戦争絡みの感謝状、さまざまー平時も軍にかかわるさまざまな寄付行為がありました
これまでも、軍馬調教、供出に関する感謝状など、いくつか紹介してきましたが、手許にある明治から昭和にかけてのさまざまな軍事絡みの感謝状を紹介させていただきます。当方が集めているだけでもこれぐらいはありますので、実際のところ、かなりの寄付、奉仕が軍事の関係で行われたと思われます。
年代を追ってみてみます。手元にあるうち最初期のものは、「明治二十七八年戦役」と呼ばれた日清戦争(1894ー1895年)の寄付に関するものです。こちら、長野県里山辺村(現・松本市)の資産家に対し、軍資金寄付に対する県知事からの感謝状です。
そして、こちらは日清戦争の出征兵士の家族への義捐金に対する感謝状ですが、感謝状と記帳を兼ねていたようなものです。60銭を毎月5銭ずつ12回にわたって寄付するとのことですが、戦争が終わったことから、実際は20銭の寄付にとどまったようです。長野県松本町(現・松本市)の恤兵会が、多くの人に協力を求められるよう、考えたのでしょう。
「明治三十七八年戦役」と呼ばれた日露戦争当時の軍事費献金に対する感謝状で、長野県川岸村(現・岡谷市)の人にあてたもの。ただ、感謝状といえば感謝状ですが、「献金の義は聞いておるよ」という内容。当時の県知事は国の役人であり、簡単に「感謝」などという言葉は使わなかったようです。
こちらは愛国婦人会に対し、長野県川岸小学区職員一同が出した慰問袋2個に対する感謝状です。明治44(1911)年といえば、中国では清朝を揺るがす辛亥革命の起きた年です。台湾は日清戦争の結果日本の植民地となりますが、抗日運動が現地の中国人、台湾原住民によって数多く起きていて、その討伐が何度も行われていました。これは、そんな討伐に当たっている軍隊への慰問ということになります。こうした討伐では、日本軍による残虐行為も発生しており、民家は焼くなというのに焼いたり、戦闘終了後に殺したりと、さまざまな圧迫を加えていました。
こうした軍事行動に加え、平時にも、軍事関連の寄付行為はいろいろありました。こちらは、現役を退いたり予備の兵士らでつくる在郷軍人会の活動への寄付に対する1917(大正6)年の「謝状」です。このころは第一次世界大戦中であり、軍事への関心も高かったのでしょう。玉川村分会は、長野県玉川村(現・茅野市)の在郷軍人で構成していました。
こちらも在郷軍人会関連で、長野県里山辺村(現・松本市)の戦病死者忠魂碑建設にあたり、寄付を受けたことに対する1928(昭和3)年の「感謝状」です。日清、日露、第一次大戦、シベリア出兵と戦争続きでしたが、ここらでようやく一息ついた、という感じだったのでしょうか。あるいは、大戦景気があって、その時に話が出たのかもしれません。昭和恐慌の直前の時期です。
こうした寄付も、大規模になれば座って待っているわけにはいきません。こちらは「日支事変記念長野県忠霊塔」建設の資金募集のため、松本市が出した事務嘱託状です。1934(昭和9)年とありますので、満州事変・第一次上海事変絡みのものであり、当時は普通に「日支事変」と呼んでいたのでしょう。
こちらは1937(昭和12)年11月3日の明治節に合わせ、里山辺村(現・松本市)が村の銃後資金としての寄付を受けたことに対して出した感謝状です。「感謝の意を表す」ともあり、やはり地方の町村では謝意をきちんと示しています。
こちらは、大日本国防婦人会に対し戦地へ送る毛布の寄付をした方への感謝状です。和歌山県で運動として取り組んだ可能性もあります。
こちらは、ちょっと変わったものです。長野県神郷村(現・長野市)の日中戦争からの帰還兵が、前線や出征家族への心配りに感謝して、紀元2600年の記念に楠木正成の銅像建立をしたということで、献納除幕式に当たって記念品とともに個人宛に出した感謝状です。特に寄付を受けた人へとか書いてないので、全戸に宛てて出した可能性もあります。
さて、1940年には大政翼賛会が結成され、隣組組織が整備されたことから、寄付金集めなどは隣組を通じて徹底的に行われるようになっていき、あまり庶民レベルの金銭絡みの感謝状は目立たなくなってきます。ただ、飛行機献納運動などがあり、そうしたことへの感謝状も出されていたでしょう。こちらは太平洋戦争中の1943年、飛行機の潤滑油となるヒマを栽培し、寄付したことに対する大政翼賛会の感謝状です。明治期の、居丈高な雰囲気はなくなってきている感じがします。
こうして時系列で並べると、日本の戦争の歩みと、政府や団体のさまざまな雰囲気が伝わってくるように感じます。感謝状、されど感謝状からでも、くみ取ることはできます。
願わくば、軍事と無関係な寄付行為が日常の自然な姿となるよう、願っております。自分も地域の文化財保護や国境なき医師団、能登地震被災地など、さまざまな寄付行為をしてきました。今後も、自ら率先して、小額なりとも誰かのために役立つ支援をしていきたいと思って居ます。