心が豊かであるとは

 僕には2つの大切にしている価値観があります。

・自分の「意思決定」に基づいて越境をし続けること。
・「心が豊かである」状態で死ぬこと、それはなにかを模索し続けること。

非常に抽象的なので、これらの価値観が形成されるに至るまでとそれぞれの関係性を軽く説明します。

 僕には1度、生きながらにして死んでいたなという経験があります。それは大学1年の頃です。コロナウイルスが蔓延した2020年、僕は大学1年生になりました。期待を胸に上京した僕でしたが、新種の病原体に侵された東京は、閉鎖的で殺伐とした風景だったのを覚えています。その状況下では、寂しさというものが牙を向いてくるわけですが、兄弟や多くの友人に囲まれて育った僕には、それは耐え難い恐怖であり苦痛でした。半強制的に引きこもりになった僕は、何もやる気がおきず、ただ惰性で生きる日々を送ることになります。この時、過去の自分と比較して、何かが足りないと違和感を覚えたのです。

 僕は、小〜高校までとあるスポーツに打ち込んできました。今はゆる〜くサークルで活動し、時々子供に教えている程度ですが、当時はそのスポーツと勉強だけの毎日になるくらい熱中していました。誰も見ていないところで人一倍努力し続けましたし、それがたとえ実を結ぶことがなくても、そして誰からも評価されなくても、この経験はかけがえがないものだし、これだけ努力した自分の一番の味方は自分であろうという気付きを与えてくれた尊いものでした。そう、何かに熱中できている時、人はとても強くなれるし、輝きを放つのです。

 とあるスポーツに日々を捧げていたかつての僕と、ただ今日を生きる、いや生きながらえることしかしていない僕には、この強かさ、輝きの有無という決定的な違いがありました。この事に気が付いた僕は、かつての自分の状態を「心が豊かである」と定義し、その理想へ向けた第二の人生を歩み始めることとなります。

 この様に、僕の中での人生の絶頂とは「心が豊かである」状態なので、その絶頂を感じながら死にたい、というのが人生の夢、絶対的な価値観なのです。そして、その欠片をも見出だせていない時、僕は死んでいるも同然なのです。

 それでは「心が豊かである」ためには、具体的に何をすればいいのでしょうか?結論としては何でもアリです(笑)。心が揺れる方向へ、自分の「意思決定」の下、越境(越境とは、多様なヒトやモノとの交流を通して、自身の価値観、感性を磨いていく事です)していけばいいのです。ここでミソなのが自身の「意思決定」で動くということです。選択肢が多いことは大切な要素ではありますが、それ以上に意思決定を下すということは重要です。そうすることで行動に責任と自負を持つことができ、誰にも干渉されない確固たる信念を構築できるからです。この信念の下の行動があれば、今があるのは過去の経験があったからだという解釈ができるし、未来をこの様に創りたいという願いを持つことができます。その生活は喜び、楽しさ、怒り、哀しみなど様々な感情を含んだものになるでしょうが、僕にはそれが「心が豊かである」世界にしか見えないのです。 

 ここまで、僕の人生の軸を長々とお話してきました。僕は人に会いに、また出逢いに旅に行くのが好きです。それは彼らと自身の人生の軸、それを全うするための生き方を語り合う時間がとてもワクワクするからです。全てを吸収するわけではありませんが、新たな価値観に触れるということも「心が豊かである」ために必要なことだと思うからです。明日死んだとしてもその瞬間に心が豊かであったなと思えるよう、日々の中の豊かさに目を凝らして生きていこうと思います。

 
 
 


 


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