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極めるほど、現実に戻る悲劇

例えば、

絵の描き始めの頃は、立体感が無かったり、左右非対称だったり、表情が作り物の様だったり、どこか現実と程遠いような出来上がりとなる。

それでも続けて描いたり作ったりしていると、凹凸の表現や、距離感、違和感がなくなり、現実と変わらなくなり始める。

そうすると、「制作物」ではない、「現実とどこが違うか」という見方になり、制作物という概念が薄れる。

制作物であった頃の「良い悪い」という評価が、現実との比較の「合っているか合っていないか」「正しいか正しくないか」という判断になり始める。

例えば、

人は何処にも居るから、じゃあ人間って何なのか考えたとする。目の前にいる人間と、自分という認識のある何かと、人間という人間の定義と、生物的人間と、人間とされている人間と、おそらく居るだろう人間と、色々巡ってみたとする。

無造作に存在する人間から、人間の定義を構築し、人間の成り行きや仕組みなり考える。

そうすると、「目の前の何か」は「現存する何か」となる。空や風のような風景が流れるものではなく、在る物であるなという確信になる感じ。

思考の渦から帰ってきたとも見えるが、なんて言うんだろ。空が届かないものではなく、触れることが出来ることになったみたいな。今、やっと触れるようになったという事は、今からがスタート的に現実に引き戻される。

例えば、

何も知らない分からない状態から、何かを始めたとする。聞いて見て聞いて試して試して見て聞いて試して、を出来るまで繰り返す。

「覚えた」。1から100まで全て、初めから最後まで全て、各段階から派生する例外も含め、覚え終えたとする。これはその分野に関して、特に知らない分からない部分が無い状態とする。

改造と改良を調節する。やっていいならいくらでも。最高の状態の更新を常に行う。更新の限界を知る。

最良ではない更新の限界とは、最良を考えつくした上での妥協となる。これは、理想というただの「ないもの」となり、現実こそ理想となる。

知ってて出来ない終了ほど悲しいこともないと思う。

で、知らない分野に引っ越しに行こうかなーという終わり。


おわり。



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