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戦時下、新聞社の情報競争ー日付のない号外や先刷りの張り出し準備も

 戦時下、特に日本が関係している戦争の場合、庶民が最も頼ったのが新聞の号外でした。ラジオが本格的に放送を始めるのは1925(大正14)年、庶民にラジオが普及するのは昭和に入ってからですので、それまでは号外の声が響くと相手から取りに来るといったほどだったといいます。長野県の地方紙、信濃毎日新聞は、全国紙や県内の他紙との競争もあって、日露戦争関連の号外は1904(明治37)年2月から翌年1月10日までに254回も出たということです。

1904(明治37)年7月5日発行の日露戦争の号外
せっかく出した号外を本紙に活用した1904年4月29日の信濃毎日新聞

 ライバルよりも少しでも早く号外を出そうと、奇手も繰り出されます。下写真の日露戦争の遼陽城占領を伝える東京二六新聞第一号外は日付がなく、詳細は第二号外でとしています。つまり、占領とだけ書いた号外を「日付をいれず」印刷しておき、一報が届いたら直ちに配布するという狙いです。吸って用意しておく「刷置号外」です。

日付を入れずに先づくりした号外。これなら早い!

 早いばかりではなく、目立つのも大切。下写真、長野県の諏訪新聞号外は赤い色の紙に印刷し、遼陽城の占領を伝えています。

1904年9月4日発行の諏訪新聞号外

 続いて紹介させていただくのは、日付が入っていませんが、おそらく1905(明治38)年1月2日に、長野県松本町(現・松本市)の国民新聞を扱っている新聞店2店が共同で出した号外です。「東京国民新聞社より只今左の号外送付の急電に接したり 旅順陥落せり」とあり、つまり、旅順陥落の号外を送るとの連絡があったよと、新聞店で独自に印刷したものです。これも号外の一種で、「只今号外」と呼ばれます。県内で印刷される新聞の方が早いから、県外から来る号外を待つのでなく独自にという、こちらは系列化された新聞販売店同士の競争でもありました。

松本で配られた「只今号外」

 赤い文字は、やはり目立たせる狙いがあります。1905(明治38)年5月29日付の東京朝日新聞は「大海戦 敵艦撃沈捕獲」の見出しから本文まで赤字で印刷してあります。

赤字で目立たせた東京朝日の号外
「敵艦見ゆとの警報に接し…」の有名な第一報から掲載

 ただ、赤字印刷は通常のインクより劣化が早いようで、その場限りの情報としてはともかく、コレクションには厳しいものがあります(ぐち)
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 第一次世界大戦の報道でも、号外は多数出ています。ただ、号外は無料か安価ですので、あまりに競争しすぎて経営が傾く場合もあったようです。
 第一次世界大戦で、日本は青島のドイツ軍を攻撃します。下写真はその当時の号外です。中国政府は交戦区域を指定し、戦闘終了後の速やかな撤兵を求めていました。

1914(大正3)年11月5日大阪朝日新聞号外

 ところが、日本軍は青島を占領しても居座るばかりか、交戦区域外の済南なども占領し、中国側の撤退要求には耳を貸さず、逆に「21か条要求」を突きつけてきました。日露戦争で得た南満州鉄道などの経営権や遼東半島の旅順などの租借権の期間延長、中国政府に顧問を入れることなどでした。交渉は難航し、他国からの非難も浴びたためやや譲歩し、中国側は1915(大正4)年5月9日、要求を受諾しますが、これが中国では「国恥記念日」とされ、日中間のとげとなっていきます。こうした経過も号外で次々出された様子が分かります。

1915年5月7日の中国と日本の交渉を伝える号外

 そして日本は、その後もシベリア出兵、満州事変、上海事変と戦争を繰り返しましたが、既にラジオもあり、大きな号外合戦は第一次世界大戦の、この中国との折衝あたりまでが山でした。それでも、日中戦争中には部隊の戦死者号外や、節目の戦闘の号外などが出ていて、号外の効用は健在でした。    
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 下写真は号外ではありませんが、第二次世界大戦が勃発し、ドイツ軍が電撃戦で間もなくフランスを屈服させてパリを占領しそうだというころ、大阪毎日新聞社が印刷したものです。配るのではなく店への張り出し用で、先に印刷して各販売店に用意しておき、パリ陥落の一報が入ったら空欄の日付と時間を入れて張り出すように手配したもので、その未使用品です。おそらくその後に号外を配るよう、人を手配したのでしょう。

パリ陥落前に販売店に準備させた張り出し

 手持の新聞でみると、1940(昭和15)年6月14日発行(15日付)夕刊に「独軍、パリへ入城」とありました。とすると、この張り出しの仲間たちは、その時に晴れて使われたのでしょう。

ドイツ軍パリ入城を伝える大阪毎日新聞

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 日本国内では、1937年の日中戦争開戦から紙の統制割当が始まり、割当量の中で各新聞社もやりくりせざるを得なくなりました。第二次世界大戦の勃発で輸入もますます窮屈になり、国内ストックの減少も進み、どしどし号外を出せる状況ではなくなってきました。
 号外研究家、小林宗之@kobashonenさんに伺いますと、太平洋戦争開戦時を除くと、1941年末まではぼちぼちの発行、1942年以降はかなり減り、1944年6月からは共同号外が政府の許可で終戦までに何回か出ているほか、号外形式で終戦の詔書を出した新聞社もいくつかあったということです。号外がないわけではありませんが、他の時期に比べると、やはり大幅に少ないというのが実情だということでした。
 既に紙の割当も減少に次ぐ減少で夕刊発行も停止されていくといった事情のほか、国家総動員法に基づく一県一紙への統合や、1941(昭和16)年に販売店も各紙の系列から共同販売制に移行していたこと、1945年には東京紙の疎開の意味もあった「持ち分合同」などなど、相次ぐ報道機関統合の影響で競争する必要もなくなっていた事情が、号外減少の背景にあったかもしれません。と同時に、政府の情報統制の完成も意味したのではないでしょうか。

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