕時計を買った。
 それから今日に至るまで、支給日になると彼は、大企業の役員になった。

 髪をきっちり整え、背筋を張って堂々と夕暮れの街中を闊歩する彼が向かう先は、雑居ビルの二階に入っている小さなスナックだった。

 目前まで来たところで、彼は一度立ち止った。ショウウィンドウに映る自分を見た。

『髪型もよし!ネクタイもよし!』

・・・ばっちりとキまっていて、直すところはどこにもないように思えるのに、もう少し良くできるのではないかと思って、人目もはばからず毛先をちょんちょんといじってみたり、曲がってもいないネクタイの結び目を左右に振ってみたりするのだった。

 よし!と、彼は愛しの想い人の待つ場所へ・・・


 カラーンと、扉のベルが鳴る。

「晴彦さーん!お疲れーっ!待ってたーっ!」

と、目を輝かせるカオル。

「お待たせ。会議が長引いっちゃってね。まったく、それで何が決まったと思う?」
「なになにー?」
「明日からまた頑張ろう、ってね」

「またぁ!嘘ばっかり!」
「いやいや、冗談だと思うだろ?俺も最初は冗談だと思ったよ。あんなに長い時間かけてね、何を互いに確認し合ったって、そりゃもうほんとに、今はこうして笑っているけど、そのときは全然笑えもしなかったよ。というより、僕もいたって真剣だったんだ。真剣に耳を傾けて、真剣に意見も言った。だけどね、ここまで歩いている間に振り返ってみたんだ。会議の内容をね。そしたらさ、本当におかしなことなんだけど、唯一みんなの意見が一致して決まったことがさ、明日また頑張ろう、だけだったんだよ。おかしいだろ?あんなに時間をかけたのに!」
「やだー、ほんとにぃ?」
「本当の本当さ。それでも、俺たちは前進したってみんな思ってるんだから。まったく、この会社はもうダメかもしれない」
「え~。そしたら晴彦さん、もう来てくれないの?」
「いや、僕がこの会社をなんとかするさ。いや、してみせるよ。君に会いたいからね」
「やだもう!晴彦さんったら!」
「もう君にメロメロさ」
「ありがと~っ」とようやく2人は乾杯した。



 「最近はどうだい。ユウくん、元気にしてる?」
ユウくんとは、8歳になるカオルの一人息子だった。

「うん2年生に上がって、やっとクラスのみんなと打ち解けられたみたいなの」
「そうか。それは良かった。でもこれから、たくさんお金も必要になってくるよね。大変だね」
「ほんとねー。三年生になったら、なんとか塾には行かせたいなって思ってるの」
と言って、カオルは、甘えるような仕草に出た。

 彼女はシングルマザーだった。自立して生活する女たちの数が着々と増えている一方で、こうして相も変わらず男に媚びている自分が恥ずかしくないわけではないが、そうも言っていられないのが現状だった。あるいは彼女は、心のどこかで、十分な機会が与えられなかった、女にとって自立は依然として狭き門で、実力がなくても出世できる機会のある男たちとは雲泥の差だ、と思うこともあり、しかもまた、晴彦のような立派で堂々とした出で立ちの男と比べて、街でみかける同じようなキャリアウーマン風の女は悉く疲れ切ったような顔をしているように見えるのだった。仮に自立できても、女は幸せになれない、でも男はみんな人生を謳歌している、と、世の不平等を恨めしく思い、欧米社会に憧れたりもするのだった。





 「さぁ、今日は帰るよ」
「え?もう?」
「実はさ、これからは夜も忙しくなりそうなんだ」

「そう、大変なんだ。さみしくなるわ」

「ごめんよ」

 こんな噓八百を言ってのける晴彦の思惑は、つまり彼の計算するところによれば、キープしているボトルの毎回の飲む数を2杯減らせば、毎月3千円が浮き、ささやかではあるけど、それだけ彼女に多く手渡してやれるというのだった・・・

 ———カラーン、と扉を開くカオル。どうも、と言って店を出る晴彦。
 
 扉が閉まり、2人っきりになった。

 「はい、じゃあ、これ」

 ニッコリ笑って晴彦は、全財産の9割9分を占める1万8千円を差し出した。

 いつもより千円札が1枚多いことにカオルは気づいていたが、特に何も思わなかった。それよりも彼女には、伝えたい気持ちがあった。

「ねぇ、晴彦さん、わたし、一緒になりたい」

 ついに、と晴彦は思った。いずれ彼女がこんなことを言いだすのではないかと常々不安に思っていた。だからある程度、心の準備はできていた。

「カオルちゃん。もう少し待っててくれ」

いじけたような素振りをする彼女。

 しかし晴彦には、彼女と接吻する権利があった。彼女の陥っている錯誤が、その権利を無効にさせるほどのものか、定かではないが、晴彦はそっと彼女の肩に両の手を添え、寄せられた口唇に自分のそれをほんの柔らかに重ね合わせた。

( ´艸`)🎵🎶🎵<(_ _)>