言語観
こんにちは。昨日の続きですね。
昨日は、
文法という決められたルールの中、自分の思いをいかに単語を紡いで表現していくか、この表現の自由さ=不確定性こそが、阿川さんのおっしゃる「うつろいやすさ」なのではないでしょうか。
こんな感じで終わらせましたね、聞く力とはだいぶ関係なくなっちゃったけどまいっか。
言語における表現の自由さ
例えば。
イタリアへ行く
イタリアに行く
この二つの文、「に」か「へ」と言う助詞が違うだけで、全く同じ意味を伝えますよね(文法とか細かく調べたら違うのかもしれないけど、私たちの一般的な生活においては同義)
ここで「に」を使うのか「へ」を使うのかは、この文章を書いた人、もしくはこの言葉を発した人によって異なる、いわばその人の自由なのです。
他にも。
食事がしたい。
食べたい。
またまた単純な例ですが、この二つに関しても同じことが言えます。
同じことを伝えたくても、その伝え方は話者によって異なる、話者の自由です。
言語の非再現性
上の例二つは、極端に単純なものにしましたが、これがもっと高度な内容になったり、複数の文章になったらどうなるでしょうか。
同じことを伝えるにしても、表現のパターンは無限にあると思いませんか?
こうして積み重ねられた文章・言葉は、その人のオリジナリティ(=自由)によって、誰のものでもない、その人だけの創造物となります。
これこそが、言語の非再現性です。
ロボットとかsiriとかと再現性の観点から対比しようと思ったんですけど
疲れました。また明日にします、ばあい。
昨日の記事はこちら!
よろしければぜひ